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第七話 クレバスの恋 後編

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 予兆もなく、物音や光に反応してでもなく、紘鳴は時間が経った気がしてシーツに手をついて身を起こし、頭をもたげた。さむい、と暗い寝室に目を開けた。
 毛布に埋まった腿が多田くんの腕の下敷きになっている。脱け出して端末を勘で手探り、腕を伸ばした。時刻を確認した。午前五時過ぎだ。上半身が部屋の気温の低さにふるえて、毛布に顎までもぐった。
 眼鏡をかけていない多田くんの顔を見つめて、首や肩に瞼をおとした。
 しばらくして、多田くんが動く気配に紘鳴は寝返りを打った。多田くんがうつ伏せになったかんじでシーツをはたいている。多田くんは自分の端末をどこに置いたのだ。
 静かになった。
 ん、と思った。また腕が紘鳴の腹にまわった。ちょっと待て、とこわばりそうになったが紘鳴は寝てる振りを続けた。背中が多田くんの胸にくっついた。多田くんの呼吸が落ち着いて、抱え直された。かかとに多田くんの脛がふれ、紘鳴は歯噛みする気持ちで、そっと少しずつ離れた。
 とりあえずとてつもなくさむい。暖房は旧式の装置はつかないと案内されたときに言われた。ベッドサイドに作りつけられたホルダーのリモコンを取った。そこだけ場違いな印象の一般家庭にあるエアコンを稼働させる。
 広い部屋が暖まるまでまだ毛布にもぐっていたかった。でも紘鳴はベッドの毛布をわずかにめくり、隙間から半身を出そうと尻で枕のほうにずり下がる。
 膝を立てる紘鳴が毛布のなかに残したほうの足首を大きな手がつかんだ。
「……」
 多田くんは寝ぼけているようだ。顔半分枕に伏せて、穏やかな寝息を立てているし、目を閉じている。つかむのにちょうどの位置に紘鳴の足首があったのだろう。
 また指を一本ずつはがして、紘鳴はベッドを出た。


 廊下の窓に朝日が射して、ロングブーツのヒールが派手に響いた。紘鳴はこのブーツしか今回履き物がない。朝食は七時からで、食堂に多田くんを連れて向かう。
 今さっき洗面でさみい、と口に出してつぶやいて身支度していると六時を過ぎて、多田くんが冬眠していた熊みたいな背格好で起きてきた。
 着替えて膝丈のボトムで、冷え冷えとした廊下に出ると発熱素材のインナーと体温じゃ足りなくて紘鳴は不作法だが仕方ないと館内をコートを羽織って移動することに決めた。
 多田くんは昨日とさほど変わりのない服装である。
 一階の鏡の並びの全容を再度眺めるため、玄関付近の吹き抜けになったゆるい螺旋状の幅広の階段をおりた。冷気が満ちた玄関ロビーまで、木製のてすりが陽光に輝いている。掃除が行き届いているな、と紘鳴は埃ひとつが落ちていない鏡の一群に顔を映した。
 ときおり陽射しを浴びた鏡面が鋭く反射し、ひどく眩しい瞬間がある。
 食堂の入り口で、暖気を感じて、コートを脱ぐ。上座で腕時計をきらびやかにのぞかせた永林はノーネクタイで、紘鳴は「おはようございます」と頭をさげた。多田くんものそりと挨拶した。表情をきっちり引き締めた紘鳴はそい、と頭を上げた。永林がやや目をむいたのに気づき、永林は自嘲するような声音でつぶやいた。
「……今年は良いクリスマスイヴだ」
 首をかしげながら、そうか今日はクリスマスイヴかと紘鳴はカーディガンの後ろ裾を整え、余り気味の袖口の拳を握った。
 今度も紘鳴が毒味もしてないのに多田くんはあっさりと朝食を平らげた。会話中に永林から鏡のコレクションを自由に見て回る許可を得る。
 できればもう今夜泊まらずに帰りたかった。紘鳴が壁掛け時計を見上げた玄関口で、外から複数の車が停まる音が聞こえた。従業員数人とすれ違い、多田くんを急かして早足で螺旋階段をのぼって吹き抜けの階上にたたずんだ。
 玄関にぞくぞくと、たぶん永林の親族と思われる男女が入ってきて従業員たちに大荷物を持たせている。
 階上で紘鳴は多田くんと鏡に見入っている振りをしつつ様子をうかがった。永林が廊下の奥から現れたのに、親族は順に恭しく腰を曲げて明るく口を開いた。永林が「僕の顔を見に来る」と言っていたのがよくわかる。どいつも愛想がいい。鏡を収集する偏狭な男だとしても、老いた資産家の機嫌を取るのに必死なのだろう。
 多田くんにひかえめにしだれかかり、紘鳴は視線を向けられても目礼をするに留め、親族たちが三階の客室に案内されるのを聞いていた。
 四階のどのコレクションルームにも目的のスタンドミラー『グラビティ』は見当たらない。館内を探索するのは時間がかかりすぎる、と紘鳴は合わせ鏡の角に顔をしかめた。従業員をつかまえて訊いてみるか、それとも永林に直接探りを入れるか。
 窓から庭が見えた。霜がおりて、残像みたいにぼやけている。
「収集品目録を見せてほしいくらいは言ってみても不自然じゃないと思うのであとで訊きにいきます」と紘鳴は伸び上がって多田くんの耳もとで小声で言った。
 永林は親族に紘鳴と多田くんをなんと説明したのか。特になんの説明もしてないとも考えられるなと紘鳴は昼食に呼ばれ、思った。多田くんと打ち合わせて、食堂に揃った親族たちにろくな自己紹介もしないで席についた。あからさまに不審がっても親族たちは詮索する勇気まではないようで、永林にも訊ねない。
 親族たちは館の主に話をふらないで客同士で近況や業界話を語っている。
 昼食後、数人遅れて館に到着し、わりあい近い血縁らしく玄関ロビーで親しげに長く話をして、紘鳴と多田くんがテラスにいると、そのなかで永林とそう年がかわらない風貌の男がふっと目をあげ、紘鳴を見て、訝しげな顔になった。
 やっぱり寒いので客室にダウンを取りに戻るという多田くんと別れ、ひとり一階の廊下を歩いていると、うんとじろじろ見られていると感じて鏡越しに紘鳴は目線を返し、振り返った。さっき、怪訝な顔をした男が会釈をした。
「なにか、ご用ですか?」
 紘鳴はこて、と首をかしげた。
「ちょっと伺いたいんだがあなたは……なんの関係の方かな。兄貴に呼ばれたんですか? どういう筋で?」
 あにき、が永林を指すならこの男は永林の兄弟か。言われてみれば、顔が似ている。永林から異質で不穏な雰囲気をとったら、こんなかんじかもしれない。
「……昨日、イベントの会場で永林さんから声を」
 やんわり困惑した表情を浮かべて紘鳴はおとなしい口調でしゃべった。
「さきほど、見かけたかと思いますが男の連れもおります」
 最後は深い笑みで仕上げる。
 永林の弟はずっと紘鳴を無遠慮に眺めて、その視線に紘鳴は弱くまばたいて「若い奴と話がしたいと永林さんが」と姿勢を正し、いちおうブーツの足を引いた。
「うん、いやそれなら、何もないとは思いますが……」
 と前置きして永林の弟は言った。
「似てるんです、あなた。兄貴の――カミさんの若い頃に。そっくりというわけではないけども」
 黙って紘鳴はコートの袖をさわった。

『多生の縁というところだ』

「自分は男ですが」
「いやいや、それはわかるんですが面立ち、巷でいう、オーラが似てるというか、もう本当に、兄貴から初めて紹介されたくらいの頃の」
「それは……永林さんからはそんなことはひとことも」
 永林の亡くなった妻は結婚する前は、険のある目つきで、ガリガリに痩せていて、結婚後いろいろ丸くなったと永林の弟は続けた。
「若い、若い頃ですよ。はるか、昔の」
「……では、あのお部屋は」
 紘鳴は訊いてみた。しかし永林の弟は何のことですと聞き返した。


 紘鳴は尾方につながらない端末をコートのポケットにおしこんだ。昼に差しかかる山の天候は悪い。
 客室に多田くんはいなかった。従業員の制服がちらりと視界に入ったら、すぐに駆け寄った。訊ねると、永林と庭にいたと答えられて、礼を言った。自分でも、知らずに焦っているのが足取りでわかる。庭にどうやって出るか教えてもらわなかったが、鏡の向こうの窓の外を見やって、発見した多田くんの後ろ姿めがけて、手近にあった戸口からすぐ出た。池に面して積まれた大きな岩のそばで永林となにやら話しこんでいる。
 勢い余ってブーツの足が滑って、わたわたした。多田くんの身体にぽてりとぶつかってとまった。多田くんが両目を無言で動かして、ダウンを着た腕を上げて空間をつくり紘鳴の肩を入れてすっぽりつつんだ。永林が会話をやめて、紘鳴の顔を問うようにのぞきこんだ。
「す、……ごめん」昨日からの振る舞いがあるこの場で多田くん相手にすいませんと謝ってはいけない。
「滑りやすくなってるから気をつけて」
 永林に言われて「はい」としおらしくつぶやいた。
 多田くんと客室に戻るあいだに、腕から離れた。
「何を話していたんですか」
「……適当に理由をつくって、あの鏡が、どこにあるか訊いたら」
「は?」
「コレクションルームに飾っていないそうです。四階の突き当たりの保管庫にしまって、見たいんだったら明日出してきてもいいと」
 そこまで話をつけたのか。ほとんどのことをされてしまったことに紘鳴は何か言おうとした口をつぐんだ。多田くんは紘鳴に短く報告して、大したこともしてないという顔でミニキッチンでお湯を沸かせるか試していた。
「ゆずってもらえるとかは、怪しまれると思って言いませんでした」
「それは……」客が見たいと言うから披露する、としても、おいそれとゆずってくれるなんてことはないだろう。
 カウンターに手をついて、頼むときはそれ相応の頼み方をしないとだめかと紘鳴はさっき永林の弟から言われたことを思い出した。一対一でやりとりすると考えるとものすごく気が重い。紘鳴が女だったら、監禁とまではいかなくても強引に足止めされてもおかしくない、かもしれない。
 話がしたい若い奴、の多田くんはダウンを脱いで「コンロは使えるようです。話を聞いたらこの水道も、飲料水だと」と立ち上がった。
「――それで、訊いたときに、クリスマスの、用意は当然しているんだろうねと心配されました」
「……?」
 多田くんはちょっと黙った。
「ちゃんと用意を……」
「?」
「……二里さん、これからぼくは食堂に行ってヤカンを借りてきます」
「あ、はい。では、いっしょにいきます」
 食堂の奥、厨房に行くと、もうすぐティータイムですがと言われた。あの親族たちとお茶の時間か、と紘鳴は憂鬱になった。
 赤いヤカンを渡された後、それでしたらお部屋までお持ちいたしましょうかと言われる。お言葉に甘えることにした。厨房にはワインセラーと貯蔵庫のような空間があり、その空間に、稼働の操作が行われるまでわからなかったが三枚戸が開いたなかにしっかりとアンティーク調の内装のエレベーターがあった。
 少々お待ちくださいと食堂で待って、ティーポットやアフタヌーンのセットが準備され、ワゴンとともに「お乗りください」と紘鳴は多田くんとエレベーターに乗りこんだ。
「なぜこの位置に」
「賊に使われては困りますので」
「押し入られたことが?」
「セキュリティは警報などで万全なはずですが、万が一を考えて……こういった用途でも使いやすいと永林さまが、こちらに」
 自分たちだって、賊のようなものだと紘鳴は思った。
 従業員の女性は二階に着くと、おりた個室の扉を開けて廊下に出た。エレベーターは廊下からだと内側に一室在るような扉に隠れている。紘鳴と多田くんの客室までワゴンを運ぶ。
 紘鳴がコートを脱いで、多田くんがヤカンをカウンターに置く。お茶にはうといですと謝って飲んだ紅茶も、クリスマスらしいトッピングのクッキーも美味しかった。多田くんは紅茶を飲んでからは、黙ってスコーンを食べている。
 今夜、ささやかなクリスマスパーティがあることを初めて教えられた。従業員の女性が出ていく。
「ドレスコードがあるか、教えてもらわなかったけど……多田さんは、なんというか」
「そういった着替えは持ってきてないです」
「この服装で行きましょう」
 気温が下がってきましたねとカーテンを閉めて回る多田くんに寄った。紘鳴は今夜、永林の部屋をひとりで訪ねるか、他に手はないか考えていた。
「庭で話してて若か、りしき頃の話とか出なかったですか?」
「……質問ばかりされて、そういった思い出話は聞かされませんでした」
「しつもん?」
「年とか仕事とか……いっしょに住んでるのかとか、金は貯めてるのかとか」
「……」
「答えにくいなあっていうふうに言葉をにごしてごまかしました」
 一般的な感覚でいえば、デリケートな、立ち入った質問をしてくる構図と、あの尋常じゃない目を紘鳴に向ける姿がうまく重ならず、気味が悪かった。
 昼間と同じ服で、広間でのささやかなパーティに出席した。ドレスコードはあった。
 場違い感に、紘鳴は多田くんと広間の隅にいた。縦長の窓から鬱蒼とした夜の森が見えた。そこに一瞬、人工的な光が点滅した気がして紘鳴は窓に顔を近づけた。室内の明かりが反射しただけか。しとしと、葉に落ちる雨の音がした。
 親族たちの間を抜けて、上座の永林までたどりつくと、紘鳴は多田くんの腕に寄り添って、すまなそうに酒も飲めないし部屋に帰りますと言った。


 夜も更け、館内全体が寝静まって物音もしない時間帯に紘鳴は寝ている多田くんを起こさないように気をつけて身なりを整え、部屋を出た。
 まあ、たとえ起きていたって、引き留めないでくれればそれでいい。真っ暗な廊下を足音を立てずに進む。履いているロングブーツは音を立てようと思わなければ、無音になる代物だ。四階にある永林の部屋へ、夜目が利く紘鳴は階段を上がって、三階の廊下にいる複数の気配に身を伏せた。それっぽい黒装束だが、そろそろとした足と無駄な様子見は玄人ではない。五人か、大所帯で来たな。紘鳴はほぼ丸腰で、武装はしてないに等しい。セキュリティがまったく作動してない理由が、館内に手引きした者がいる、なら厄介だと階段の下から五人が四階に上がっていくのを見送った。尾方から、こういう展開の説明が事前になければ、この展開に尾方方面は関係ない。
 クリスマスサプライズ企画かとも思ったが、あの黒装束は、十中八九、窃盗だ。人を呼んでくるというのも、盗み逃げる時間を与えることになる。あの六人が、コレクションを盗むとして、コレクションルームの品か、倉庫の品か。もし倉庫の品のほうだったら、一括で持っていかれるかもしれない。目的の『グラビティ』が盗まれるのは、避けたい。どうするか。五人を相手するのは無理だが、こうして迷っている時間も惜しい。警報装置が切られているなら、第一発見者として騒ぐ策でいってしまえ。
 動き出す寸前にハンドライトで照らされて、紘鳴は額に手をやりたい気分で、ハンドライトを持っている多田くんに飛びつき、ハンドライトを消させる。
「なんで、来てるんですか」
「……あの、どうされたのかなって」
「うすうすわかってるでしょう……」
 踊り場の壁におさえこんで、囁いた。
「クリスマスサプライズ企画とも考えられますが、四階に何人か、怪しいのが入りこんでいます。セキュリティも動いてないので内部に協力者がいると考えられます」
「それは、どうするんですか」
「出向いてこっちで発見することにします」
「だれか呼んできたらいいんじゃ」
「多田さんが呼んできてください」
「二里さんは」
「倉庫の『グラビティ』に手を出されないよう、これから直行して騒ぎを起こします」
「あぶないと思いますが、……何人もいるって」
「多少危険でも、仕方ありません」
 力をゆるめ、暗闇で多田くんの背を押した。
「それでは、人を呼んできてください。いっしょには連れて行けません」
「正確な人数は」
「五人です」
「じゃあだめです」
「いや、サプライズ企画かもしれませんし」
 引き留められる時間が、もう惜しいのだ。掴んでくる手をはたき、素早く段を移動する。
「……五人相手に騒いだら、囲まれて殴られて気絶させられたらとか考えないんですか」
「囲まれたときは」
 ふい、と紘鳴は顔をそむけてハンドライトをつけ、多田くんに鋭く投げた。「とにかく人を」ぎりぎり当たらないように。ハンドライトをよけ、階段を何段かさがった多田くんを放って紘鳴は四階まで一気に駆け上がる。
 多田くんに怪我させるわけにはいかないのだから。これだから。巻きこむんじゃなかった。短時間で、多田くんに追いつかれるまでに片を付ける。
 クリスマスサプライズだったらどんなにいいか。突き当たりの扉を小さい照明で照らして施錠部分を工具で壊している時点で、だめかな。その開いた扉から黒装束が二人侵入する。紘鳴は影のように四階の廊下を走り、目測の距離を信じて踏みこんだ。
 跳ね上がった紘鳴の曲げ膝が黒装束の一人の顔に直撃した。紘鳴はそのまま着地することなく、倒れ伏した黒装束のかたわらの一人の上半身に後ろからはりつき、腕を逆さにねじりあげた。関節を極める。廊下にはあと一人。空気を切る音がし、紘鳴は振り下ろされた長物をかわした。
 ピッケルか。床に当たった響きで見当を付ける。足もとに転がっていた小さい照明を蹴っ飛ばし、ピッケルを持った手首にぶつけ、紘鳴はわざと逃げる素振りをみせた。
 廊下を逆にたどり逃げて、予想通りピッケルを手放した黒装束が追ってくる。
 ありゃ。逃げる先にのそっと、多田くんが必死そうに突っ立った。
 紘鳴は追ってくる黒装束をちらりと振り向き、速さを落とさない。
「肩をっ」と叫んだ。
 なぜかそれだけで通じて、蹲った多田くんの肩に両手をついて紘鳴は前方一回転し、ブーツのかかとが宙を回って、黒装束の顎を打ち上げた。三人仕留め、紘鳴は床に足を着け、多田くんを下がらせて、手持ちの唯一の装備を身体から外す。
 突き当たりの扉から残り二人が廊下に出てきたのを見届け、低く投擲すると同時に多田くんの手を引いて階段の上がり口に身を隠し、多田くんの頭をかき抱いて勢い任せに腰を落とし床に沈みこんだ。多田くんの耳を手でふさぐ。
 閃光爆竹が廊下を白く染めた。
 連鎖的な爆音が止んだころに手をおろした。紘鳴にたおれこんだ格好になった多田くんが頭を起こした。
 多田くんが身を離したので、紘鳴は壁に手をついて立とうとして、よろけた。エレベーターの戸口まで、すまきみたいに多田くんの肩にかつがれて、閉めた扉の向こうでどやどやと大勢が四階の廊下に上がってきている。
「あ、すみません、めがね……」
 多田くんがずれた眼鏡を直している。
「ゆがんだりしてませんか」
 かつがれたまま、紘鳴は眼鏡のしたの頬をさわった。そしてさっき両肩にめいっぱい手をついたと気になり始める。「かついでないでおろしてください」エレベーターに乗った多田くんは紘鳴の言うことを聞いてくれなかった。


 クリスマスの朝は、ふたりとも寝坊したように見せかけて、夜中の騒ぎの収拾がつくまで客室にいることにした。人の少なくなったのを見計らい、一階に下りた。
 天気が良い。鏡に反射する青空の眩しさが目にしみた。時間は昼に近い。食堂に行くと、テーブルに『グラビティ』が無造作に置かれていた。上座の永林と、紘鳴は目を合わせ「寝坊してしまいました」と頭を下げた。
 昼食の席には多田くんと紘鳴しかいない。食後のコーヒーをゆっくり飲む紘鳴を永林は待っていた。
『グラビティ』をゆずってもいい、その代わり、ひとつ頼みたいことがある、と切り出され
「それは、おれにできることでしょうか」
 紘鳴は固い表情で問い、多田くんも同席してくれてかまわないと答えた永林は頼みたいことをはっきり口にしないうちに『グラビティ』を持ち帰る様のラッピング包装するように従業員に指示した。
 自室に来てほしい、とのみ永林は繰り返した。
 仕方ないので、部屋に行くと首を縦に振った。エレベーターを使って四階に上り、永林の部屋に入った。
「いやはや、イヴに賊とはね」
「ぞく?」
「ああ、こちらの話だ」
「そうですか」
 自室で、永林はまずそこに坐ってほしいと告げた。
 眺めの良い窓際に佇んでいるような鏡台だった。
 紘鳴はわずかに立ちすくんだ。「……奥様のでは?」
「そうだ。妻が使っていた」
 おもわず永林を睨めつけたくなったが、こらえた。おそるおそる近づいて、いやだなと心底思い、坐る。
 小さい箱が永林の手のひらの上でぱこん、と開いた。
「妻が、よく付けていたイヤリングだ。つけてみせてくれないか」
 言葉がなかった。心底、この場で吐ける言葉がなかった。鏡のなかで紘鳴はそんな顔をしていた。
「出会って間もない頃、僕がプレゼントしたんだ。――棺には入れなかった」
「単純に、つけてみせたらいいんですね」
 繊細な作りで飾りが垂れている、へたに扱うと簡単に壊れてしまいそうな、年代物のイヤリングを紘鳴は苦労して耳につけた。途中、調節ネジを動かさないと見栄え良く固定できなくて振り返って「ネジを動かしても?」と訊いた。永林は目で肯いた。
 やっと、両耳に綺麗につけることができて、顔を左右に揺らして確かめて、永林の前に立った。
「これでよろしいでしょうか」
「……うん。外してくれるかい」
 間髪入れずに永林は言った。ろくに見てないのではと思うほどだった。思い描いたのと違ったのだろうかと気分が楽になって紘鳴は慎重に外しにかかった。はやく外したかったが、外すのはつけるよりも難しかった。小箱にイヤリングをそうっと戻して、息をついた紘鳴は、鏡のなかの永林が、見ていたものにようやく気づいた。
 イヤリングをつけた姿が見たかったわけではない。
 鏡台で、鏡に向かって、イヤリングをつけている姿が見たかったのだ。
 それから、もたもた外している姿を、見たがった。
 出会って間もない頃、若い頃、贈った品。
「こんなことでお役に立てたのなら、よかったです」
 紘鳴はそそくさと腰を上げ、すぐに入り口手前で待っている多田くんに本心、抱きつきたいと思って抱きついた。もう、顔を映していられなかった。
 多田くんは頭を撫でてくれた。
『グラビティ』を譲り受けた、と尾方に連絡する。
「わかった。迎えがわりかし、すぐに着く」と通話が切れた。
 旅荷物をまとめて、階段をおりて玄関ロビーに行く途中、スーツケースを引く紘鳴はあの鏡の壁の部屋の扉に、どうしても視線がいってしまった。
「あの鏡に」
 多田くんがつぶやいた。
「映っていても、綺麗だったんだと思います」
 紘鳴がかぶっている帽子をもふもふした。
「あと、見たかったのは、鏡に映る姿と」
 あの部屋で、きらきらとした大きな破片が紘鳴を映して、多田くんは
「鏡に姿を映しているところ」
 紘鳴を見ていた。


 永林は見送りに出てこなかった。
 サービスエリアの駐車場で、運転席の尾方に『グラビティ』を掲げて見せた。
 上瞼に黒目を集めてにらむと、尾方はハンドルに拳をのせた。
「おまえがオ相手した五人に、こちらは一切関与していない」
「そうか。で?」
「今回は、おまえを囮に使うほうが、怖かった。おまえをそういうふうに使ったのが知れたらこちらの身が危うい。……おれから見ても似てたんでな。画像は少なかったが、永林夫妻がまだ」
「最初に言わなかったな」
「言ったら、請けたか」
「請けた」
「そうか。でも、教えたらうまく仕事を済ませられないかもしれないと思ってな」
 目をざっくりと裂いたみたいに剥いた紘鳴は
「次のインターで下りろ」と言った。
「え?」
「下りろ」
「ええ……」
「おりないなら、ここでしまいだ」
 バックミラー越しに多田くんにうながした。戸を開けて、荷室のスーツケースを取り、多田くんと駐車場に降り立つ。
「ちょ、ちょっと待てって。どうやって帰るんだよ」
 無視して夕方の空いたサービスエリアの駐車場を、「ぼくが持ちます」と多田くんが紘鳴のスーツケースを引いて徒いてくる。
「コーヒー飲みます」紘鳴は多田くんに言った。
「わかりました」
 尾方が追っかけてきた。こうなったら、手に負えないと長い付き合いでわかっているはずなのに尾方はいつになくしつこかった。レストランが前方にある路上で、てこでも動かないというふうにむぎゅうと多田くんに抱きついたら、ついぞ見たことのないくらいの「おもしろくねえな」という顔をした。
 諦めた去り際に
「なあ、前払いの倍額振り込んでいいか」
「好きにしろ」
 いつもあほみたいに羽振りがいいなあいつは、と土産物売り場で思った。
「タクシーを呼びます。多田さん、明日は通常の、出勤で」
「出勤です」
 サービスエリアの地図をたどると家路はまだ遠かった。多田くんを夕飯帯過ぎくらいまでには家に送ってやりたかった。
 三連休はもう終わりだ。
「……最寄りのインターを下りたら、駅まで送ります」
 でも、
「……明日の夜、二、三時間もらえませんか」
 見晴らしが良いとかという観光地のポスターに囲まれた通路で紘鳴は帽子を脱いで、横髪を耳によけて見つめた。
 多田くんは唇を片方に引いた。紘鳴は帽子をかぶり直した。
「インターをおりるまでに決めてください」
 コーヒーチェーンで渡されたカップには『Merry Christmas!』と綴られていた。
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