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いつか離れる日がくると知っていたのに~βに恋したΩの話~
二十年目の春
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***
「……もう、春か」
結婚して二十年目の春。
ベッドから見える窓の外の景色に、四季の移り変わりを感じて、俺は目を細めた。
一年前のある日から、俺は床に臥すことことが多くなった。
心の張りを失い、表情も感情も抜け落ちて、まるで人形のようになった。
抜け殻のような俺を、夫は健気にも毎日見舞い、そして愛を囁いていた。
けれど、それもどうでも良かった。
心を置き忘れたような顔で笑って見せる俺に、夫は悲しげに眉を落としていた。
薄紅の花弁が風に舞う様は儚げで潔く、けれど見る者の記憶へ鮮明に己の姿を刻みこむ強かさがある。
「修一のいるアメリカにも、同じ桜が咲くのかな」
一年前。
修一がテレビでインタビューされているのを見た。
ベータで初めて、バーバード大学の教授となった修一を、「あり得ない快挙」「現代の東洋の奇跡」と賛美する司会者に、修一は少しだけしわの目立つ口元に困ったような笑みを載せた。
「ベータとは言っても、しょせんは同じ人間ですからね。そこをあまり褒められると、居た堪れません」
ベータであるがゆえに旧態依然な学問の世界で蔑まれて邪魔されたことも、ベータであるがゆえに過剰に賛美されたこともあった。
そう認めた上で、修一はまっすぐな目で言い切る。
アルファもベータもオメガも、同じだ、と。
「人間の本質に性など関係ありません。心を決め、諦めず努力を続けたから今があるのです」
だから、性ではなく、自分の業績(しごと)を見て欲しい。
そう穏やかな顔で語り、修一はくしゃりと笑う。
謙虚さの中に明確に表示された性差別への反論に、世間は息を呑んだのだ。
「修一は、すごい……」
録画してあるインタビューを何度も繰り返し見ながら、俺は静かに息を吐く。
二十年ぶりに目にした修一は、すっかり四十歳の成熟した男の顔をしていた。
年相応の落ち着きと色気を兼ね備え、完成した美しさをもつ男だ。
そして。
つい目をやってしまった左の薬指には、無骨な鉄の輪が巻きついていた。
まるで枷のようなそれは、誰かが修一を拘束している証だ。
それを見た瞬間、自分の中の何かが崩れていくのを感じたのだ。
自分は他の男と結婚して、子供まで産んでいるくせに。
引き裂かれた恋人は、俺だけを思っていてくれると信じていたのだ。
あの当時の関係が、恋人であったかすら、怪しいものなのに。
けれど、すっかり抜け殻のようになった俺は、むしろ穏やかに日々を過ごすようになった。
現世への執着がさっぱり失せて、もう何一つ望むものはない。
繰り返す一日を、ただゆるやかに息をして過ごす。
テレビの中の修一に目を細め、修一の健康と成功を喜んで、彼の幸せを祈って過ごすのだ。
それはある意味、とても満ち足りた毎日だった。
俺は、満足していた。
満足していた、はずだったのだ。
こんな、幸せなど。
望むことすらしていなかった。
「ただいま、貴志」
「しゅ、いち」
私室の扉を許しもなく開き、現れたのは、夢にまで見た男だった。
目を見開いたまま固まる俺に、幻覚が笑いかける。
「やっと会えた」
「う、そ……本物のわけ……」
「本物の修一だよ」
信じられないと首を振り、怯えるようにベッドの中で後ずさる俺に、修一は困ったように苦笑する。
目を閉じたら消えてしまうのではないかと不安で瞬きすらできない俺の頭を、懐かしい仕草でふわりと撫でて、優しく告げた。
まるで昔のように。
「薬を持ってきたんだ」
「え?」
掌に乗っているのは、褐色の小さな錠剤。
これは何かと問いかける俺の視線に、修一は深い笑みを見せた
「これは、……オメガの『性』を抑える薬だよ」
ヒュッ、と息を呑んだ俺を、修一は静かに見つめた。
「オメガの本能を、ほとんど完璧に抑え込む。発情期の過剰なヒートも、番契約による制限も外れる」
「嘘だ、そんな薬、ありえない……」
呆然と呟く俺に、修一は得意げに「嘘じゃない、本物だ」と請け負う。
「俺がお前に、嘘なんかつくわけないだろ」
パチリと、昔に比べてやけに上達したウインクを見せて、修一は俺の手を取った。
「これを内服すれば、お前は解放されるんだ。オメガの鎖から」
オメガの性から自由になる。
己の心のままに選択し、心のままに生きる。
それは、青臭かった頃の俺が抱いていた、途方もない夢だ。
ヒートやフェロモンに振り回されることなく生きたいと願っていた幼い俺が、いつか作りたいと願っていたもの。
己の意思でオメガの性を抑えることのできる、夢のような薬。
けれど同時に、生まれついての性を殺すそれは、きっと悪魔のような薬だ。
掌に載せられた小さな粒に俺は戸惑い、そしてパニックに近いほど高揚していた。
「どうし、て……どうやって……」
「作ったんだよ」
途切れ途切れの俺の言葉に、修一は当然のような声で、とんでもない事を言った。
「なっ!?」
いっそ人の領域から外れた効果を持つ薬を、自分が作ったのだとこともなげに告げて、修一はわざとらしいほど大仰に説明した。
「お前の代わりにお前の夢を叶えようと思った。叶えられるまでは日本に戻らないと決めた。でも、大変だったよ。なにせ、これまで数多のアルファが挑戦し、達成出来なかった偉業だよ?褒めてくれよ」
まぁ、アルファは本気でオメガの性を潰そうとなんてしていなかったんだろうけど。
そう笑って、修一は目を細める。
「間に合って良かった。貴志の正気があるうちに」
言葉を失って、修一を見上げるばかりの俺に、修一は泣きそうに顔を歪めた。
「本当に、良かった……俺たちがまだ生きているうちで」
「しゅう、いち……」
抑えきれないような涙声で囁いて、修一はそっと俺の頬を両手で包み込んだ。
額を合わせるように、そっと顔を近寄せた修一が、吐息のよな声で聞いた。
「ねぇ、貴志。まだ俺のこと愛してる?」
「っ、ば、かやろ」
自信なさそうに問いかける声に喉が詰まって、俺は白髪の混じる黒髪を乱暴にかき混ぜながら、涙声で詰った。
「愛してなかったら、こんなに延々と、お前のことばっかり求めなかったよっ!」
形の良い頭を痩せた胸に抱き込んで、俺は声の限りに叫んだ。
これまので苦しみを全てぶつけるように、理不尽極まりない怒りをぶつけた。
「お前、来るの遅いんだよっ!俺が、どんなに」
あの雨の夜、一緒に逃げてくれなくてどれほど悲しかったか。
この二十年の間、俺がどれほど修一に会いたかったか。
子供のように泣き出した俺を、優しく胸に閉じ込めて、修一は笑う。
「そっか……じゃあ、頑張ってよかった……」
「ひっ、こ、の、大馬鹿野郎っ」
しゃくりあげながら、厚い胸板を叩いて詰る。
さぞ聞き取りにくいだろう俺の話を、修一はただ静かに頷いて聞いてくれた。
筋力の落ちた細腕では大したダメージもなく、俺の泣きながらの告白を聞いて、修一は穏やかに笑むばかりだった。
「……もう、春か」
結婚して二十年目の春。
ベッドから見える窓の外の景色に、四季の移り変わりを感じて、俺は目を細めた。
一年前のある日から、俺は床に臥すことことが多くなった。
心の張りを失い、表情も感情も抜け落ちて、まるで人形のようになった。
抜け殻のような俺を、夫は健気にも毎日見舞い、そして愛を囁いていた。
けれど、それもどうでも良かった。
心を置き忘れたような顔で笑って見せる俺に、夫は悲しげに眉を落としていた。
薄紅の花弁が風に舞う様は儚げで潔く、けれど見る者の記憶へ鮮明に己の姿を刻みこむ強かさがある。
「修一のいるアメリカにも、同じ桜が咲くのかな」
一年前。
修一がテレビでインタビューされているのを見た。
ベータで初めて、バーバード大学の教授となった修一を、「あり得ない快挙」「現代の東洋の奇跡」と賛美する司会者に、修一は少しだけしわの目立つ口元に困ったような笑みを載せた。
「ベータとは言っても、しょせんは同じ人間ですからね。そこをあまり褒められると、居た堪れません」
ベータであるがゆえに旧態依然な学問の世界で蔑まれて邪魔されたことも、ベータであるがゆえに過剰に賛美されたこともあった。
そう認めた上で、修一はまっすぐな目で言い切る。
アルファもベータもオメガも、同じだ、と。
「人間の本質に性など関係ありません。心を決め、諦めず努力を続けたから今があるのです」
だから、性ではなく、自分の業績(しごと)を見て欲しい。
そう穏やかな顔で語り、修一はくしゃりと笑う。
謙虚さの中に明確に表示された性差別への反論に、世間は息を呑んだのだ。
「修一は、すごい……」
録画してあるインタビューを何度も繰り返し見ながら、俺は静かに息を吐く。
二十年ぶりに目にした修一は、すっかり四十歳の成熟した男の顔をしていた。
年相応の落ち着きと色気を兼ね備え、完成した美しさをもつ男だ。
そして。
つい目をやってしまった左の薬指には、無骨な鉄の輪が巻きついていた。
まるで枷のようなそれは、誰かが修一を拘束している証だ。
それを見た瞬間、自分の中の何かが崩れていくのを感じたのだ。
自分は他の男と結婚して、子供まで産んでいるくせに。
引き裂かれた恋人は、俺だけを思っていてくれると信じていたのだ。
あの当時の関係が、恋人であったかすら、怪しいものなのに。
けれど、すっかり抜け殻のようになった俺は、むしろ穏やかに日々を過ごすようになった。
現世への執着がさっぱり失せて、もう何一つ望むものはない。
繰り返す一日を、ただゆるやかに息をして過ごす。
テレビの中の修一に目を細め、修一の健康と成功を喜んで、彼の幸せを祈って過ごすのだ。
それはある意味、とても満ち足りた毎日だった。
俺は、満足していた。
満足していた、はずだったのだ。
こんな、幸せなど。
望むことすらしていなかった。
「ただいま、貴志」
「しゅ、いち」
私室の扉を許しもなく開き、現れたのは、夢にまで見た男だった。
目を見開いたまま固まる俺に、幻覚が笑いかける。
「やっと会えた」
「う、そ……本物のわけ……」
「本物の修一だよ」
信じられないと首を振り、怯えるようにベッドの中で後ずさる俺に、修一は困ったように苦笑する。
目を閉じたら消えてしまうのではないかと不安で瞬きすらできない俺の頭を、懐かしい仕草でふわりと撫でて、優しく告げた。
まるで昔のように。
「薬を持ってきたんだ」
「え?」
掌に乗っているのは、褐色の小さな錠剤。
これは何かと問いかける俺の視線に、修一は深い笑みを見せた
「これは、……オメガの『性』を抑える薬だよ」
ヒュッ、と息を呑んだ俺を、修一は静かに見つめた。
「オメガの本能を、ほとんど完璧に抑え込む。発情期の過剰なヒートも、番契約による制限も外れる」
「嘘だ、そんな薬、ありえない……」
呆然と呟く俺に、修一は得意げに「嘘じゃない、本物だ」と請け負う。
「俺がお前に、嘘なんかつくわけないだろ」
パチリと、昔に比べてやけに上達したウインクを見せて、修一は俺の手を取った。
「これを内服すれば、お前は解放されるんだ。オメガの鎖から」
オメガの性から自由になる。
己の心のままに選択し、心のままに生きる。
それは、青臭かった頃の俺が抱いていた、途方もない夢だ。
ヒートやフェロモンに振り回されることなく生きたいと願っていた幼い俺が、いつか作りたいと願っていたもの。
己の意思でオメガの性を抑えることのできる、夢のような薬。
けれど同時に、生まれついての性を殺すそれは、きっと悪魔のような薬だ。
掌に載せられた小さな粒に俺は戸惑い、そしてパニックに近いほど高揚していた。
「どうし、て……どうやって……」
「作ったんだよ」
途切れ途切れの俺の言葉に、修一は当然のような声で、とんでもない事を言った。
「なっ!?」
いっそ人の領域から外れた効果を持つ薬を、自分が作ったのだとこともなげに告げて、修一はわざとらしいほど大仰に説明した。
「お前の代わりにお前の夢を叶えようと思った。叶えられるまでは日本に戻らないと決めた。でも、大変だったよ。なにせ、これまで数多のアルファが挑戦し、達成出来なかった偉業だよ?褒めてくれよ」
まぁ、アルファは本気でオメガの性を潰そうとなんてしていなかったんだろうけど。
そう笑って、修一は目を細める。
「間に合って良かった。貴志の正気があるうちに」
言葉を失って、修一を見上げるばかりの俺に、修一は泣きそうに顔を歪めた。
「本当に、良かった……俺たちがまだ生きているうちで」
「しゅう、いち……」
抑えきれないような涙声で囁いて、修一はそっと俺の頬を両手で包み込んだ。
額を合わせるように、そっと顔を近寄せた修一が、吐息のよな声で聞いた。
「ねぇ、貴志。まだ俺のこと愛してる?」
「っ、ば、かやろ」
自信なさそうに問いかける声に喉が詰まって、俺は白髪の混じる黒髪を乱暴にかき混ぜながら、涙声で詰った。
「愛してなかったら、こんなに延々と、お前のことばっかり求めなかったよっ!」
形の良い頭を痩せた胸に抱き込んで、俺は声の限りに叫んだ。
これまので苦しみを全てぶつけるように、理不尽極まりない怒りをぶつけた。
「お前、来るの遅いんだよっ!俺が、どんなに」
あの雨の夜、一緒に逃げてくれなくてどれほど悲しかったか。
この二十年の間、俺がどれほど修一に会いたかったか。
子供のように泣き出した俺を、優しく胸に閉じ込めて、修一は笑う。
「そっか……じゃあ、頑張ってよかった……」
「ひっ、こ、の、大馬鹿野郎っ」
しゃくりあげながら、厚い胸板を叩いて詰る。
さぞ聞き取りにくいだろう俺の話を、修一はただ静かに頷いて聞いてくれた。
筋力の落ちた細腕では大したダメージもなく、俺の泣きながらの告白を聞いて、修一は穏やかに笑むばかりだった。
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