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いつか離れる日がくると知っていたのに~βに恋したΩの話~

希望という名の酸素

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週末に結婚式を控えたある日。
最終打ち合わせという名目の『デート』で、男は苦しげな顔で尋ねた。

「何故、君は私に心を開いてくれないのですか?もうすぐ私たちは、夫婦になるというのに」
「……っく」

これほど自分が心を砕いているのに、と悲しむ男に、俺は思わず喉を鳴らして笑ってしまった。
なんて傲慢な悲嘆だろうか。
さすが名門のアルファだけある。
そう心の中で嘲りながら、表面上は困ったように微笑んで見せた。

「おかしなことを仰いますね。僕はあなたと打ち解けるように努めておりますよ?それに、まだ出会ったばかりです。会ったばかりの相手に心を開く、なんて、なかなか難しくはありませんか?」

心を開いていないことを否定はせず、「無茶を言うな」とやんわり伝えれば、男はもどかしげに叫んだ。

「でも!私たちは運命の番なのに!」

運命の番。
確かにこの男からは、他のアルファとは違う匂いがする。
鼻腔から中枢神経を侵し、俺を狂わせる香りだ。
理性も感情も握り潰してこの男の性器に飛びつけと唆すこの香りが、運命の番の証ならば、なんと即物的で醜悪なのだろうか。
発情期の獣以下の見苦しさに、吐き気がするほどだ。

「どうか落ち着いて下さい。たとえ運命の番であったとしても、一人と一人の違う人間同士……分り合いには時が必要です。そうではありませんか?」

悪態をつきたくなる内面の激情を押し隠して穏やかに諭せば、男は苛立たしげに拳を打ち付けた。
物狂おしい表情は、思い通りにならない俺への怒りが滲んでいる。

「どうして……君は……」

絞り出された声が狂気を孕んでいる。

「なぜいつも、冷めきった目で私を見るのですか?君には、互いを求め合うこのフェロモンが感じられないのですか!?」
「……ふふ、さて、どうしてでしょうね?」

感情が抑制出来なくなったのか、激昂する男からは、湯気のように強い香りが立ち上る。
男の理性の糸は、切れかけているようだった。
そのことを察していながらも、ささくれだった俺の感情は、愚かにも、男の怒りに油を注ぐことを望んだ。

「君に、愛する人がいることは知っています」
「……おや、おかしなことを仰る。愛する人がいれば、他の人との結婚になど応じたくありませんよ?」

他に愛する人がいると肯定もせず、かと言っていないと否定もせず、男の感情を逆撫でするように、俺はうっそりと笑む。

応じない、とは言わない。
応じざるを得ないのだから。

アルファである親と、アルファであるこの男に望まれて、オメガである俺には拒否権も選択権もない。

頬に左手を添えて、訝しむように首を傾げる。
皮膚に触れた金属の硬さと、馬鹿げたダイヤモンドの重さが苛立ちを煽り、俺は憂さ晴らしのように目の前の男を挑発した。

「それに、もしそうだとしても、どうするのですか?結婚を取り止めたいと仰るのでしたら、あなたからお願いします。私からはとても申し上げられませんので」
「やめてくれ!」

悲鳴のような声で俺の言葉を遮り、男はテーブルにA4サイズの封筒を叩きつけた。

「もう分かっている!君のことは調べた!君の……ベータの想い人のことも」

封筒から滑り出た写真には、楽しげな笑顔を浮かべて、優しい目で俺を見下ろす修一が写っている。
俺の幸せの象徴のような写真を見下ろして、男は低く吐き捨てた。

「この男がいるから、……君は私を受け入れないのでしょう?」
「…………どういうおつもりですか?」

低く抑えられた男の声には、隠しきれない憎悪が滲んでいる。
ぶわりと腹の奥から怒りが膨れ上がり、俺の周囲から音が消えた。

「もし、修一に何かしたら、……許さない」

お前を殺して俺も死ぬぞと、視線に射殺さんばかりの殺気を込める。
これまで被っていた「綺麗な人形」の仮面を投げ捨てて、凄まじい眼光で睨み付ける俺に、身勝手な男は傷ついたように表情を歪めた。

「何もしませんよ……私はそこまで品のない人間ではありません」

欠片も信用されていないのですね、と泣きそうに呟いて、男は顔を伏せた。
そして、ぐっと感情を嚥下してから、ゆっくりと顔を上げて、まるで非難するような目で俺を見た。

「けれど、なぜ君はそこまであの男に執着するのです?フェロモンも容姿も、あの男はまるで私のコピー商品だ。私の方が本物です。それなのに、君はあの劣化版を求めるのですか?君の本能は曇ってしまったのか!?」
「ふっ……本能、ですか。まるで獣のようですね」

あまりにもふざけた言い分に、反論する気にもならず、小さく鼻を鳴らす。
揶揄うように唇を笑みの形に整えて見上げれば、男は苦しげに胸を掻き毟った。

「だって、おかしいでしょう!?……あの男が好みだと言うのなら、私でも良いではありませんかッ!」

血反吐を吐かんばかりの形相で、男は叫ぶ。
その台詞を口にすることは、これまで生きていて感じたことのない程の屈辱を齎(もたら)したのだろう。
アルファがオメガに、いや、ベータに屈するなど、もはや精神の死にも等しい。

「アルファの私が!君の想い人の、ベータの代わりでもいいと!そう言っているのです!!」
「……なるほど。ありがたいことです」

微笑みを浮かべ、冷めた目をことさらに柔らかく細めて見つめていれば、男は更に苛立つ。

「どうすれば……ッ」

呻くように言葉を絞り出し、男はマグマのようにドロドロと煮えたぎる目で、俺を睨みつけた。

バンッ

男の握り締めた拳がテーブルを叩き、机の上の物がわずかに飛び跳ねた。

「どうすれば、君は、僕を見るんだ!」

大人の男の顔を繕うことも忘れて、男は荒い呼吸を繰り返す。
荒々しく立ち上がって俺の横へ来た男の目の中には、理性の光は見えなかった。

「……どうやら、お互い冷静ではないようです」

しまった、やりすぎた。

明らかに切れてしまった男の様子に焦りを覚え、挑発しすぎた己の短慮さに舌打ちする。
爛々と目を輝かせる様に、さすがに危機感を抱いた俺は、男から視線を外して静かに言った。

「本日は失礼します。また日を改めてお話しましょう」

淡々と告げ、俺の倍ほどの厚みがある体の横をすり抜けようとした、その時。

「ははっ、帰すわけないでしょう?」
「痛っ」

右手で胴を抱き込まれ、左手で顎をギリギリと掴まれる。
本能に従う獣が荒い息を繰り返し、目の前で尖った八重歯を煌めかせた。
怒りに刺激されて興奮した男のフェロモンが、ぶわりと濃密に立ち昇る。

「う、ぁ……」

むせ返るような甘い匂いに、息苦しさすら感じた。
必死に呼吸を繰り返せば、男はうっそりと微笑む。

「貴志くん……僕は、君を愛しています」

熱い声が鼓膜を破り、溶けた目が俺の欲情を引き摺り出す。
腹に食い込むほど押し付けられた怒張に、俺の意思とは無関係に子宮がびくりと震える。
ドクン、ドクンと、心臓がうるさいほど激しく打った。

「君が手に入るのならば、なんでも良い。どうか僕の物になってください」

圧迫された下腹部から熱が高まり、欲望が形を成した。
対応不可能なほど急速に互いの体を興奮が包んでいく。

「うぅ……あぁ……っ」
「ははっ、なんて可愛いらしい!」

誘発されたヒートに、火照って震える体を抑えられない俺を、息の根を止めんばかりの抱擁が襲う。

「諦めなさい、私を受け入れなさい……どうせあの男とは、番うことすら出来ないのですから」

ガチリと首根っこを押さえ込まれ、ヒュッと息を呑んだ。
オメガの本能が、恐怖と紙一重の官能を無理矢理拾い上げる。
その意地汚いほど貪欲な獣欲に、涙が溢れた。

「あぁっ、なんてかぐわしい香り……!」

汗の滲む首に顔を寄せて、思い切り息を吸い込んだ男が、感極まるように呻いた。
男の呼吸に合わせて劣情は激しく増幅されていく。
いっそこのまま流されてしまいたいと願うほど、強烈な熱に支配される。

「っひぃ」

ふいに、肌に熱い吐息がかかり、まるで剣先を突きつけられたかのように戦慄した。

「あ……ぁ、待っ、て」

婚約者に会うときにうなじを隠すのは失礼にあたるよ、と当たり前の礼儀を教えるように告げた父の声が蘇る。

あぁ、そうだ。
今、俺の首は。
だめだ、このままじゃ。

突如突きつけられた現実に、血の気が引く。
火傷しそうに熱い息と共に首筋へ触れる歯が、まるで息の根を止める悪魔の氷牙のように思えた。

「あ……ああッ!ヤメ、テ……ッ」
「くくっ、あぁ、最初からこうすれば良かった」

恐怖にガタガタと震える俺の耳元で、正気を失った男が心底楽しげに笑う。
体温を奪うように、大きく息を吸い込み、そして。

ギリッ
「ヒイィッ」

皮膚に食い込む牙の感触に、呼吸が止まった。
うなじに感じる熱と痛みに、意識が遠のく。

「これで、もう、君は僕から離れられない」

絶望に全身が沈み、希望という名の酸素が絶えた脳は、思考を放棄した。
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