今夜は騎士(ナイト)をお持ち帰りです

さの めつた

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第七話 クレバスの恋 前編

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 三連休の初日、十二月二十三日朝、指定した駅前で紘鳴は多田くんと旅荷物を持って迎えの車を待っていた。
 待ち合わせ場所に現れた多田くんが、去年のクリスマスイヴに会ったときのダウンを着てきたことに紘鳴は少なからず動揺した。
 今朝はそれほど冷えこんでもない。紘鳴はスーツケースを脇に置いてコートのポケットに両手を入れていた。毛糸ではないが細かい繊維質のやわらかくもふっとした帽子をかぶり、マフラーは巻いてこなかった。朝日に目を細め、道端に立つ紘鳴のわりとエッジの効いたシルエットの黒のコートの前に、ステーションワゴンが停まった。
 スライドの戸が自動的に開いて、呼び出した知り合いの顔を確認すると紘鳴は多田くんを振り返った。
 スーツケースは後ろの荷室に載せ、紘鳴は助手席に、多田くんは後部座席に乗りこんだ。
「ひろなり、おまえ……好みがかわったのか?」
 知り合いの尾方はシートベルトを締める紘鳴の顔を眺めたあと、多田くんをちらっと見て、怪訝そうに言った。紘鳴の目もとがなだらかに動き、深く下から無言で睨んだ。それに怯むことなく、尾方は視線で問い、ゆっくり車を発進させた。高速道路のインターチェンジへカーナビの機械音声が案内していた。
 それから高速道路を走り、雲が出てきた空にぽつぽつ雨まで落ちてきた。
 走行時間が一時間を越え、サービスエリアの混雑した駐車場で「休憩」と尾方はエンジンを切った。紘鳴と多田くんはシートベルトを外した。
「前はもっとこう、伊達ワルとかアホそうなボンボンだったじゃねえか。それか気取って勘違いした奴」
 サービスエリアはどこも人が満杯だった。端のコーヒーチェーンまで行ってホットコーヒーを買ってきてくれという尾方の頼みをきいて、多田くんが車内にいなくなったところで尾方は「金は投げこんどいたから」と言った。いつ、と紘鳴は端末で口座の額を確認する。
「おまえを、なんつうか、くっつかせて子猫ちゃんって呼ぶような男ばかりだったろ。とうていおまえを侍らせることのできるタマじゃ」
 暖房がついた車に乗ってもずっと帽子とコートを脱がない紘鳴は多田くんの歩いていったほうから目を離さなかった。
「まあ、ヤる相手だろうかなかろうが、おまえが一般人連れて来るわけねえな……誰だあれ?」
 答えない紘鳴に尾方は髭の生えた顎をひと撫でした。紘鳴は仕方なさそうに口を開いた。
「そんな軽口をたたくほど面倒な仕事なのか。明け方にかけてきたときに聞いた準備はしてきたが」
「依頼人は……身内に軟禁されて、所有の骨董品と美術品をオークションで売り飛ばされそうになってるから、それをちょっと阻止してくれ」
「どうやって」
「これからオークション会場のあるホテルに行って、オクが始まるまでわざとらしいかんじで辺りをかぎ回って始まったらオク会場でどっかりふんぞり返っていてくれればいい」
「なにも競り落とさなくていいのか」
「気が向いたら競り落としてもいいが、おまえはフェイク、囮だから、目立って腰をおろして足組んでくれてればいい」
「またか」
「そうだ。あとはこちらで……裏で、もう別の手が回ってるから」
「服は」
「一応そこに用意してある、が」
 尾方は荷室に顔を向けた。
「着なくてもいい。おまえが考えて着てきたんだったら。これが入場パス。で、ついでに頼みたいことがもうひとつ」
「なんだ」
 差し出された入場パスのカードを手に取る。多田くんが戻ってきた。スライドの戸に身をかがめて乗ってくる。尾方にコーヒーのカップをひとつ渡した。「おお、あんがとさん」と尾方がよいしょと座り直して啜る。助手席側の後部座席で多田くんも口をつける。
 車内にコーヒーの香りが漂った。
「そのオク会場で、鏡を集めている偏狭な男がおまえに声をかけてくるから……声をかけてこなかったらおまえから転んだ振りで肩をぶつけたりしてアピールしろ」
「鏡を集めている?」
「そのまんまの意味だ。ミラーを収集してる。それでたぶんそいつはおまえを自分の館に招待する」
「……それで」
「その男は金はたんまり持ってるが、少しかわってる。……館に行って、そいつが持っている鏡のうちのひとつを持ってきてくれ」
「窃盗になる」
「ひとつくださいって、譲ってもらってこい」
「はあ。……それだけか」
「そうだ」
「男の名前、経歴、画像と、もらう鏡の画像を見せてくれ」
 ダッシュボードから紘鳴にタブレット端末を取らせ、尾方は画像を見せた。
 最初に壮年の男の画像、次に小さいスタンドミラーの画像とキャプションが映し出される。
「独身か」
「妻はすでに他界して今現在は独り身だ。……妻の死亡に事件性はない。子どもはいない」
「どうして今回は連れが必要なんだ」
「オクのほうは連れがいなくてもとくに問題ない。その男のほうが……」
 尾方は言葉をにごした。素知らぬ顔でサイドミラーや外に視線をそらす。紘鳴が下瞼を開くように睨むと
「おまえひとりだと本気で監禁される可能性がある」
「本気で?」
 紘鳴は呟いた。コーヒーカップをホルダーに置き、尾方がエンジンをかけた。駐車場に窮屈そうにできた車の列にステーションワゴンがそろそろと動き出す。
「いくらおまえでも」
 バックミラー越しに尾方は、多田くんの様子をうかがった。
「どうやったって無理なことがあるだろ」
 眼鏡をかすかにくもらせてコーヒーを飲む多田くんが目を上げた。


 その後、もう一度サービスエリアで休憩し、昼前に高速道路のインターチェンジをおりた。尾方はホテルの地下駐車場で紘鳴が訊ねても、どうしてひとりだと紘鳴が監禁される可能性があるのか、理由を教えてくれなかった。明日、もしくは明後日、仕事がおわったら連絡くれとスライドの戸が閉まった。
 着なくてもいい服は荷室から持ってこなかった。多田くんと旅荷物をホテルのクロークにあずけた。
 帽子の縁を指でさわって、横髪を流した。
「……仕事が、うまくいかなかったらどうするんですか」
 コートの襟を立てて歩く紘鳴の後ろを多田くんが徒いてくる。オークションが始まるまでホテルのなかをうろついて怪しまれるような行動をして目をつけられなければならない。
「うまくいかなかったら」
 ロビーで背をひねってニィと口角を上げてみせた。
「次の仕事がなくなるだけだ」
 前へ向いて、きっぱりとひとりで言い切った。ホテルの玄関や廊下を闊歩する。吹き抜けの階段を上って、一回りして下りた。
「もっと、危険がない仕事かと思ってました。二里さんが引き受けている仕事は」
「今回は……あれからの依頼はほとんど、特例で」
 眉のゆがんだ表情で立ち止まり、ロビーにいるホテルの客を順に観察する。
 いまさらだが、巻きこむんじゃなかったと紘鳴は強く思った。尾方からの依頼には、特に巻きこんでは
「多田さん」
 歩きながら振り返った。コートの長い裾が太腿に当たる。
「ここで帰っていいです。交通費は出しますから」
 紘鳴がコートのポケットに入れていた手の片方を、多田くんは肘のしたあたりで掴んで引きずり出してやや持ち上げた。紘鳴はぎょっとして多田くんにつかまれた腕とコートの袖に寄った皺を見た。多田くんは投げやりとも怒ってるともとれる声で
「監禁されるわけにはいきませんから」
 ぼそっと言った。力をゆるめて紘鳴の腕をおろした。
 それは、監禁される可能性があるのは紘鳴で、多田くんではないのに。とりあえず、多田くんには帰る気が一切無いのだ。
「時間になるまでまだ時間があるので、コーヒーでも飲みましょう。……コーヒーじゃなくてもいいですが」
 最上階のラウンジに行くため、宿泊カウンターと対面して三つ並んでいるエレベーターのひとつの到着を待った。
 乗りこみ、やりすぎも良くないが、わざとらしく足を交差させるようにしてエレベーターの壁によりかかった。床面にロングブーツのヒールが鳴る。他の客が紘鳴をちらっと見た。
 多田くんをともなってラウンジに入り、カウンター席ではなく窓際の二人用のテーブル席で向かい合って腰かけた。雨雲が垂れて陰鬱な眺めだった。
 紘鳴は注文したコーヒーをひとくち飲み、上品なカップの受け皿にカップを置いた。ふっと多田くんが言った。
「あの人とは」
「尾方は知り合いです。いつでも呼びつけてくる」
「呼びつけて」
 昨夜自分が吐いた言葉に、多田くんはやっと言及した。いろいろ盛られた白い皿にかちとフォークが音を立てる。
「知り合いは知り合いです。仕事にさしつかえることは、しません」
 多田くんはフルーツジュースを飲んでいた。
「あれとは、知り合って長いですけど」
 ダウンを脱いでいる多田くんの服装はシャツの上に柄がある濃い色のセーター、黒っぽいジーンズだった。髪は社会人らしくきちんと、やっぱりどことなくもっさりとしている。今日の眼鏡はフレームが細くて軽い。
「多田さんは、お仕事のほうは順調ですか」
 イベント会場で見た、同僚と言った女性二人を思い出す。多田くんは眼鏡をさわった。
「……できるかぎりの範囲でがんばっています」
 フォークにすくった生クリームを口に運ぶ。
「あの……」
「はい」
 フォークを唇にふくんだ。
「なんでコートを脱がないんですか」
「……」
 生クリームを舐め取ったフォークを型抜きされたスポンジケーキに刺した。
「そろそろ開場です」
 量の少ない甘味を食い終わり、座高が高い席を滑り退くようにおりた。
 コートの長い裾をどこかにはさまないように気をつけて、混んだエレベーターに乗る。
 がやがやと賑やかな会場前の廊下を大股で進む。入場パスで堂々と足を踏み入れる。室内ながらすり鉢状にさがる階段のホール会場で、中央列に着くまで、コートの裾を翻して段を下り、参加者の視線を集めた。多田くんを先に坐らせ、黒いコートの太腿の位置からついているボタンを腹までぷつぷつと外した。
 細くて迫力に欠けるが、気持ちだけはどっかりと腰をおろして、背もたれにもたれてロングブーツの脚を組んだ。
 黒の長い裾を割って、白い膝と白い太腿が出てきた。
 紘鳴に困惑した顔で何か言おうとした多田くんがうめき声をもらした。会場を見渡していた紘鳴は顔をしかめて、脚を組み直して背もたれを押して背を伸ばして多田くんに顔を寄せた。
「多田さんは特に何かする必要はないので」
「……ああ、それについては、そうだと思ってましたが、さっきから……なんか、白いと思ったら」
 後半は小声になった多田くんは、重なった膝から目をそらした。
 この、ロングコートを開くと太腿丈のボトムから伸びる生足が出てくるという飛び道具ともいえない目くらましともいえないものが使えるのはもう今年で最後だろう。
 開始時間になると冷ややかな目つきで紘鳴は壇上を睨めつけ、衆目を集めているのは感じていたから不自然にならないよう、ときには背をまるめて膝に肘をつき、競りに加わった。


 その男は、オークションが終わって会場を出ようとする人の流れにさからって、会場に入ってくるとホールの階段を上がりきった紘鳴の前に立った。オークション中、何度会場を見渡してもいなかったが、探す手間が省けたと紘鳴はあいまいに会釈をして歩みを止めた。画像で確認した、壮年の、一見、オークション会場によくいそうな金持ちに見えた。だが、紘鳴は男が浮かべた笑みと視線に身体をこわばらせた。
 こいつは、おかしい。全身から感じ取れるわけではないけど、こいつは変だ。
 というか、そう、いちばん、目がおかしい。
 紘鳴を見下ろす目が。
 他へ向ける視線とはまったく違っている。尋常じゃない。
「こんにちは」
 と男、永林は柔和な声で言い、優しそうな笑顔になった。コートのボタンもまだ留めてなかった紘鳴は挨拶をどう返すか一瞬迷った。すると、多田くんの手が腰骨に回ってぐいと紘鳴を引き寄せた。まるで、身体を持っていくみたいに引き寄せ、密着した。紘鳴もわかりやすく第一印象で多田くんの腕にあざとくすり寄ろうと思ったのに先を越された。
「……ああ」
 永林はなにか得心したように、紘鳴と多田くんにうなづいた。
「なにか、めぼしい品は、ありましたか」
 紘鳴はあらためて多田くんの腕に帽子の頭を甘えるように押し当て、永林をじと、と睨み上げ言った。
「そんな、暇は今日はなかったな」
 永林は壇上を眺めやり、うなだれるとともに余裕ある動きで距離がつめられる。紘鳴に微笑んだ。おもわず紘鳴は多田くんにぎゅとくっついた。
「……なにか、お間違えだといけません。俺は、男ですが」と紘鳴が言うと「それは、ひとめでわかるさ」永林は吹き出した。
「――彼氏かな」
 自然に、多田くんではなく紘鳴に訊いた男に、否定も肯定もしないで紘鳴は上目遣いで拗ねた唇を少し突き出した。多田くんの背に弱く指を這わせる。
「今夜はここに泊まりかい」
 永林は初めてちょっとためらってから、多田くんに向かって話しかけた。
「……泊まるかはこれから決めます」
 多田くんは永林から視線を外さずに紘鳴が被っている帽子を気安くもふもふさわりながら言った。
「もし、煩わしくないなら、今夜、僕のところに来ないかい。せっかくのクリスマスだ。こんなホテルで過ごすのはつまらないだろう?」皮膚が厚い頬の皺が深くなった。
「あと、ひさしぶりに若い奴と話がしたくてね」
 多田くんに永林はふっと笑い、紘鳴を見つめた。
「もちろん、来なくても、きみたちに悪くなりはしない」
「ぼくらに来て欲しい理由をはっきり教えてもらえませんか」
 唖然として紘鳴は多田くんのセーターの背を引っ張った。こっちは仕事なんだ。そういうのはやめてくれ。
「ああ、そうだな……いうなれば」
 考えて、永林はすぐ答えを出した。
「多生の縁というところだ」


 クロークにあずけた旅荷物を取りに行き、永林が乗せてくれるという車をホテルの玄関で待つ。周りに聞こえないように、寒さがつらくてしがみついている振りをして紘鳴は
「仕事に差しつかえるので、ああいった、余計な発言はしないでください」
 よけいな、を強調して言った。しばらくしてから
「……今回の仕事の連れにぼくを選んだのはあなたです」
 と多田くんはダウンを着こんだ。紘鳴はスーツケースの持ち手を握り締めた。
「連れとして、選びました。だから、仕事の邪魔をされては困ります」
 高級な車種も永林と同乗している緊張感で姿勢を寛がせることはできなかった。それをごまかすために顔をまっすぐ前に向けて、甘えたふうにとなりの座席に坐る多田くんが脱いだダウンを奪って、膝にかけた。
 山道を一時間ほど走って、大仰な門が開け放たれていた。
 四階建ての館のなかに入るとスタンドミラー、壁にかける鏡や姿見、とにかく鏡がたくさん飾ってあった。ミラーハウスというよりも寓話によくあるような悪夢の風景に似ている。
「なぜこんなに、収集を」
「昔から集めていたら、いつのまにか数が溜まってしまう、と気づいたのはこんな年になってからだが」
 シックな制服姿の従業員に二階隅の客室に案内されると、ここにも鏡が多く飾られている。客室は広くていくつか分かれ、浴室やミニキッチンまでついていた。しかし寝室にはベッドがひとつしかなかった。多田くんが黙った。
「こんなホテルではつまらないと言い切っただけはありますね」
 と紘鳴は鎮座しているキングサイズよりも大きなベッドを一瞥して部屋の様子を点検した。
「いや、それはそうかもしれませんが」
 多田くんは眼鏡をさわり、騒ぎ立てはしなかった。
 帽子をとり、荷は置いても、コートは脱がずに紘鳴は部屋の鍵が重い部屋を出て、興味本位に館内を見たがる若者のように天井を見上げて廊下を進み、従業員を見つけて永林に取り次いでもらう。
 館内を、コレクションルーム以外もくまなく探さなければ目的のブツの所在はわからないか。永林に四階から自慢のコレクションを解説され、スタンドミラーを必死に見分ける自分の表情が部屋の鏡から一斉に見返してくる。
「明日のクリスマスイヴは、親類が何人か集まる予定だ。毎年なんだ。一年に一回、僕の顔を見に来る」
 一階におりて、庭に張り出したガラス張りのテラスにも鏡が置いている。
「夕食……ふたりはどのくらい酒を飲む」
 ずっと紘鳴の後ろに徒いていた多田くんが「ぼくは、あまり……」と断った。ばか正直め、と心のなかで悪態をついた紘鳴はテラスのガラス越しに山間の暗い空へ「飲んでも酔わない退屈な奴ですが、おれは多少は」と答えた。
 廊下の奥まった角を通ったとき、その扉の前で紘鳴は何か瞼の裏に見えた気がして足を止めた。これまでのコレクションルームとかわらない扉にまばたいた。ここは、素通りかと思った紘鳴を捉えた視線に向き直って、ぞっとした。永林は照れたような顔で笑っていた。
 扉のノブに手を伸ばす永林に、何も言えなかった。どうせいっとう豪奢な内装に鏡がいくつもあるんだろうと言い聞かせても、絶対にそんなものではないことはわかっていた。
 入って、照明がついて紘鳴は全身総毛立った。
 その部屋には何もなかった。
 贅沢なほどがらんとした空間には内装といえるものがなかった。
 ただ、対面の壁が一面、鏡張りだった。
 鏡には全面に細かいひびが走っていた。
 なんだこれは、と後ずさりそうになった。
 かろうじて上半身、大半は顔が映りこむ大きさの鏡の破片をつなげて、壁がつくられている。
「割れてひびが入った鏡をイメージしてつくった壁だ」
 イメージとかではなく、割れた鏡そのものではないか。こんな、のぞいていると不安になってくるような鏡の壁だけの部屋をつくらせたのは
「このお屋敷を建てたのはいつですか」と紘鳴は目をそらして永林に訊いた。
「妻と結婚するときだ。新居として建てた」
「新居?」これは妻を亡くして正気を失ってつくられた代物ではない。なら、本当にこれはいったいなんだ。
 いびつな鏡の壁にむかって、黒いコートを着た紘鳴がつぎはぎに立ちつくしている。永林は床にブーツをそろえて動かない紘鳴の様子をうかがって、言った。
「――昔から勘違いされる。鏡に映る虚像を愛していたわけではない。まあ……」
 姿を映しているとぞっとする。
「この鏡に映る妻の姿は見たかったよ。勿論」
 紘鳴は一刻も早くこの部屋を出たくなった。多田くんはどこだ。鏡にはぼんやり、なんだか紘鳴と距離をとって立っているような多田くんが映って、紘鳴がぱたぱた駆け寄ていくと多田くんは紘鳴を見下ろしてから、顔を上げ、鏡に映る紘鳴を目に残すようにじっと見つめた。


 近ごろは使ってないという食堂で、紘鳴は多田くんとなんの打ち合わせもせずディナーの席についた。まずこっちで毒味を、というアイコンタクトを多田くんは理解したのかしなかったのか、紘鳴がコートを脱いでブランケットを借りている間に、さっさと食べ始めてしまった。永林は年の割によく食べ、こっちにも、二人とも若いからと量が出てくる。食欲も湧かなかった紘鳴は小食なもので、と凡庸に切り返した。多田くんはよく食べた。永林が「一杯」とすすめてきたグラスを、紘鳴は飲むのをためらった。飲めないとか仕込まれているとか、そういう心配が理由ではなかった。あの部屋をつくった人間がすすめてくる酒に、単純に身構えた。
 受け取ったグラスをいったん置いて「……ぼくにももらえますか」と多田くんが言うのを聞いて、背筋がこわばった。当然のように紘鳴の置いたグラスを取ろうとした多田くんの手を両手で持ち、ねじり反らせた。声には出さなかったが心のなかで罵り「飲めないくせに」と小馬鹿にした調子でつぶやいた。
「むりに飲めとは言わないさ。飲めない男にむりやり飲ませるほど、無粋なこともない」
 笑いを噛み殺したふうに永林は従業員に命じて、紘鳴のグラスをさげさせた。
 うすら寒い館内を羽織ったコートをなびかせて多田くんと並び歩いて客室にもどった。扉を閉めた多田くんは手の甲をさすっていた。紘鳴はさっきねじって反らせたのを思い出した。
「……」
 あれを謝ることに、自分の胸のうちで納得できなかった。
「明日中に目的の品を探し出します」
「今日見て回った収集品のなかにはなかったんですか」
 紘鳴は迷ったが、今朝、端末に転送してもらったスタンドミラーの画像を見せた。
「……なんか、装飾がトゲトゲしてますね」
「とげじゃない。水面に落ちていく雫だ。名前がグラビティ」
 太腿を出していたせいで足が冷えて湯に浸かりたかった。不用心だと思ってもバスタブに湯を張った。西洋風の浴室は全体に不便なつくりだった。
「お風呂、先に使います」
 窓の分厚いカーテンを指でよけて外をうかがっている多田くんに声をかけた。
「どうぞ……」
 どこも不便なせいで入浴に時間がかかった。疲れて出て、荷ほどきしている多田くんに「シャワーもなにもかも、とても使いにくいです」と言った。
 部屋着の軽装で、ミニキッチンの付属物で何か飲み物でもと思ったがやめておいた。
 寝支度をし、妙に白っぽい光の照明をつけて寝室のベッドにふうと坐った。寝室の壁に巨大な鏡がはめこまれている。なんの変哲もない年代物だと思われた。表面に細かい傷がうっすらあった。埃のくすみに四隅から浸食されている。
 これは、普通の鏡か。のぞいて違和感はない。操作していた端末を放って、正面に立った。まさかマジックミラーではあるまい、と指紋のない鏡面に目をこらした。
 しかし、あのひび割れた鏡の壁を、どうして新婚生活をおくる場所につくったのか。結婚相手にさぞかし怖がられたのではないか。
 紘鳴はそれでも、新妻はあの部屋を、あの壁をいやがらなかったか、などと訊く気になれなかった。
 睨み合っていたら、鏡のふちに風呂から上がったらしい多田くんが映りこんだ。多田くんも寝間着というより部屋着だ。
「……なにを」
 背後に多田くんが映る。
「いえ、これが」
 仕掛けがある鏡だった場合を考えていた、なんて、予想が的中していたときを想定すると口頭では伝えられない。多田くんも眼鏡の奥から目を凝らしている。
 グイッと昼間より力がこもった腕が胸に回り、同時に多田くんの大きな手の片方が紘鳴の目を覆った。
「……ッ」
 視界を閉ざされ、声も出なかった。身体の向きが変えられ、ぎゅうと抱き締められた。片手で後ろ頭をつつまれる。
 洗い髪が多田くんの指にからむ。
 その後、身動きしない多田くんに紘鳴は我慢できなくて胸を押した。
 あんなに簡単に目もとをさわられるとは。油断した。紘鳴はくやしい気分で「もう寝ますか」と顔をゆらして訊いた。
 ついと手首を持たれ、引っ張られた。
 ベッドの端に坐る多田くんの膝の間に腰を抱き寄せられる。
「それで」
 左の額と頬の髪をかき上げられる。
「この傷はどうしたんですか」
 あんがい、執念深い男だと紘鳴は身をよじった。
「不審者をつかまえたときに殴られただけで……相手がナックルをつけてたから当たったところが切れて血が」
 多田くんはため息をついて、紘鳴の鎖骨の上に顔を伏せた。背からまわった手が右肩をぎりぎりとつかんでくる。
「もう治ったから」そうやって頭の重みかけてたら眼鏡がつぶれるぞ。紘鳴は肩に多田くんの指の痣ができそうだと思った。
「治ったからなんだっていうんですか」
 湯上がりの多田くんの身体が温かい。
「傷が、なおればいいだろ」
 どうなったって。
 監禁されたって脱出できればいい。
 そのあいだになにをされたって
「ぼくはいやです」紘鳴は右肩をつかむ指を一本ずつほどいた。「ぜんぶいやです」
 仕事中だから何をするつもりもないと紘鳴が言って、拘束を解いた。
 ベッドに乗り上がり壁際にもだもだと移動した紘鳴が横たわって、つけっぱなしの照明に眩しそうな顔をした。そのうち、照明が消えて、眼鏡を外す音がした。
 暗くなった途端に寒く、紘鳴は丸まった。明日は朝何時に起きる。アラームをセットしたか思い出そうとした。
「……なんで、そこまで端っこに……冷えるでしょう」
 呆れた声で手にまたつつまれる。
 抱えられて、紘鳴のつま先が多田くんの足の甲をなぞった。
 温かい。
 睡気が急激にさしてきた。
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