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第九話 待ち合わせる不定
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二十九日に知り合いから明日仕事を手伝ってくれという連絡があって、三十、大晦日は軽労働でつぶれ、疲れて帰ってきた事務所のソファで寝転がって年を越してしまった。まどろみから覚めて端末で時刻を確認したらもう新年だった。
あれから、多田くんとは電話も何もない。いまごろは実家に帰省してくつろいでいるのかもしれない。
ここのところ、年末年始は大晦日に知り合いから明日空いてるかという連絡があって元旦からでかけていくパターンだった。年末にかり出されたので、今年は正月は寝て過ごすことにしようと紘鳴は事務所の冷蔵庫の戸を開けた。
帰りに珍しくアルコールとつまみを買った。空きっ腹に小さい瓶のアルコールを湯割りで飲むと、じわじわと身体が熱くなる。
音が鳴るものがない。どこか、街の遠くから、救急車のサイレンが聞こえてくる。
暮らしている部屋に帰るか、裏の住居スペースで寝てしまうか迷ってつまみを口にくわえて、ソファに坐った。
仕事に一般人を連れに選んではいけなかった。尾方からの仕事はさほど犯罪に直結していないからすぐ請け負うがああいう闖入者に遭遇することがある。連れて行った一般人の多田くんをまきこんで、危険にさらした。
どうして多田くんを同行させてしまったか。それは、あの場に、目の前に多田くんがいたからだ。説明できるのはそんな、馬鹿げた理由しかない。でも、今回の同行者が多田くんではなかったらしばらく、生活に支障が出ていただろう。
気分的に、鏡やガラスに顔を映せなくなっていたかもしれない。
紘鳴はくわえたつまみを半分噛み千切る。
「……ッチ」
多田くんがいてくれて、今回は助かった。それは確かだ。いま、こうしてガラス天板に顔を映すのを苦痛に思わないでいられるのは多田くんがそばにいてくれたおかげだ。荒事に巻きこんでおいて何を言っているのか。怪我をさせずに済んだからいいものを。
湯割りを口に含む。喉もとが汗ばんで、つまみの半分を咀嚼する。
しかし、なぜ「肩を」で通じたのだろう。あの暗い廊下を走って、結果的にアクロバットな技が成功した。両手をついて前方倒立回転するためにかがんで肩を貸してくれと全部言わなかったのに多田くんは自然にすっと腰を落とした。
変な男だ。
行儀悪くつまみを平らげて、飲み干した湯割りのグラスを洗いながら、別れ際の顔を思い出した。新年明けの深夜に何をしているか想像できないと少し笑った。次の瞬間、紘鳴は自分があきらかに笑ったことを自覚して、なんだか死にたいような感情に満たされた。
予定が空いているかのやりとりの後に会う約束をとりつけられるという行為が、まだ新鮮に思える。多田くんの誘いたい成分多めのメッセージを読んで、明日とか絶対言わない気かと考えた。だとしてもこんなふうに都合をうかがって会いたいと書いてくれなくてもいいのに。そうは言っても、単純に新しい職場で大変で多忙な多田くんのスケジュール上、会う日付をあらかじめ決めなくてはならない。こちらはいまのところいつでもいいと答えた。
約束の日付の前日、移動する道中に紘鳴は多田くんからの着信に気づいた。立ち止まって、きっと明日会えないなったんだろうと通話口の多田くんの声を聞いて、なんとなく変だなと感じた。ちゃんと聞き取りたいのをまわりの音にはばまれる。
「……すみません。ぼくのほうから誘っておいて、明日の予定が」
「いえ、それはかまいませんが……」
紘鳴は体調が悪いんですかと問うのをためらった。
「……」
多田くんが黙ってしまう。
「休日出勤ですか?」
ざらざらと往来のトラックの音にかき消されそうだ。紘鳴は静かな道を探して歩き、冷たい風が頬に当たる。
「お風邪ですか。声が」
「風邪は、引いてないです。喉は正常で」
多田くんはやや驚いた声を出した。
「……あの、疲れが一気にきたというか、すみません。身体が重くて」
「それでしたらしっかり、休んでください」
規模が大きいわりに人通りの少ない静かな商店街で紘鳴はラーメン屋の前を通り過ぎた。関係ないかもしれないけれど、あの年末の三連休をつぶしたのはやっぱりよくなかったと思う。
「滋養のつくものを」多田くんは、以前自炊すると言っていたと記憶している。
「持っていったら食べますか」
スーパ-の店頭の太字ポップ『この冬はキムチ鍋!』を見て、紘鳴はつい言ってしまった。
「……持ってきていただけるんですか?」
いつもより重くて気怠い声で問い返された。
「おねがいします」と住所を教えられ、次の日、多田くんの部屋に食料を持っていくことになった。
疲れて寝ていたい年下の男のひとり暮らしの部屋におしかけるなんて気持ち悪いことをしでかしてしまう。こんな本業も不明の怪しい奴に簡単に住所を言う多田くんも多田くんである。のこのこ行く自分もたいがいだが、玄関口で渡して帰ればいい。
昼過ぎにおじゃまします、と紘鳴は約束の当日に寒空のしたで改札を抜け、駅舎と町の様子を眺めた。この路線の駅からだと、言われた住所には遠かった。しかし端末の地図に表示させた道のりの途中に目立つスーパーがあって、多田くんに頼まれた食品を買っていく。
今日は襟付きの裾と袖の先がもこもこの前開きジッパーのコートで来た。交叉点で、片手に提げていた袋を両手で持ち、信号が変わるのを待った。本日の天気予報では雨は降らないようだ。
しっかりした、建って五年も経ってなさそうな、可もなく不可もないマンションの一階インターフォンで、部屋番号を入力して呼び出した。
すぐ応答がある。オートロックが解除され、紘鳴はあまり郵便受けなど見ないようにしてエレベーターに乗った。
エレベーターのなかで、いまさらどんな表情で顔を合わせるか考えた。部屋番号の扉を探して部屋の前までやってきて、たどりついたと息をついた。端末を取り出した。時刻は二時を過ぎている。内側に扉が開いた。
まだ扉横のピンポン押してないと言いたかった。
「こんにちは」
紘鳴がぺこと頭を下げると、今まで見た中でいちばんラフな服装の多田くんが「……どうも、わざわざすみません」と言った。服装のラフさはコンビニにこの姿で行くのに迷うくらいのレベルだった。顔や背格好から疲れているというのがわかるかんじだった。
玄関の三和土のスペースで、買いこんだ食品の袋を渡そうとして、多田くんが閉める扉をよけた。
「……」
閉まった扉を背に、暗くなった三和土のスペースに立つ紘鳴に多田くんは
「あがってください」
と、自然に言った。紘鳴は袋を渡そうとした手を下からつつむみたいに掴まれ、視線をそこからはがして見上げた。
「お疲れだと思いますのでここで失礼します」
手が離れない。
「会いたいと思ってお願いしたんです」
距離がつめられて動けなくなった。
気迫に負け、紘鳴は多田くんの部屋にあがった。エアコンの効いた室内でコートを着たまま、こたつにもなりそうなローテーブルのそばに立ちつくして紘鳴はキッチンの部分の多田くんを見やった。ワンルームではない。袋の食品を取り出して冷蔵庫の戸を開けている。
「それでよかったですか?」
紘鳴は冷蔵庫の戸をはさんで問いかけた。
「大丈夫です。ありがとうございます。……レシートを」
多田くんは伏せていた目を紘鳴にやった。眼鏡は最初に会ったときにかけていたときのものだ。紘鳴が「おごります」と言うと、多田くんは目つきをしかめるとも眉をひそめるともつかない間抜けな顔になった。
多田くんはいつものように雰囲気がもさっとして疲れで気怠そうだったけど、たぶんシャワーを浴びたのか全体的にさっぱりしていた。疲れている人間に気を使わせることもないと、紘鳴は仕方なくなってコートを脱いだ。
間取りを推測して、もう一室ある。寝室だろう。そんなことはどうでもいい。室内の様子を観察したくない。カーテンの色や蛍光灯に意識をやった。ローテーブルに小さいカップが置かれた。
「多田さん、おれの相手はしなくていいので休んでください」と言っても無言で顔をそむけられた。
コートを膝もとにたたみ、紘鳴はカップの持ち手を指を添えてから両手持ちでカップに口をつけた。カップを置いて去った多田くんはまだキッチンの部分にいて、紘鳴は胸うちで、おとなしく休んでろとつぶやいた。
立ち上がって、声をかけた。
「今日、明日とお仕事、お休みですか」
「……そうです」
「どうして、横になって休まれないんですか」
続けて、なにをおいても休息でしょうと言おうとしたが止めた。距離をつめ、顔をのぞいた。紘鳴がとなりに立っても多田くんは黙っている。服もうなだれた格好もベッドで寝入るのがいちばん合っていた。起きている理由がわからない。
「――なんなら、添い寝してやってもいいぞ」
紘鳴は抱きついて多田くんの腕に首筋を押しつけ、ななめに目を上げて喋った。
「あの……」
引き剥がされない。紘鳴は笑って
「疲れた男が何をしてほしいかくらいわかるが」
見下ろす多田くんの目つきが一瞬、厳しくなった。
ベッドに寝るんだから、着替えると服を貸せとせがんだ。多田くんはすごい顔をした。
洗濯で縮んだというウエストゴムのきついハーフパンツとTシャツはそれでもぶかぶかだったけど、なんとか紘鳴の身体にひっかかってくれた。
奥は寝室でカーテンも閉まっていた。何畳だろう。多田くんがゆったり横になることのできるベッドで部屋は占領されているようだった。
多田くんの寝床だ。多田くんのにおいがする。紘鳴は掛け布団にもぐって壁際に寄った。暗がりで多田くんが眼鏡を外して布団に入ってくる。
「夕飯までだからな」
そういえば端末が近くにない。コートのポケットか。多田くんが肘をついて腕を伸ばして何かを手に取った。
「……わかりました」
多田くんは掛け布団をかぶった。枕に頬をつける紘鳴を見返して体勢を変えた。長い腕が余り気味に紘鳴の背から腰を抱いた。わずかな隙間を埋めるみたいに紘鳴は足が絡める。
黙って目をつむった多田くんに紘鳴はひっそり目を開けていた。が、なんだか怖いくらいの睡気が襲ってきた。
添い寝すると言い出した側がこんなすぐに眠ってどうする。多田くんの体温が、寒い外を長く歩いてきた紘鳴には熱いくらいに温くて、くっついていると力を抜けてくる。おかしい。瞼を開けていられなくなる。寝ていいわけがないと思った紘鳴の頭を大きな手が無造作に撫でてくるからますます意識がどこかに沈んでいく。
だめ押しのように、多田くんの上半身の脈とか鼓動とか呼吸とかが手のひらから伝わって、それらが心地良くて目を閉じた。
息をしている、と意識が浮上して手がびくっと持ち上がった。目を開けたら、室内はおそらく外は日が落ちていると思う暗さだった。多田くんもまだ横になっていて安心したがなんとなく、横になっているだけみたいに見える。
「……?」
紘鳴が頭をもぞと動かすと、多田くんが自然にまばたいて起き上がった。眠っていたとはまるで感じられない起き上がりの動きを視線でたどった。まだ身体を起こせるほど覚醒してなかった。瞼を薄く閉じて頭がはっきりとしなくてぼんやりして、枕に手の甲を擦り付けた。
「……みたいに……が深いのは……ぼくがそばに………だけに……ほしい……」ベッドからおりる多田くんの小声が聞き取れない。
それから部屋にひとり残された。熟睡に近い状態で、寝入っていたようだ。ベッドの近くに置かれた時計の時刻を読み取って紘鳴は硬直した。午後八時だった。気持ち、二時間寝て夕方、すくなくとも午後六時にならない時刻に起きるはずが、五時間ほど経っている。
ゆっくり身を起こした。どうにか急いで服を着替えて部屋を出ると、蛍光灯が眩しかった。キッチンにいた多田くんに洗面とトイレを借りたいと言った。寝起きの白い顔が洗面の鏡に映り、寝跡がうっすら残っている。
頬を揉んで洗面を離れる。とんだ馬鹿な真似をしたものだと決まり悪くローテーブルのところのコートを拾って、多田くんに「帰る」と告げた。
朝方の連絡で、夜に社交場に出席することになって紘鳴は知り合いの元へ昼から赴いた。呼び出した女性の益山はいつもパーティーのお供に紘鳴を使う。ヘアカットの後にスーツやタキシードを何着か試着する。全身のスタイリングは益山が着せ替えに満足して「これでいいわ」と言って終了する。あとは益山の支度を待ち合いの別室のような空間で待つが、この時間が毎回とても長い。端末を操作して、待つのに飽きて窓辺に立ってため息をついていると気配がして、振り返った。秘書の男が目礼をして、紘鳴は会釈をして徒いていきドレスアップした益山に「とてもお似合いで」とつぶやいた。
会場に行く前、益山が一休み、と言って御用達の店に紘鳴を伴ってカウンター席でお茶を飲んだ。
「みんな、人使いが荒いわね」
「みんな?」
「正確には、あなた使いが荒いわね」
どこで何を聞きつけたか知らないが益山はそう言って微笑んだ。
「自分のことは棚に上げて言うけど」
「いいえ、そんな」
荷が重くはないが、この女性の呼び出しはひどく疲れる。
「言葉は悪いけど、あなたを従えていくと面倒が減るのよ」
車を会場に乗りつけ、開いたドアから紘鳴は先に降りる。それから恭しく益山の手を取って、周囲の視線に応えてやたらゆっくり伏せた目を開いた。
「いえ……」
華やぎのあふれる会場で益山の後ろにひかえ、それらしい動作で耳打ちしてみせた。
「少なくとも、雑魚は下がるでしょうね。言い方は悪いですが」
「……よくわかってるわねぇ」
ささやいた益山に紘鳴は目でせせら笑うという仕事用の表情を浮かべる。
「みていればわかります」
着飾ってガード犬兼装飾品として紘鳴は益山に徒き従った。パーティ会場の香水のきつさに紘鳴はつい口もとを覆いそうになる。
社交界など縁もなければ用もない。
益山が若い女性アイドルグループと彼女らが所属する事務所の社長と歓談している。話の盛り上がりに紘鳴はその場から下がり、ベランダテラスで息を抜いた。
雪のちらつくテラスの薄闇に設置された灰皿の近くで煙草をもっともらしく吸い、明るい会場で注視するのがしんどいほど輝かしいファションに身を包んだ女性たちが眩しくて紘鳴はそれっぽく腕を組んだ。
この、振る舞いの順応性がとても高いと益山は紘鳴を評する。だからあなたは重宝するのよと。
テラスの灰皿に煙草を揉み潰した。
上品に笑う綺麗な女性たちに、多田くんもこっちのほうがよいだろうにと思った。
いつ連絡がこなくなってもかまわないという気持ちを紘鳴は持つ続けている。二晩寝たが、多田くんの存在が紘鳴から消えていってもたいしてダメージはない。
先週、醜態をさらしたのが紘鳴にとってはかなりこたえた。引き止められても振り払って帰った事務所で借りた服を多田くんの寝室に脱ぎ散らかしてきたと気づき、多田くんに通話口で謝った。捨ててくれとも言えなくて、無理をしないで身体を大事にしてくださいと情けなく話題を変えた。
それから、紘鳴を従えて会場の人間と喋りまくった益山が会場を出る間際にまだ顔なじみを見つけて、談笑し始めた。紘鳴はセットされた髪をぐしゃぐしゃにしたい衝動にかられた。
紘鳴はようやっと帰り着いた事務所の裏の住居スペースの浴室で酷使された笑顔に熱いシャワーを浴びせた。
何時間ぶりに操作した端末には、来週末の日付で、終業後に会いたいと多田くんがいつもと違う文面を送ってきた。
多田くんはこんな関係を続けたいと思っているんだろうか。
どうやっても、紘鳴は、不定な関係を、定まった関係に決めることができない。
もともとがそういう人間だからだ。
でも多田くん相手に、それはしてはだめだと分かっている。
今回は相手が悪すぎる、と紘鳴は火照った頬に洗面で冷水をあてた。
会う、と返信して、待ち合わせ場所も指定する。
約束した終業後の時刻に、紘鳴は記念館なのか資料館なのか、来るのは二度目の庭園から照明が点灯している玄関ホールを見つめた。気温が下がって、雲のない暮れ方の空はもう黒く染まっている。林から鳥のけたたましい鳴き声が庭全体に響いて、紘鳴はおもわず振り返った。
壮観だった紅葉の景色は丸裸になって、荒々しい枝の連なりが輪郭を失って黒い闇に溶けていく。
細くはない木々を眺め、枯れている冬の幹にさわってみたくなり、紘鳴は小径に足を向けた。林の濃い影の一歩手前で腕をつかまれた。
スーツの上にコートを羽織ってマフラーを巻いた多田くんに、紘鳴がむいむいとわかりやすく腕を揺らしても玄関ホールの近くに戻るまで離してくれなかった。
街灯の点った並木道にさしかかっても、多田くんはずっと黙っていた。紘鳴も、いろいろ訊きたいことがあったが黙って、高さはずいぶん違うが肩を並べて歩いた。
心のなかでつぶやいた。体調はどうですか。お忙しいんですか。お疲れなのであれば。
紘鳴は立ち止まった。
「もう会わない」
とこちらを向いた多田くんに言った。
「どうしてですか」
意外と、多田くんは平然と問い返した。声を聞いて紘鳴は首筋に鳥肌が立った。
「どうしてかうまく答えることはできないけど」
まっすぐ多田くんの瞳を見てから、目をそらした。
「何かの事情で、会えなくなるわけではないんですか」
「そういう事情はない」
紘鳴は首を横に振った。夜空が至近距離で降りてきたみたいにしんと静かになった。
「ぼくは」
「会わなくなってそれから考えたほうがわかると思う。会わなくてもかわらないって」
視線をぷいと避けたが、多田くんと向かい合うように足を揃えた。ブーツの底が擦れた音をかすかに立てた。
「会えなくなって、ぼくがそんなふうに、会わなくてもかわらないって思うって、二里さんになぜわかるんですか」
紘鳴はそこでちょっと顎を引いてぎりと睨めつけた。
「――そういうふうに思えってことだ」
眼鏡の下の瞼が動いた。多田くんの目つきが険しくなった。初めて見る表情だった。
「そういうふうに思えないぼくは」
食い下がられても、もう多田くんの言葉は
「いらない」
多田くんが黙った。
「いらない。だから会わない」
答えた自分の言葉がめまぐるしくこれまでのことが思い出されて、唇から顔に羞恥の気持ちが広がった。紘鳴はものが言えなくなった。
「いらない人間に」
多田くんは言葉を跡切って、紘鳴の呼吸を引きつけてから
「どうでもいい、会わなくてもかわらないような、いらない人間にわざわざ、もう会わないって言いに来ないでください」
まともに表情が動かない。絶句した顔を変えられない。紘鳴は
「こんな寒いなか、外で待ったりしないで、直に、目を見て伝えになんか来ないで、もう連絡してくるなって一文で済ませてくれたら」
首に強引にマフラーを巻かれた。多田くんがしていたマフラーだ。
「多少は、五秒くらいは諦める気分になったかもしれません」
紘鳴はマフラーに手をやって、柔らかい感触におとがいをうずめ、下瞼に黒目をつけた。
気をもたせるなとは言わないんだな。
いつだってセックスする相手のことは全部どうだってよかった。間柄なんてどれでもかまわなかった。不定は壊せない。
だから、多田くんには、こんな奴などとは会わなくてもかわらないと思って欲しかった。
「あと、他の人間と会うからもう会わない、だったら」
紘鳴は壊れないのに、マフラーを乱暴に外して多田くんに返すこともできなかった。まだ一緒にいたかった。
多田くんと一緒にいたいと思った。
街灯に照らされて、暗い歩道で向き合った多田くんの輪郭と自分の輪郭がくっきりと焼きつくみたいだった。
「先のことを考えない奴と、会いたいか?」
「……会いたいです」
多田くんが答えるまで間があった。紘鳴は弾けるような笑い声を上げた。
離れている手をつないだ多田くんは不安そうに己の手を見て、紘鳴の冷たい手を握る力を弱めた。
あれから、多田くんとは電話も何もない。いまごろは実家に帰省してくつろいでいるのかもしれない。
ここのところ、年末年始は大晦日に知り合いから明日空いてるかという連絡があって元旦からでかけていくパターンだった。年末にかり出されたので、今年は正月は寝て過ごすことにしようと紘鳴は事務所の冷蔵庫の戸を開けた。
帰りに珍しくアルコールとつまみを買った。空きっ腹に小さい瓶のアルコールを湯割りで飲むと、じわじわと身体が熱くなる。
音が鳴るものがない。どこか、街の遠くから、救急車のサイレンが聞こえてくる。
暮らしている部屋に帰るか、裏の住居スペースで寝てしまうか迷ってつまみを口にくわえて、ソファに坐った。
仕事に一般人を連れに選んではいけなかった。尾方からの仕事はさほど犯罪に直結していないからすぐ請け負うがああいう闖入者に遭遇することがある。連れて行った一般人の多田くんをまきこんで、危険にさらした。
どうして多田くんを同行させてしまったか。それは、あの場に、目の前に多田くんがいたからだ。説明できるのはそんな、馬鹿げた理由しかない。でも、今回の同行者が多田くんではなかったらしばらく、生活に支障が出ていただろう。
気分的に、鏡やガラスに顔を映せなくなっていたかもしれない。
紘鳴はくわえたつまみを半分噛み千切る。
「……ッチ」
多田くんがいてくれて、今回は助かった。それは確かだ。いま、こうしてガラス天板に顔を映すのを苦痛に思わないでいられるのは多田くんがそばにいてくれたおかげだ。荒事に巻きこんでおいて何を言っているのか。怪我をさせずに済んだからいいものを。
湯割りを口に含む。喉もとが汗ばんで、つまみの半分を咀嚼する。
しかし、なぜ「肩を」で通じたのだろう。あの暗い廊下を走って、結果的にアクロバットな技が成功した。両手をついて前方倒立回転するためにかがんで肩を貸してくれと全部言わなかったのに多田くんは自然にすっと腰を落とした。
変な男だ。
行儀悪くつまみを平らげて、飲み干した湯割りのグラスを洗いながら、別れ際の顔を思い出した。新年明けの深夜に何をしているか想像できないと少し笑った。次の瞬間、紘鳴は自分があきらかに笑ったことを自覚して、なんだか死にたいような感情に満たされた。
予定が空いているかのやりとりの後に会う約束をとりつけられるという行為が、まだ新鮮に思える。多田くんの誘いたい成分多めのメッセージを読んで、明日とか絶対言わない気かと考えた。だとしてもこんなふうに都合をうかがって会いたいと書いてくれなくてもいいのに。そうは言っても、単純に新しい職場で大変で多忙な多田くんのスケジュール上、会う日付をあらかじめ決めなくてはならない。こちらはいまのところいつでもいいと答えた。
約束の日付の前日、移動する道中に紘鳴は多田くんからの着信に気づいた。立ち止まって、きっと明日会えないなったんだろうと通話口の多田くんの声を聞いて、なんとなく変だなと感じた。ちゃんと聞き取りたいのをまわりの音にはばまれる。
「……すみません。ぼくのほうから誘っておいて、明日の予定が」
「いえ、それはかまいませんが……」
紘鳴は体調が悪いんですかと問うのをためらった。
「……」
多田くんが黙ってしまう。
「休日出勤ですか?」
ざらざらと往来のトラックの音にかき消されそうだ。紘鳴は静かな道を探して歩き、冷たい風が頬に当たる。
「お風邪ですか。声が」
「風邪は、引いてないです。喉は正常で」
多田くんはやや驚いた声を出した。
「……あの、疲れが一気にきたというか、すみません。身体が重くて」
「それでしたらしっかり、休んでください」
規模が大きいわりに人通りの少ない静かな商店街で紘鳴はラーメン屋の前を通り過ぎた。関係ないかもしれないけれど、あの年末の三連休をつぶしたのはやっぱりよくなかったと思う。
「滋養のつくものを」多田くんは、以前自炊すると言っていたと記憶している。
「持っていったら食べますか」
スーパ-の店頭の太字ポップ『この冬はキムチ鍋!』を見て、紘鳴はつい言ってしまった。
「……持ってきていただけるんですか?」
いつもより重くて気怠い声で問い返された。
「おねがいします」と住所を教えられ、次の日、多田くんの部屋に食料を持っていくことになった。
疲れて寝ていたい年下の男のひとり暮らしの部屋におしかけるなんて気持ち悪いことをしでかしてしまう。こんな本業も不明の怪しい奴に簡単に住所を言う多田くんも多田くんである。のこのこ行く自分もたいがいだが、玄関口で渡して帰ればいい。
昼過ぎにおじゃまします、と紘鳴は約束の当日に寒空のしたで改札を抜け、駅舎と町の様子を眺めた。この路線の駅からだと、言われた住所には遠かった。しかし端末の地図に表示させた道のりの途中に目立つスーパーがあって、多田くんに頼まれた食品を買っていく。
今日は襟付きの裾と袖の先がもこもこの前開きジッパーのコートで来た。交叉点で、片手に提げていた袋を両手で持ち、信号が変わるのを待った。本日の天気予報では雨は降らないようだ。
しっかりした、建って五年も経ってなさそうな、可もなく不可もないマンションの一階インターフォンで、部屋番号を入力して呼び出した。
すぐ応答がある。オートロックが解除され、紘鳴はあまり郵便受けなど見ないようにしてエレベーターに乗った。
エレベーターのなかで、いまさらどんな表情で顔を合わせるか考えた。部屋番号の扉を探して部屋の前までやってきて、たどりついたと息をついた。端末を取り出した。時刻は二時を過ぎている。内側に扉が開いた。
まだ扉横のピンポン押してないと言いたかった。
「こんにちは」
紘鳴がぺこと頭を下げると、今まで見た中でいちばんラフな服装の多田くんが「……どうも、わざわざすみません」と言った。服装のラフさはコンビニにこの姿で行くのに迷うくらいのレベルだった。顔や背格好から疲れているというのがわかるかんじだった。
玄関の三和土のスペースで、買いこんだ食品の袋を渡そうとして、多田くんが閉める扉をよけた。
「……」
閉まった扉を背に、暗くなった三和土のスペースに立つ紘鳴に多田くんは
「あがってください」
と、自然に言った。紘鳴は袋を渡そうとした手を下からつつむみたいに掴まれ、視線をそこからはがして見上げた。
「お疲れだと思いますのでここで失礼します」
手が離れない。
「会いたいと思ってお願いしたんです」
距離がつめられて動けなくなった。
気迫に負け、紘鳴は多田くんの部屋にあがった。エアコンの効いた室内でコートを着たまま、こたつにもなりそうなローテーブルのそばに立ちつくして紘鳴はキッチンの部分の多田くんを見やった。ワンルームではない。袋の食品を取り出して冷蔵庫の戸を開けている。
「それでよかったですか?」
紘鳴は冷蔵庫の戸をはさんで問いかけた。
「大丈夫です。ありがとうございます。……レシートを」
多田くんは伏せていた目を紘鳴にやった。眼鏡は最初に会ったときにかけていたときのものだ。紘鳴が「おごります」と言うと、多田くんは目つきをしかめるとも眉をひそめるともつかない間抜けな顔になった。
多田くんはいつものように雰囲気がもさっとして疲れで気怠そうだったけど、たぶんシャワーを浴びたのか全体的にさっぱりしていた。疲れている人間に気を使わせることもないと、紘鳴は仕方なくなってコートを脱いだ。
間取りを推測して、もう一室ある。寝室だろう。そんなことはどうでもいい。室内の様子を観察したくない。カーテンの色や蛍光灯に意識をやった。ローテーブルに小さいカップが置かれた。
「多田さん、おれの相手はしなくていいので休んでください」と言っても無言で顔をそむけられた。
コートを膝もとにたたみ、紘鳴はカップの持ち手を指を添えてから両手持ちでカップに口をつけた。カップを置いて去った多田くんはまだキッチンの部分にいて、紘鳴は胸うちで、おとなしく休んでろとつぶやいた。
立ち上がって、声をかけた。
「今日、明日とお仕事、お休みですか」
「……そうです」
「どうして、横になって休まれないんですか」
続けて、なにをおいても休息でしょうと言おうとしたが止めた。距離をつめ、顔をのぞいた。紘鳴がとなりに立っても多田くんは黙っている。服もうなだれた格好もベッドで寝入るのがいちばん合っていた。起きている理由がわからない。
「――なんなら、添い寝してやってもいいぞ」
紘鳴は抱きついて多田くんの腕に首筋を押しつけ、ななめに目を上げて喋った。
「あの……」
引き剥がされない。紘鳴は笑って
「疲れた男が何をしてほしいかくらいわかるが」
見下ろす多田くんの目つきが一瞬、厳しくなった。
ベッドに寝るんだから、着替えると服を貸せとせがんだ。多田くんはすごい顔をした。
洗濯で縮んだというウエストゴムのきついハーフパンツとTシャツはそれでもぶかぶかだったけど、なんとか紘鳴の身体にひっかかってくれた。
奥は寝室でカーテンも閉まっていた。何畳だろう。多田くんがゆったり横になることのできるベッドで部屋は占領されているようだった。
多田くんの寝床だ。多田くんのにおいがする。紘鳴は掛け布団にもぐって壁際に寄った。暗がりで多田くんが眼鏡を外して布団に入ってくる。
「夕飯までだからな」
そういえば端末が近くにない。コートのポケットか。多田くんが肘をついて腕を伸ばして何かを手に取った。
「……わかりました」
多田くんは掛け布団をかぶった。枕に頬をつける紘鳴を見返して体勢を変えた。長い腕が余り気味に紘鳴の背から腰を抱いた。わずかな隙間を埋めるみたいに紘鳴は足が絡める。
黙って目をつむった多田くんに紘鳴はひっそり目を開けていた。が、なんだか怖いくらいの睡気が襲ってきた。
添い寝すると言い出した側がこんなすぐに眠ってどうする。多田くんの体温が、寒い外を長く歩いてきた紘鳴には熱いくらいに温くて、くっついていると力を抜けてくる。おかしい。瞼を開けていられなくなる。寝ていいわけがないと思った紘鳴の頭を大きな手が無造作に撫でてくるからますます意識がどこかに沈んでいく。
だめ押しのように、多田くんの上半身の脈とか鼓動とか呼吸とかが手のひらから伝わって、それらが心地良くて目を閉じた。
息をしている、と意識が浮上して手がびくっと持ち上がった。目を開けたら、室内はおそらく外は日が落ちていると思う暗さだった。多田くんもまだ横になっていて安心したがなんとなく、横になっているだけみたいに見える。
「……?」
紘鳴が頭をもぞと動かすと、多田くんが自然にまばたいて起き上がった。眠っていたとはまるで感じられない起き上がりの動きを視線でたどった。まだ身体を起こせるほど覚醒してなかった。瞼を薄く閉じて頭がはっきりとしなくてぼんやりして、枕に手の甲を擦り付けた。
「……みたいに……が深いのは……ぼくがそばに………だけに……ほしい……」ベッドからおりる多田くんの小声が聞き取れない。
それから部屋にひとり残された。熟睡に近い状態で、寝入っていたようだ。ベッドの近くに置かれた時計の時刻を読み取って紘鳴は硬直した。午後八時だった。気持ち、二時間寝て夕方、すくなくとも午後六時にならない時刻に起きるはずが、五時間ほど経っている。
ゆっくり身を起こした。どうにか急いで服を着替えて部屋を出ると、蛍光灯が眩しかった。キッチンにいた多田くんに洗面とトイレを借りたいと言った。寝起きの白い顔が洗面の鏡に映り、寝跡がうっすら残っている。
頬を揉んで洗面を離れる。とんだ馬鹿な真似をしたものだと決まり悪くローテーブルのところのコートを拾って、多田くんに「帰る」と告げた。
朝方の連絡で、夜に社交場に出席することになって紘鳴は知り合いの元へ昼から赴いた。呼び出した女性の益山はいつもパーティーのお供に紘鳴を使う。ヘアカットの後にスーツやタキシードを何着か試着する。全身のスタイリングは益山が着せ替えに満足して「これでいいわ」と言って終了する。あとは益山の支度を待ち合いの別室のような空間で待つが、この時間が毎回とても長い。端末を操作して、待つのに飽きて窓辺に立ってため息をついていると気配がして、振り返った。秘書の男が目礼をして、紘鳴は会釈をして徒いていきドレスアップした益山に「とてもお似合いで」とつぶやいた。
会場に行く前、益山が一休み、と言って御用達の店に紘鳴を伴ってカウンター席でお茶を飲んだ。
「みんな、人使いが荒いわね」
「みんな?」
「正確には、あなた使いが荒いわね」
どこで何を聞きつけたか知らないが益山はそう言って微笑んだ。
「自分のことは棚に上げて言うけど」
「いいえ、そんな」
荷が重くはないが、この女性の呼び出しはひどく疲れる。
「言葉は悪いけど、あなたを従えていくと面倒が減るのよ」
車を会場に乗りつけ、開いたドアから紘鳴は先に降りる。それから恭しく益山の手を取って、周囲の視線に応えてやたらゆっくり伏せた目を開いた。
「いえ……」
華やぎのあふれる会場で益山の後ろにひかえ、それらしい動作で耳打ちしてみせた。
「少なくとも、雑魚は下がるでしょうね。言い方は悪いですが」
「……よくわかってるわねぇ」
ささやいた益山に紘鳴は目でせせら笑うという仕事用の表情を浮かべる。
「みていればわかります」
着飾ってガード犬兼装飾品として紘鳴は益山に徒き従った。パーティ会場の香水のきつさに紘鳴はつい口もとを覆いそうになる。
社交界など縁もなければ用もない。
益山が若い女性アイドルグループと彼女らが所属する事務所の社長と歓談している。話の盛り上がりに紘鳴はその場から下がり、ベランダテラスで息を抜いた。
雪のちらつくテラスの薄闇に設置された灰皿の近くで煙草をもっともらしく吸い、明るい会場で注視するのがしんどいほど輝かしいファションに身を包んだ女性たちが眩しくて紘鳴はそれっぽく腕を組んだ。
この、振る舞いの順応性がとても高いと益山は紘鳴を評する。だからあなたは重宝するのよと。
テラスの灰皿に煙草を揉み潰した。
上品に笑う綺麗な女性たちに、多田くんもこっちのほうがよいだろうにと思った。
いつ連絡がこなくなってもかまわないという気持ちを紘鳴は持つ続けている。二晩寝たが、多田くんの存在が紘鳴から消えていってもたいしてダメージはない。
先週、醜態をさらしたのが紘鳴にとってはかなりこたえた。引き止められても振り払って帰った事務所で借りた服を多田くんの寝室に脱ぎ散らかしてきたと気づき、多田くんに通話口で謝った。捨ててくれとも言えなくて、無理をしないで身体を大事にしてくださいと情けなく話題を変えた。
それから、紘鳴を従えて会場の人間と喋りまくった益山が会場を出る間際にまだ顔なじみを見つけて、談笑し始めた。紘鳴はセットされた髪をぐしゃぐしゃにしたい衝動にかられた。
紘鳴はようやっと帰り着いた事務所の裏の住居スペースの浴室で酷使された笑顔に熱いシャワーを浴びせた。
何時間ぶりに操作した端末には、来週末の日付で、終業後に会いたいと多田くんがいつもと違う文面を送ってきた。
多田くんはこんな関係を続けたいと思っているんだろうか。
どうやっても、紘鳴は、不定な関係を、定まった関係に決めることができない。
もともとがそういう人間だからだ。
でも多田くん相手に、それはしてはだめだと分かっている。
今回は相手が悪すぎる、と紘鳴は火照った頬に洗面で冷水をあてた。
会う、と返信して、待ち合わせ場所も指定する。
約束した終業後の時刻に、紘鳴は記念館なのか資料館なのか、来るのは二度目の庭園から照明が点灯している玄関ホールを見つめた。気温が下がって、雲のない暮れ方の空はもう黒く染まっている。林から鳥のけたたましい鳴き声が庭全体に響いて、紘鳴はおもわず振り返った。
壮観だった紅葉の景色は丸裸になって、荒々しい枝の連なりが輪郭を失って黒い闇に溶けていく。
細くはない木々を眺め、枯れている冬の幹にさわってみたくなり、紘鳴は小径に足を向けた。林の濃い影の一歩手前で腕をつかまれた。
スーツの上にコートを羽織ってマフラーを巻いた多田くんに、紘鳴がむいむいとわかりやすく腕を揺らしても玄関ホールの近くに戻るまで離してくれなかった。
街灯の点った並木道にさしかかっても、多田くんはずっと黙っていた。紘鳴も、いろいろ訊きたいことがあったが黙って、高さはずいぶん違うが肩を並べて歩いた。
心のなかでつぶやいた。体調はどうですか。お忙しいんですか。お疲れなのであれば。
紘鳴は立ち止まった。
「もう会わない」
とこちらを向いた多田くんに言った。
「どうしてですか」
意外と、多田くんは平然と問い返した。声を聞いて紘鳴は首筋に鳥肌が立った。
「どうしてかうまく答えることはできないけど」
まっすぐ多田くんの瞳を見てから、目をそらした。
「何かの事情で、会えなくなるわけではないんですか」
「そういう事情はない」
紘鳴は首を横に振った。夜空が至近距離で降りてきたみたいにしんと静かになった。
「ぼくは」
「会わなくなってそれから考えたほうがわかると思う。会わなくてもかわらないって」
視線をぷいと避けたが、多田くんと向かい合うように足を揃えた。ブーツの底が擦れた音をかすかに立てた。
「会えなくなって、ぼくがそんなふうに、会わなくてもかわらないって思うって、二里さんになぜわかるんですか」
紘鳴はそこでちょっと顎を引いてぎりと睨めつけた。
「――そういうふうに思えってことだ」
眼鏡の下の瞼が動いた。多田くんの目つきが険しくなった。初めて見る表情だった。
「そういうふうに思えないぼくは」
食い下がられても、もう多田くんの言葉は
「いらない」
多田くんが黙った。
「いらない。だから会わない」
答えた自分の言葉がめまぐるしくこれまでのことが思い出されて、唇から顔に羞恥の気持ちが広がった。紘鳴はものが言えなくなった。
「いらない人間に」
多田くんは言葉を跡切って、紘鳴の呼吸を引きつけてから
「どうでもいい、会わなくてもかわらないような、いらない人間にわざわざ、もう会わないって言いに来ないでください」
まともに表情が動かない。絶句した顔を変えられない。紘鳴は
「こんな寒いなか、外で待ったりしないで、直に、目を見て伝えになんか来ないで、もう連絡してくるなって一文で済ませてくれたら」
首に強引にマフラーを巻かれた。多田くんがしていたマフラーだ。
「多少は、五秒くらいは諦める気分になったかもしれません」
紘鳴はマフラーに手をやって、柔らかい感触におとがいをうずめ、下瞼に黒目をつけた。
気をもたせるなとは言わないんだな。
いつだってセックスする相手のことは全部どうだってよかった。間柄なんてどれでもかまわなかった。不定は壊せない。
だから、多田くんには、こんな奴などとは会わなくてもかわらないと思って欲しかった。
「あと、他の人間と会うからもう会わない、だったら」
紘鳴は壊れないのに、マフラーを乱暴に外して多田くんに返すこともできなかった。まだ一緒にいたかった。
多田くんと一緒にいたいと思った。
街灯に照らされて、暗い歩道で向き合った多田くんの輪郭と自分の輪郭がくっきりと焼きつくみたいだった。
「先のことを考えない奴と、会いたいか?」
「……会いたいです」
多田くんが答えるまで間があった。紘鳴は弾けるような笑い声を上げた。
離れている手をつないだ多田くんは不安そうに己の手を見て、紘鳴の冷たい手を握る力を弱めた。
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