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第三章
決別
しおりを挟む昨夜は全く眠れなかった。
僕はアンティ様には何も告げないつもりでいた。初めは舞台の上から彼女を見つけるだけでただそれだけで嬉しくて。会話は弾まなくとも僕が舞台にいる間だけは彼女の視線を独り占めしていた。
お嬢様だと初めから分かっていたから諦める、と言うよりは遠くから眺めているだけで幸せだった。それが例え舞台と客席と言う距離感でも。だからあの頃ならきっと彼女の恋も結婚も子供ができても笑顔で祝えていただろう。
それがいつからか守るだのなんだのと思い上がり、自身の力不足を棚に上げて、見放し、忘れて、都合の良いように又好きになり。とんだ能天気野郎だ。
初めからもしかしてなどあり得ないことだと分かっていた事なのに、ただ眺めるだけが、おはようの挨拶をして、食事を共にし、職場で助け合い、話し、おやすみを言う事が嬉しくなり、終いにはあの夜に彼女の額に触れた唇に残った感触が、あの夜彼女からほのかに香ったピートの香りが、あの夜照れ隠しに月を見つめていた彼女の横顔が、あの夜に彼女に頼ってもらえた喜びが頭から離れなくなった。
勿論あの時はお互い演技だった。なのに…あの時間だけは本物だった、と思い込んでいたのだろうか。
今はもう僕の顔も見たく無いはず。
愛する主人と離れ離れにさせた張本人でしかも愛されているなどと知った今、嫌悪だけが強くなる筈だ。
このまま目の前から居なくなるのも手なのかもしれない。いや、それはただの逃げだ。見たく無いんだ、彼女の軽蔑するような視線も困ったような表情も。
「こんな感じかな」
逃げてしまうのは簡単だ。
だから最後まで演じて見せよう。例えどんなに憎まれようとも、醜悪だろうとも、彼女の中にほんの少しでも僕が残るならそれはそれで良い。
そしてどんな仕打ちも覚悟しよう。
ただ、皆んなにはこんなところは見られなくない。
これが最後のプライドだ。
「アンティ様、少しお話をさせて頂けますか?」
「どうぞ、入って」
「失礼します。…おはよう御座います。」
「おはよう、ルーベン」
ああ、本当に美しい。
整いすぎていて怖いくらいの顔も薄紅色に熱った頬も金糸のようにしなやかで繊細な髪も、全てが滑り落ちるような艶やかな肌も、全てを見透かすような透き通った青い瞳も。
「朝早くに申し訳ありません」
「…そうね。女性の部屋に朝から尋ねるのはやめておいた方が良いわ。それで話とはなんです?」
「こんな事言いたくはありませんが……って、もういいのか。もう繕う必要も無くなったし」
「…」
「あー、面倒だから簡潔に。あんたはあの神様に利用されている。今回の件、どう見たってあんたを餌に領主と何か交渉ごとをしたのは明らかだろ?」
「…昨日と言ってる事が違うように思いますが」
「まぁね。猫被んのも面倒だな。一々説明しなきゃなんねぇんだから。思った事ないのか?あの思わせ振りな態度はなんだ?ってさ。言う事なす事キザすぎて腹抱えて笑いたいのをどれほど我慢した事か。特にバレンタインの話は傑作だった!想い人に渡すって?アレならハボックの方が幾らかマシだよな~?初めから惑わせてるつもりがあるんだからよ」
「…」
「アンティメイティアさんよ。あんたも本当は分かっているんだろ?あんな人に想いを馳せても意味なんてないって。俺なら貴方を可愛がってあげれますよ?どうする?」
今の僕は失礼極まりない下品で汚い男。
彼女が一番嫌いな。
朝日が差し込む窓。カーテンの揺めきで影が動く。化粧台の椅子に腰掛けたままのアンティメイティアにコツコツと小さな足音を刻みながら静かに近づき、その陶器のような肌を優しく包み込むように顎を攫う。
そして微笑みを落として最後の見納めとして彼女の顔を…。
目が合う。彼の動きを一瞬も見逃さないような鋭い視線。何もかもを見透かされたような強く綺麗な瞳。
ルーベンは思わず目を晒してしまう。
今は役に入り切っていたはずなのに。
上手く演じれる筈なのに。
「…ルーベン」
「ハッ!驚いたってか?これが本来の俺だよ。俺は【役者】なもんでね。あんたが健気な俺に絆されてくのを見て笑ってたってわけだ」
「こんな事をする意味ないわよ」
「意味?俺はね、あんたをうまく利用すればこの最高の職場にずっと入れる、って考えてただけ。まぁ、もうある程度お金は貯まったし?あの国さえ出られればもうこんな面倒くさいお嬢様を思ってるフリなんてしなくて済む」
「…もう良いわ。これが最後、と言いに来たのね」
視線を晒した事を取り繕う様に彼女の温もりが残るベッドに腰掛け距離を取る。
まだ言うべきことがあるはずなのに今は何を言っても駄目な気がして言葉が喉で詰まる。アンティメイティアの顔を見ることができない。あの目で見られたら上手く演技が出来ない。嘘がバレればもう2度と立ち直ることができない気がした。
どんな仕打ちも受けると決めたのに。
醜く醜悪な人として延々に狡くも彼女の中に残ろうとしていたのに。
どうしてもこの顔を上げることが出来ない。
「なぁ、考えても見ろよ。あれは人間じゃないんだ。どうせ俺らの事なんて駒ぐらいにしか思ってないって」
「そんな事分かりきってることよ。ハルト様の駒に慣れるならそれだけで良いじゃない」
「分かってたんだ。それでも好きって…やっぱりお嬢様は考える事がちげぇな」
「ハルト様の悪口や私への誹謗中傷を言いたいなら顔を上げ目を私の見て言いなさい、ルーベン」
「…あんたは…嫌になるくらい美しいよ」
「…ル…」
これが惚れた弱みという事だろうか。傷つくと分かってて、立ち直れなくなると分かっていても、彼女の言葉に逆らうことが出来ないのは。
そうして顔を上げた先には想像していた通りの顔だった。でも少しだけ寂しそうに見えたのは多分、そうあって欲しいと言う僕の希望からだろう。
何も言わず、ただ真っ直ぐに僕を見つめているアンティ様の目には僕はどう写っているのだろうか。
日差しを遮った薄暗い部屋では、この透き通った瞳でも僕の醜悪さを写すことは出来ない。
出来る事なら彼女の目にも同じく何も写さなければいいのに。
「まぁいいや。散々楽しんだし。じゃああの悪魔のような神様と仲良くな」
そして飛び出すように部屋を後にした。
全く格好のつかないチンピラのような最後の言葉。
苦しくて仕方がなかった。
好きだったんだ。どんなに美しいハルト様を見ても美しいと思う事はあっても惹かれる事は無かった。そして彼女への想いは変わらなかった。いや、変わったか。どんどん想いは増していったんだ。
はじめての恋は叶わないと言うそうだ。
悲しくて、しょっぱくて、苦しいだけの恋だったけど、思い出も沢山ある。思い残す事はない。それを抱えて生きていく。彼女が幸せならもうそれだけで十分なのだから。
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