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本編

36. 乙女は鍛錬場を訪れる。

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きちんとしたドレスに着替えるのは昼食後に、としていたので、幸いにしてリィナはまだコルセットを身に着けておらず、ビスチェとドロワーズに比較的簡素なワンピース姿だった。
身体も昨晩の影響で万全とは言い難いのでそこまでしっかりと身体を動かすつもりもないけれど、動きやすいに越した事はないのでリィナはその身軽な恰好のまま鍛錬場へ向かう事にした。

「離れって、1軒ではなかったのね」
「えぇ、3軒あって、リシャール様ご一家はあちらにお住まいだそうです」

屋敷の裏手に同じ外観の建物が3軒、並んでいる。
そのうちの一番奥まった──屋敷から一番遠い1軒にアンネが足を向ける。

「本来は左右どちらからでも回れたようなのですが、今はリシャール様がお住まいの側には門を取り付けて鍵をかけてしまっているそうです」

伯爵邸は町から少し離れた小高い丘の上に建っている。
最初は町中にあった方が便利だろうにと思っていたフェリクスだが、襲撃時に屋敷の人間以外に被害が出る心配がない為、今では心底これで良かったと思っている。

そんな伯爵邸は、門から見て真正面にフェリクスの住まう屋敷がどんと構えていて、左手には厩、右手はもともとは庭園があったようだが、今はそこは数本の庭木と枯れた噴水があるだけで花壇などはない。手入れが面倒、という事らしい。
そして屋敷の丁度真裏に、離れと呼ばれているこじんまりとした──平民からするとそれでも大きめの家が3軒、等間隔に並んでいて、その裏手が鍛錬場になっている。
元の伯爵が相当な馬好きだったらしく、馬場であったのをそのままに、鍛錬場と呼び変えているらしい。
恐らくはこの馬場を作りたいが為に、町から離れたぽつんと一屋敷になっていたのだろう。

アンネがリシャール邸のドアを叩くと、すぐに応答があった。
がちゃりと中々の勢いでドアが開いて顔を覗かせた男性が、アンネの姿に目を丸くする。

「アリス様に取次ぎをお願いしたいのですが」

アンネがそういえば、男性は探る様にアンネ達を見て──そしてリィナに視線を止める。

「あれ?まさかフェリクス様の嫁さんになるっていう──??」

どうやらこちらにも話は通っているようだと、リィナは少し照れながら、はい、と頷くと、第一印象は大事よねと、男性に向かってにこりと微笑む。

「リィナ・デルフィーヌと申します。朝から申し訳ありませんが、鍛錬場の見学をしたいのです。フェリクス様からアリス様にお声がけするようにと言われましたので、取次ぎをお願いできますか?」

「うわはははははいっ!少々お待ちを!」

男性は慌てふためいて、アリスさまーーーー!と叫びながら室内へとすっ飛んで行ってしまった。

程なくして、アリスとラーシュ、ルチアまでもがやって来て、そして一同は鍛錬場へと足を踏み入れた。
そこは三方をぐるりと柵に囲われただけのだだっ広いグラウンドで、端の方にいくつか的のような物が立っているので、弓の練習も出来るようだった。
リィナは端から端まで視線を巡らせてすごい、と呟く。

「とっても広いんですね……」
「元は馬場だったようですから。 ほら、ラーシュ、行っといで」
「うん!」

アリスがパンと軽く手を鳴らすと、ラーシュが元気よく駆け出して、少し離れた場所へ移動すると準備運動を始める。
アリスもパンツスタイルなので、どうやらついでにラーシュの稽古を開始するつもりらしい。

とてとてとラーシュの後をついて行こうとしているルチアを、クラーラが手を取って付き添うのを見たアリスが「ありがとう」と声をかける。
アリスは少し考えてから、鍛錬場の端に置かれていた木剣を手に取るとアンネに視線を向けた。

「少し振っていく?」


少し、と言っていたはずなのに、すっかりそこそこに本気の打ち合いになっているアリスとアンネに、リィナはほわぁっと魅入っていた。
アンネの剣は、元々は実家の護衛を務めてくれている人達から習ったのだと聞いている。
兵士や傭兵だった人達も多かったせいか、どちらかと言うと実践向けの、泥臭い剣なのだと、アンネ本人が以前言っていた。

対してアリスはとても美しい剣だった。基礎が綺麗、と言えば良いのだろうか。
けれど型通りかといえば実戦経験からか適度に崩されているようで、時折ハッとするような手が繰り出される。

打ち合いは、徐々にアンネが苦戦しているようだった。
最初はアリスが様子を見ていた事もあるのだろう。アンネもそこそこに打ち込んだり斬りかかったり出来ていたが、時間が経つにつれ防戦一方になっているようだった。
リィナは胸の前でぎゅっと手を組んで、2人の姿を見つめていた。

「へぇ、予想以上だな」

突然頭をポンと叩かれて、リィナは顔を上げる。

「フェリクス様」

パッと顔を輝かせたリィナの髪をそのままわしわしと撫でながら、フェリクスが面白そうにアンネとアリスの攻防を眺めている。

「いつもああなのか?」
「ああ、とは?」
「服装」

言われて、リィナはアンネに視線を向けてから、はいと頷いた。
アンネは運動には不向きな、侍女のお仕着せ姿のままだ。

「アンネはいつもあの服装ですので、スカートあれで戦えなければいざという時に意味が無い、と」
「あぁ、まぁ確かにそうだな」

わしわしと撫でられていた手が離れていってしまったので、リィナはそっとフェリクスを見上げる。
視線に気づいたフェリクスが、どうした?と視線で返して来るので、リィナは小さく微笑んで首を振った。
もっと撫でて欲しい、とはさすがに子供っぽい気がして、言えなかった。

その時、場内にカンっと高い音が響いた。

リィナが慌てて目をやると、アンネの手から木剣が消えている。

「──ありがとうございました」

僅かに息を乱したアンネがアリスに頭を下げて、弾かれたらしい木剣を拾う。

「驚いた、本当にただの侍女?文句なしで騎士団に入れそうだけど」

アリスは苦笑を零しながらアンネから木剣を受け取る。

「でも、これは相当心強い。──ね、フェリクス?」

アリスがフェリクスに視線を投げて、そしてニッと愉しそうに笑う。

「そうだな。今日は……もう時間が無いか。次は俺とやれ」
「──フェリクス様の相手にはならないでしょうから、まずはご指導から、になりそうですが……」

よろしくお願い致します、とアンネがフェリクスに向かって頭を下げる。

「面白そうだね。やる時は私にも見学させて」

アンネとフェリクスにそう言って笑うと、アリスは離れたところでラーシュの相手をしているベティと、危なくないようにとルチアを抱っこしているクラーラに声をかけにその場を離れた。

「すみません、お嬢様。結局私ばかり動いてしまって……」

アンネにそう言われてリィナは首を振る。
運動をしようとは、元々リィナは思っていなかった。
散策程度の、少しぶらぶらと歩ければ良かっただけなので問題はないと伝えれば、アンネがふと納得した様に頷く。

「そうでした、まだお身体が本調子ではありませんよね。失念しておりました」
「えっ!? え、えぇ、まぁ……そう、ね……」

真っ赤になってごにょごにょと俯いたリィナを、フェリクスがはたと見つめて、そしてがばりと抱き上げる。

「ふきゃあっ!?」

突然抱き上げられて、リィナは悲鳴を上げてフェリクスに抱き着く。

「ふぇ……フェリクス様っ!びっくりするので、いきなりは……」
「あぁ、じゃあ次からは声をかける」

左腕にお尻を乗せるような、所謂子供抱きで抱き上げられたリィナは、それもそれで恥ずかしそう……と思いながら、咄嗟にフェリクスにぎゅうっと抱き着いてしまっていた腕を緩めた。
ふと、普段見上げる事しか出来ないフェリクスの顔が自分の目線よりも下にある事に気付いて、そしてリィナはきょろきょろと周りを見回す。

「フェリクス様フェリクス様!すごいです!世界が広いです!!」
「──はぁ?」

突然自分の腕の中ではしゃぎ始めたリィナに、フェリクスは首を傾げる。

「目線が高くなると、見える世界が全然違いますっ!」
「あぁ……まぁ、俺とリィナではかなり視界は違いそうだな……」

リィナはちっこいから、という言葉は飲み込んで、フェリクスはリィナを肩の高さまで押し上げると、リィナを肩に座らせるようにして、そしてしっかりと膝のあたりを抑える。

「すごい……!すごいです、フェリクス様!町まで見えそうです!!」

フェリクスがしっかり支えているからか、リィナは怖がることもなく町の方角を見てはしゃいでいる。

「うぐっ………!」
「──アリス様、俯いてはなりません。あんなに可愛らしいお嬢様のお姿を見ないなんて勿体ないです。人生半分損してしまいます」
「そうだね。あれは……やばいね。天使かな?」
「私は妖精だと思っておりますが」
「あぁ、小さい上にあのふわふわ具合は、確かに妖精の方が似合う」

「……お前ら、脳みそ沸いてんのか……?」

きゃっきゃとフェリクスの腕の中ではしゃいでいるリィナは、下で交わされているアリスと侍女達のそんな会話には気付きもせず、そしてフェリクスが若干リィナを支える腕に力を込めて、ほんの僅かアリス達から遠ざけられた事にも気付かなかった。


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