6 / 16
第六話 リミット
しおりを挟む
師走になってしまうと、紘鳴が思っていたよりいつもと調子も変わらず健康でどこも落ち着いて、多田くんと出会う前に戻ったみたいだった。しかしそれで余計に、多田くんと会ったことが毎日ずっと影響していたということを身を以て知ってしまった。ざわめいて、意識して、欲しいと飢えて、まったく。
痕跡は全部消去した。多田くんから連絡があっても、すぐ拒否リストに登録した。
あきらめるとか、そんな話ではない。存在が消えて忘れていくだけだ。
でも多田くんの新しい勤め先の記念館だが資料館だかのホームページを検索して、ああ冬期休業期間がここは長いのかと思い、だからそれを知ってどうするといまいましい気持ちになった。
もう遠い他人だが、張り切りすぎて過労はやめとけよと祈った。
また急に知り合いに呼ばれ、共学の学部が多い私立大学のオープンキャンパスの手伝いに行くことになった。去年クリスマスイブにケータリングを代理で届けた大学ではない。
「流行の胃腸炎で人手が足りなくなっちまった」
小雨の中、キャンパスを入ってすぐのスタッフ本部で知り合いの斎田は大学名が背中にプリントされた蛍光色のウインドブレイカーを羽織っていた。スタッフはそれを着た上で身分証代わりの名字が印字された台紙がはさまったビニール製の腕章をつける。
「……女用のフリーサイズにしたほうがいいな」
ウインドブレイカーに袖を通した紘鳴を見て斎田は言った。おとなしく男用のフリーサイズを脱ぐ。
大学の設備の説明と規模の大きな構内の建物配置などカリキュラム、高校生向けのガイダンス内容をざっと説明される。それを把握し、まとめて紹介される大学側のスタッフの名前と顔を覚える。
「あいかわらず飲みこみが早いよなあ、おまえ。さすが」
「卒業生なら少しは……学内の雰囲気とか、来る高校生が訊いてきそうなことを教えろ」
「おお優秀。ほんと重宝するわ」
「毎回前金払いの奴には、サービスしてやる」
大学備品のタブレット端末を持たされ、主に情報系の学科生が使う十号館の案内係になった。
「こういうイベントは不審者対策とかけっこう大変でさ」
「まあ、それはイベントに乗じて紛れこんでくる輩はいるだろう。部外者の出入りが激しくなって入りこみやすくなる」
「そ、盗撮とか勧誘とか、大学スタッフに化けて声かけるとか。警備員増やしてはいるけど……」
「何かあったら、すぐ本部にこれで知らせればいいんだろ」
スタッフ用の通信端末をウインドブレイカーのポケットから出した。
「ああ。なんもないのがいちばんいいんだけどな。今日天気悪いな」
「元気な高校生もわざわざこの冬いちばん底冷えする予報の日に来ないかもな」
「ばっさり言ってくれるなよ」
そうは言っても、時間が近くなると高校生たちが受付に列をなして、受付で大学資料といっしょにミニカイロを配る。
イベントの全体ガイダンスが中央会場のホールで終わったら、紘鳴は希望者高校生十人ほどのグループを連れて構内を歩くことになる。
タブレット端末のパネルをスワイプさせ、大学内の画像を見つつ、紘鳴はチーフスタッフの斎田と中央会場に移動する。小雨も止んで、灰色の曇った空だ。ホールまではの距離は短い。
「なあ、ひろなり」
「なんだ」
「今日、おわったら空いてる」
「どういう用だ」
斎田はすぐ答えず、走っていく若いスタッフに声をかけた。紘鳴は歩きながら構内の様子を眺めた。こういう仕事なので今日は動きやすいジーンズにショートブーツを履いてきた。
「おまえ、今、相手いたりするの」
「なんの?」
紘鳴は口もとを歪めて問い返した。
「ヤる相手」
「ヤるならもう仕事は請け負わない。二度と呼び出しに応じない」
斎田はむくれたような子どものような目で紘鳴を見下ろした。
「それは困る。でもええ……なんで?」
「知り合いは知り合い、ヤる奴はヤる奴」
「ちぇっ……おまえに仕事頼めなくなるのはまじでアレだからなあ」
「斎田、それ込みで今日呼び出したのか」
紘鳴が冷たい声で言うと斎田は慌てた素振りで振り返った。
「いや、違うからな? 全然そんなこと考えてなかった」
疑った目で睨めつけて紘鳴は「それならいい」と言った。
「さっき突然頭に浮かんだだけだって、疲れてんだよおれも」
うっとうしいと顎を上げ、紘鳴は視線をホールの入り口で団子になっている高校生に向けた。
「情報系の学科生の講義や実習が行われるのが、この十号館です」
後ろについてくる男女合わせて十一人の高校二年生にわかりやすく外壁に手を差し伸べてにこやかに話す。十五階建てで、二重構造の自動ドアが開き、傘を持参している数人に傘立てを示した。紘鳴も大学備品のビニール傘をさして自習スペースと事務室など一階をゆっくり案内してエスカレーターに乗る。
ちゃんと十一人ついてきてるか確認して講義室や情報設備が整っていると説明して順にめぐる。案内の時間配分はしっかりオープンキャンパス全体のプログラムとして決まっているので時間を確認して動かなくてはならない。
「あの、ここの学部の方ですか?」
十四階の大講義室を出たあたりで三人連れ立っている同じ制服の女子高生たちに訊ねられ、「いえ、もうボクは卒業して……今日は助っ人で」と答えた。学校というものを卒業したことはあるから言ってることはまちがってないだろう。
十五階まで案内し終わり、一階におりる。心配していたがエレベーターにぎりぎり全員乗った。
「ここの学食ってどんなかんじなんですか」
十号館を出て向かいにある建屋のガラス張りの一階の前に英字でカフェテリアという看板が置かれているのを見て、ブレザーの男子校生が言った。
「そうですね、構内に学食はふたつあって、ここが場所的に利用者が多いほうで昼休みはかなり混雑します。メニューは……」
斎田からさっき聞き出したことをもっともらしくしゃべった。
「もうひとつの学食にはベーカリーショップが」
本部へ戻る道すがら、答えられないことは特に訊かれなかった。そしてまた本部に戻って待っている次のグループとまた十号館に向かう。そんな往復を四回繰り返して、昼になった。午前で十号館案内プログラムは終了し、本部の隅で配布弁当を食べて午後は帰りの受付でアンケートを書いてもらい、高校生たちにオープンキャンパスでもらえる記念品を手渡す係である。
底冷えする天候は雨が降っていなくても気温が低く、ウインドブレイカーの首回りはすうすうとして寒い。ウインドブレイカー自体、生地が薄くて防寒具としては役に立っていない。紘鳴は首をさすり、弁当とセットでもらったホットのペットボトルを両手でつつみ、「さむ……」と呟いた。ぬるくなっているそれを飲み干し、寒気にじっとしていられなくてパイプ椅子から立ち上がった。他のスタッフに、本部そばの建物の廊下に積んである記念品の入ったダンボールを受付横に補充してくれと指示される。記念品がぎっしり入ったけっこう重いダンボールを抱え、早足で運ぶ。
二件の不審者目撃情報が本部に入っていた。ウインドブレイカーを着て一見スタッフのようだが挙動不審な男が二人、背の低い薄汚れたかんじの男と身長のある地味な金髪の男が単独でうろついていたらしく、すぐ警備員が目撃された場所を巡回する手配がされた。
雨がぱらぱら降ってきた。記念品を渡し、高校生と保護者たちが帰っていくのを見送って、紘鳴は休憩をもらってトイレに行った。
あらかた帰ったみたいだな。二時を過ぎて本部には空になった記念品のダンボールが山になっている。
不審者はまだ見つかってない。斎田は大学側の関係者と話していたが、今し方警備員数名と本部を出ていった。
本部に残る大学側の他のスタッフたちの会話をほぼ部外者の紘鳴は黙って聞いていた。斎田にひとこと断って帰りたいのだが、いつ本部に戻ってくるか見当がつかない。端末にメッセージを送って帰ればいいかとも思い、しかしこのウインドブレイカーと腕章をどうしたらいいとため息をついた。
これおひとつどうぞとお菓子をもらう。
「パン屋があるほうの学食のパン屋さんは今日は営業しているんですか?」
「やってると思いますよ」
「そうですか……」
時刻は三時になり、イベントの片付け作業も部外者の紘鳴にはすることがなくなった。
パン屋のある学食に行ってみよう。そこにいる全員にわかるよう告げて雨もよいの空を見上げ、ビニール傘を持たずに歩き出した。人が少なくなった構内を特に異常はないかいちおう見渡した。
学食のパン屋はパンが売り切れてしまったのか閉まっていた。こうなると腹が空いてくる、と紘鳴は来た道を引き返した。雨がまたぱらつき始め、寒いとひさしのある建屋に寄った。ぱっと見、ひさしが続いていると迂回した道で紘鳴は、遠目に見えたものに立ち止まった。
構内の端、出入りの門に伸びている路で、女子高生数人とウインドブレイカーを着た背の低い男が話をしている。通信端末で連絡を取ると同時に大股の歩みで向かっていくと背の低い男は表情を変えた。まっすぐ進む紘鳴は、建物の角から出てくるウインドブレイカーを着た身長のある男に道をさえぎられた。
身長のある男は、女子高生と背の低い男に目をやって紘鳴には注意を払わず、二度見してやっと紘鳴に気づき目つき悪く「あ?」と声を出した。身長のある男はいったん身構えたが、細身の紘鳴は簡単に振り切れると思ったのか、ポケットからバッと手を引き抜き、大きく腕を振りかぶった。普段なら避けられるスピードの攻撃だったが、そのとき身長がある男が出てきたのと同じ角から、連れ立って女子高生が三人現れた。
カイザーナックルを装着した拳に勢い良く顔の左半分を殴りつけられ、衝撃で何歩か横方向によろつく。
殴っても倒れなかった紘鳴に身長のある男はぎょっとした顔になり、出入りの門のほうへ走り出した。
かろうじて目は潰れていないがたぶん血が出ている。ぬるついた顔を左手でおさえ、女子高生三人には右手を「さがって」と振った。紘鳴はふら、と揺れ、足を踏みこんだ。
まず身長のある男を追い抜きがてら、ななめにあばらあたりを蹴り飛ばした。まだ門を一歩出たあたりでどう逃げるかもたもた迷っている背の低い男に、紘鳴は加速をつけて跳んだ。ブーツのかかとが男の肩にめりこむ。
道で痛みにのたうつ不審者二人を集まってきた警備員が身柄を拘束し、警察に引き渡した。
本部で顔に負った怪我の応急処置をされた後、紘鳴は斎田の車で病院に行って手当てと検査を受けた。
「ナックルして殴る野郎なんてまだいたのか」帰りの車で斎田は呆れた声でつぶやいた。本部に急いで戻ってきて、顔左半分から血をだらだら流している紘鳴に慌てふためく斎田に、スタッフにタオルで血を拭われていた紘鳴は「落ち着け」と薄く開けた目を閉じた。疲れと痛みで声が小さくなった。
さいわい骨に異常はなく、左目を覆われて裂けた傷と痣ができた左の額から頬にかけて包帯を巻かれた。
「なあ、ウチに来いよ。その傷で、一人で」
「ここで降ろせ」
「……おいっ」
「聞こえなかったか。降ろせと言った」
街なかで車を停めさせ、降りた。紘鳴は視界は悪いのもあってゆっくり歩いた。周りの視線を感じ、それはそうかと思い、駅前の量販店に入った。サイズの大きいパーカーを買ってフードを被る。それからタクシーを拾った。
痛みと熱があったけど痛み止めを多くもらったし、もともと傷の治りははやいほうだった。それでも巻かれてしまった包帯を変えるのと裂けた傷のため病院には通った。呼ばれて警察に事情を話しにも行った。
ひどい色の痣がひいて、裂け目のぼこぼこが目立たなく治まるころには世間はクリスマス前になっていた。知り合いからのケーキフェスタにブースを出店するから来てくれないかという呼び出しがあったのはイベント前日、二十一日でもう夕方だった。暖房の効いた事務所のソファに寝転がる。
「ケーキ屋……ちょっと今、顔に傷跡があるんだがそれでもいいか」
「見てすぐわかるような傷か」
「いや、そこまでじゃない、と思う。ああ、まじまじと見られたらわかる」
「……んーまあ、そのくらいならかまわん」
知り合いの渋い声を紘鳴は鼻で笑った。
傷もいいかげん、治ったと手を平らな下腹にやって、紘鳴は唾液を嚥下した。多田くん以外の男とヤる気には全然ならないけど、もう別にいいと思った。溜まっているのだ。明日の夜は、どこかで適当に男を選んで
「できるかな」
と声に出した。いやだなと続けて言いそうになった。なにがいやなのか。二の腕をさすった。
二十二日、食品を扱うから香水の類いはつけないで、朝、駅で知り合いの車が迎えに来た。イベント会場の会館で紘鳴は女性の店員三人に挨拶し、案の定全員に顔の傷を悟られた。高いところのものを無理に取ろうとしたら顔に落ちてきたと眉をひそめて痛そうに笑みを浮かべる。
紘鳴は試食を勧めて、セールストークをする役目を任された。売り子の白い布巾の帽子までしてしまうと、髪に隠した顔がだいぶ見えてしまうのにそんな役をして売り上げに影響しないか大丈夫かと心配になったが、三人ともひかえめなタイプのようで積極的に試食を勧める役はしたくないようだった。
会場の天井は高く、照明が等間隔にぶら下がっていた。さまざな種類の菓子屋がブース出店している会場は賑やかで、この顔で試食を勧めてもどの客も気にしなかった。紘鳴はブースの前で試食用に切られたケーキを載せたトレイを持って、ケーキの美味しさを明るい笑顔で会場を行きかう人に勧めた。
午後、トレイにまた違う種類のケーキを載せていると聞いた覚えのある声が耳に入り、紘鳴の顔から表情が一瞬無くなった。
なんでよりによって今日なのだ。下瞼がひくついて傷跡に痛みが走った。
「レストランには持ちこめないから、ここで生菓子は買えませんね」
多田くんの声はどこかかっちりとしていた。
「でもせっかくだし、小さいのを買って食べない?」
「あんまり重くないのならいいかもね」
会話をしているのだ、と紘鳴はトレイを持ってまた客の通るほうへ向いた。
スーツの女性二人が脇の通路で立ち止まり、ブースの並びを眺めている。その女性二人の背後にスーツの多田くんが微妙に首をかしげて、どうしようかという顔で立っていた。
試食販売の役なのだから。紘鳴は女性二人に「お気軽に、ご試食どうぞ」と声をかけた。自分の声に耳の裏がざらざらして吐き気がした。
多田くんの顔がこわばって固まったのはほんの数秒で、試食をつまむ女性二人から何歩か下がって待っている。
「おいしい」と驚いた声で女性二人は言い合って、紘鳴はケーキの紹介をするとブースのケースに顔をしゃくった。女性二人の歩調と合わせケースに寄って他のケーキの説明をし、女性二人がケースをのぞきこんでいる間、多田くんの視線をかわして、ずっと顔をそむけていた。
プチケーキの会計を済ませた女性二人にお辞儀をした。
それから、休憩をとったらどうかと三人から言われ、そういえばろくに休憩時間をとってなかったと紘鳴はすみませんとうなづいた。自分は昼を食べたろうかと客の間を抜けていく。
そういう立ち姿もできるのかとフードコートのようなコーナーでさっきの女性二人が購入した品を食べている近くに立つ多田くんを眺めた。
顔を上げた多田くんと視線を交わす。女性二人に何か言って、多田くんは必死そうな足で紘鳴の前まで来た。
「ごぶさたしてます」
「……あの」
「同僚の方ですか?」
「……ああ、ええ、そうです」
「そうですか。……この後はお二人とお食事?」
「……これから、移動して、職場の忘年会に。明日から、三連休で」
「ああ、そうなんですね。それは」
二十三、二十四、二十五のクリスマス三連休が
「……夜、事務所に行ってもいいですか」
紘鳴はちょっと笑った。
「来られても困ります。というか」
今夜は
「行っても留守です」
会話が終わった。眼鏡は変わっていないなと紘鳴は見上げて、濃い青のネクタイの模様を見つめた。
「その、顔の傷はどうしたんですか」
紘鳴は絶句しかけた。多田くんは鋭い目つきで、紘鳴の顔の左側をなぞるように見た。
答えずにいると、多田くんがふいと顔を女性二人のほうへやってそれから紘鳴に無言で礼をしてその場を立ち去った。
店じまいの時刻にやってきた知り合いに、完売を感謝され、飲みに行こうと誘われたが断ってすぐ会場を後にした。
どこで男を選ぼうかと紘鳴は繁華街の夜道で、胸に落ちてきたマフラーをまた肩にかけた。頭の中で行く店の候補を挙げていく。
どうしてあんなふうに、抜群のタイミングで会わなければいけないのだろう。
やめておこうか。でも帰ったってもうどうしようもない。それなりに心づもりをしてショート丈のコートを着てきたことに、なんだか後悔が募った。
結局、両手で数えるくらい行ったことのあるクラブに顔を出すことにした。
地下階段をおりて、混んでいる店内に引き返そうかと思ったが今日会ったことに対する意地でアルコール度数が低いドリンクを注文して暗い壁際で飲んだ。アルコールで身体が熱く、あっちいと深く呼吸した途端、人口密度の高い空気が気持ち悪くなった。帰ろうと決めたらやたら速かった。しかし出口でふらついたところに声をかけられた。
「帰るの?」
低めのトーンの声で、手足のバランスの良い男の全身を観察してから紘鳴はこくんと首を動かした。
「足ふらってしてたけどだいじょうぶ?」
「……だめかも」
「そっか」
紘鳴の腰、コートの裾に男が手を沿わせる。
頭が男の胸にかるくふれて、耳元で囁かれた。
「ネコ?」
「バリネコ」
男の胸にもたれて、腕に指を絡めた。そのとき、閉じた瞼になにかいやなものが映り、目が開いた。「これなんだよ」と尖った声がした。ぐいっと肩をつかまれて、男から引き剥がされた。それから「だれだよこいつ」とコートの胸ぐらをつかまれ、カウンターの端の壁に押しつけられる。紘鳴に体格だけ似た、目鼻立ちが派手な男が「すぐこれかよ! いいかげんにしろよ」と大声で叫んだ。紘鳴を誘ってきた男がなだめる口調で紘鳴のコートから手を離させた。それから口論が始まった。
相手持ちか。汗をかいた肌が冷えていく。いつもならこういうのはすぐ見抜けるはずで、勘が鈍っているなと壁をずれて、よたっと出口に引き返した。
「誘いにのっといて、何も言わないで帰んのかよっ」
その瞬間、顔に冷たい液体が浴びせられ紘鳴は唖然とした。ドリンクをまともにぶっかけられるとは思わなかった。
しかしこれもいつもならうまくよけられただろう。手でおざなりに払って、マフラーがぐっしょり濡れているのに心底面倒くさい目になった。ひと息こらえて
「……相手がいるんだったら、声をかけてくるな」
こめかみに張り付いた髪をかき上げ、吐き捨てた。「泣いてすがって、許してもらえ」
地下階段をガツンガツンと音を立てて上る。
「ねえ、ごめん! ちょっと、頭にきて、よくわかなくなって」
上がり口でドリンクぶっかけてきた男が、紘鳴に呼びかけた。無視して、自分の息の音も耳障りだった。外気にふれ、濡れた皮膚に鳥肌が立った。ドラッグストアのトイレで顔を洗い、タクシーを拾った。車内でべたべたする首と髪をドラッグストアでついでに買ったウエットテッシュで拭う。
密集した路地に入る角で降りて事務所の物件まで足音を響かせて歩いた。
マフラーもコートもクリーニングにさっさと出さないと。怒りが静まると身体じゅうに萎えが広がって、顔の傷跡がぴりぴり痛み、今夜はなんだか事務所まで遠かった。ふんだりけったりというのはこのことだ。
長い帰り路の先、事務所のエントランスの戸から出てきた多田くんに紘鳴は顔つきだけぼんやりとなり、首から背までひとすじに硬直した。
「……いてほしいと思って来ただけです」
と言った後で、黙った。紘鳴の格好に瞳を動かした。
ひどい有り様を眺められ、笑うように唇を細めた。
「待っていたんですか?」
「……どうしたんですか」
街道の車の音が止むのを待って紘鳴は言葉をつむいだ。
「べつに……おとこを漁りに」
言いたくなかった。
苦い言葉だった。
多田くん以外とはしたくなかった。
それでも、言っておかないと限界だった。
しばらくして、スーツの上にコートを羽織った多田くんが正面から紘鳴の左の耳にかかる髪をよけた。
いつものように反応しなかった。どうでもいいことのように払いのけようとせず、目も合わせず、表情も動かなかった。額の髪をかき上げた。
「……べたべたしてるからさわらないほうがいい」
露わになった傷の跡を指が触らぬか触るかくらいに撫ぜた。
多田くんの顔がそこに近づいて、紘鳴はさすがに身を引いた。
「梅酒?」
くんくんと嗅いで多田くんはつぶやく。
「……ああ、たぶん……梅酒サワーか何かだと思うけど」ぶっかけられたのは梅酒の入ったドリンクで、マフラーもコートも梅酒くさい。もろにかかった髪はかなりべたついている。
ショート丈のコートのポケットで端末が鳴り、着信相手はわりと厄介な仕事を頼んでくる知り合いだった。多田くんが至近距離にいても、いないのと同じように紘鳴は端末で通話し始めた。
「明日から二泊三日。行ってくれるか?」
「遠いのか」
「まあまあ。あ、それで連れを一人用意頼む」
「は?」
「この三連休つぶして二泊三日。プラス連れ一人。ひろなり、おまえのとなりに立って不自然じゃないなら男でも女でもいい」
目の前の多田くんを見上げた。
「ちょっと待て」
耳から端末を離す。空は真っ黒に澄んで、街灯の光が淡く滲んでいた。
「多田さん」
明後日はクリスマスイヴだ。
「三連休、予定はありますか」
巻きこんではいけない。巻きこんだら、最後な気がした。そっちにいってはいけない。でも、きっと多田くんは
「特にないです」
「それじゃ多田さんの三連休ください。明日の朝から二泊三日の日程で」
紘鳴は端末に耳を戻した。
「わかった。連れは確保できた。請ける」
「おお、おまえ、出ないときは出ないのに、出ると即答だな」
詳しいことは明日の朝、車に乗せてからと通話が切れた。
端末をコートのポケットにしまった。
冬の空に沈みこむみたいに、息をついた。
ここで、もし梅酒の入ったドリンクをかけられてなかったら、顔も髪もべとべとしてなかったら、自分で一歩踏み出して多田くんの胸にぽすとくっついたかもしれない。
だが、実際に梅酒の入ったドリンクをかけられてなかったら、そのときはそんな真似はしようと発想もしない。絶対にしない。
「明日、二泊三日の用意して、集合は……この、路線で」多田くんの眼鏡に映るくらい、ずいと出した端末に路線図を表示させて、集合時間を決めた。
そのあとは多田くんを夜道に放りだすように帰るよう促した。エントランスの戸を押してなかに入ってすぐ、暗がりで顎をとられた。
わざわざ梅酒の匂いがする唇にキスすることないのに。
べとついてる傷の跡を優しく撫ぜる必要などないのに。
身体を離した多田くんの呼吸が夜気に、ほんのり白く立ち昇った。
痕跡は全部消去した。多田くんから連絡があっても、すぐ拒否リストに登録した。
あきらめるとか、そんな話ではない。存在が消えて忘れていくだけだ。
でも多田くんの新しい勤め先の記念館だが資料館だかのホームページを検索して、ああ冬期休業期間がここは長いのかと思い、だからそれを知ってどうするといまいましい気持ちになった。
もう遠い他人だが、張り切りすぎて過労はやめとけよと祈った。
また急に知り合いに呼ばれ、共学の学部が多い私立大学のオープンキャンパスの手伝いに行くことになった。去年クリスマスイブにケータリングを代理で届けた大学ではない。
「流行の胃腸炎で人手が足りなくなっちまった」
小雨の中、キャンパスを入ってすぐのスタッフ本部で知り合いの斎田は大学名が背中にプリントされた蛍光色のウインドブレイカーを羽織っていた。スタッフはそれを着た上で身分証代わりの名字が印字された台紙がはさまったビニール製の腕章をつける。
「……女用のフリーサイズにしたほうがいいな」
ウインドブレイカーに袖を通した紘鳴を見て斎田は言った。おとなしく男用のフリーサイズを脱ぐ。
大学の設備の説明と規模の大きな構内の建物配置などカリキュラム、高校生向けのガイダンス内容をざっと説明される。それを把握し、まとめて紹介される大学側のスタッフの名前と顔を覚える。
「あいかわらず飲みこみが早いよなあ、おまえ。さすが」
「卒業生なら少しは……学内の雰囲気とか、来る高校生が訊いてきそうなことを教えろ」
「おお優秀。ほんと重宝するわ」
「毎回前金払いの奴には、サービスしてやる」
大学備品のタブレット端末を持たされ、主に情報系の学科生が使う十号館の案内係になった。
「こういうイベントは不審者対策とかけっこう大変でさ」
「まあ、それはイベントに乗じて紛れこんでくる輩はいるだろう。部外者の出入りが激しくなって入りこみやすくなる」
「そ、盗撮とか勧誘とか、大学スタッフに化けて声かけるとか。警備員増やしてはいるけど……」
「何かあったら、すぐ本部にこれで知らせればいいんだろ」
スタッフ用の通信端末をウインドブレイカーのポケットから出した。
「ああ。なんもないのがいちばんいいんだけどな。今日天気悪いな」
「元気な高校生もわざわざこの冬いちばん底冷えする予報の日に来ないかもな」
「ばっさり言ってくれるなよ」
そうは言っても、時間が近くなると高校生たちが受付に列をなして、受付で大学資料といっしょにミニカイロを配る。
イベントの全体ガイダンスが中央会場のホールで終わったら、紘鳴は希望者高校生十人ほどのグループを連れて構内を歩くことになる。
タブレット端末のパネルをスワイプさせ、大学内の画像を見つつ、紘鳴はチーフスタッフの斎田と中央会場に移動する。小雨も止んで、灰色の曇った空だ。ホールまではの距離は短い。
「なあ、ひろなり」
「なんだ」
「今日、おわったら空いてる」
「どういう用だ」
斎田はすぐ答えず、走っていく若いスタッフに声をかけた。紘鳴は歩きながら構内の様子を眺めた。こういう仕事なので今日は動きやすいジーンズにショートブーツを履いてきた。
「おまえ、今、相手いたりするの」
「なんの?」
紘鳴は口もとを歪めて問い返した。
「ヤる相手」
「ヤるならもう仕事は請け負わない。二度と呼び出しに応じない」
斎田はむくれたような子どものような目で紘鳴を見下ろした。
「それは困る。でもええ……なんで?」
「知り合いは知り合い、ヤる奴はヤる奴」
「ちぇっ……おまえに仕事頼めなくなるのはまじでアレだからなあ」
「斎田、それ込みで今日呼び出したのか」
紘鳴が冷たい声で言うと斎田は慌てた素振りで振り返った。
「いや、違うからな? 全然そんなこと考えてなかった」
疑った目で睨めつけて紘鳴は「それならいい」と言った。
「さっき突然頭に浮かんだだけだって、疲れてんだよおれも」
うっとうしいと顎を上げ、紘鳴は視線をホールの入り口で団子になっている高校生に向けた。
「情報系の学科生の講義や実習が行われるのが、この十号館です」
後ろについてくる男女合わせて十一人の高校二年生にわかりやすく外壁に手を差し伸べてにこやかに話す。十五階建てで、二重構造の自動ドアが開き、傘を持参している数人に傘立てを示した。紘鳴も大学備品のビニール傘をさして自習スペースと事務室など一階をゆっくり案内してエスカレーターに乗る。
ちゃんと十一人ついてきてるか確認して講義室や情報設備が整っていると説明して順にめぐる。案内の時間配分はしっかりオープンキャンパス全体のプログラムとして決まっているので時間を確認して動かなくてはならない。
「あの、ここの学部の方ですか?」
十四階の大講義室を出たあたりで三人連れ立っている同じ制服の女子高生たちに訊ねられ、「いえ、もうボクは卒業して……今日は助っ人で」と答えた。学校というものを卒業したことはあるから言ってることはまちがってないだろう。
十五階まで案内し終わり、一階におりる。心配していたがエレベーターにぎりぎり全員乗った。
「ここの学食ってどんなかんじなんですか」
十号館を出て向かいにある建屋のガラス張りの一階の前に英字でカフェテリアという看板が置かれているのを見て、ブレザーの男子校生が言った。
「そうですね、構内に学食はふたつあって、ここが場所的に利用者が多いほうで昼休みはかなり混雑します。メニューは……」
斎田からさっき聞き出したことをもっともらしくしゃべった。
「もうひとつの学食にはベーカリーショップが」
本部へ戻る道すがら、答えられないことは特に訊かれなかった。そしてまた本部に戻って待っている次のグループとまた十号館に向かう。そんな往復を四回繰り返して、昼になった。午前で十号館案内プログラムは終了し、本部の隅で配布弁当を食べて午後は帰りの受付でアンケートを書いてもらい、高校生たちにオープンキャンパスでもらえる記念品を手渡す係である。
底冷えする天候は雨が降っていなくても気温が低く、ウインドブレイカーの首回りはすうすうとして寒い。ウインドブレイカー自体、生地が薄くて防寒具としては役に立っていない。紘鳴は首をさすり、弁当とセットでもらったホットのペットボトルを両手でつつみ、「さむ……」と呟いた。ぬるくなっているそれを飲み干し、寒気にじっとしていられなくてパイプ椅子から立ち上がった。他のスタッフに、本部そばの建物の廊下に積んである記念品の入ったダンボールを受付横に補充してくれと指示される。記念品がぎっしり入ったけっこう重いダンボールを抱え、早足で運ぶ。
二件の不審者目撃情報が本部に入っていた。ウインドブレイカーを着て一見スタッフのようだが挙動不審な男が二人、背の低い薄汚れたかんじの男と身長のある地味な金髪の男が単独でうろついていたらしく、すぐ警備員が目撃された場所を巡回する手配がされた。
雨がぱらぱら降ってきた。記念品を渡し、高校生と保護者たちが帰っていくのを見送って、紘鳴は休憩をもらってトイレに行った。
あらかた帰ったみたいだな。二時を過ぎて本部には空になった記念品のダンボールが山になっている。
不審者はまだ見つかってない。斎田は大学側の関係者と話していたが、今し方警備員数名と本部を出ていった。
本部に残る大学側の他のスタッフたちの会話をほぼ部外者の紘鳴は黙って聞いていた。斎田にひとこと断って帰りたいのだが、いつ本部に戻ってくるか見当がつかない。端末にメッセージを送って帰ればいいかとも思い、しかしこのウインドブレイカーと腕章をどうしたらいいとため息をついた。
これおひとつどうぞとお菓子をもらう。
「パン屋があるほうの学食のパン屋さんは今日は営業しているんですか?」
「やってると思いますよ」
「そうですか……」
時刻は三時になり、イベントの片付け作業も部外者の紘鳴にはすることがなくなった。
パン屋のある学食に行ってみよう。そこにいる全員にわかるよう告げて雨もよいの空を見上げ、ビニール傘を持たずに歩き出した。人が少なくなった構内を特に異常はないかいちおう見渡した。
学食のパン屋はパンが売り切れてしまったのか閉まっていた。こうなると腹が空いてくる、と紘鳴は来た道を引き返した。雨がまたぱらつき始め、寒いとひさしのある建屋に寄った。ぱっと見、ひさしが続いていると迂回した道で紘鳴は、遠目に見えたものに立ち止まった。
構内の端、出入りの門に伸びている路で、女子高生数人とウインドブレイカーを着た背の低い男が話をしている。通信端末で連絡を取ると同時に大股の歩みで向かっていくと背の低い男は表情を変えた。まっすぐ進む紘鳴は、建物の角から出てくるウインドブレイカーを着た身長のある男に道をさえぎられた。
身長のある男は、女子高生と背の低い男に目をやって紘鳴には注意を払わず、二度見してやっと紘鳴に気づき目つき悪く「あ?」と声を出した。身長のある男はいったん身構えたが、細身の紘鳴は簡単に振り切れると思ったのか、ポケットからバッと手を引き抜き、大きく腕を振りかぶった。普段なら避けられるスピードの攻撃だったが、そのとき身長がある男が出てきたのと同じ角から、連れ立って女子高生が三人現れた。
カイザーナックルを装着した拳に勢い良く顔の左半分を殴りつけられ、衝撃で何歩か横方向によろつく。
殴っても倒れなかった紘鳴に身長のある男はぎょっとした顔になり、出入りの門のほうへ走り出した。
かろうじて目は潰れていないがたぶん血が出ている。ぬるついた顔を左手でおさえ、女子高生三人には右手を「さがって」と振った。紘鳴はふら、と揺れ、足を踏みこんだ。
まず身長のある男を追い抜きがてら、ななめにあばらあたりを蹴り飛ばした。まだ門を一歩出たあたりでどう逃げるかもたもた迷っている背の低い男に、紘鳴は加速をつけて跳んだ。ブーツのかかとが男の肩にめりこむ。
道で痛みにのたうつ不審者二人を集まってきた警備員が身柄を拘束し、警察に引き渡した。
本部で顔に負った怪我の応急処置をされた後、紘鳴は斎田の車で病院に行って手当てと検査を受けた。
「ナックルして殴る野郎なんてまだいたのか」帰りの車で斎田は呆れた声でつぶやいた。本部に急いで戻ってきて、顔左半分から血をだらだら流している紘鳴に慌てふためく斎田に、スタッフにタオルで血を拭われていた紘鳴は「落ち着け」と薄く開けた目を閉じた。疲れと痛みで声が小さくなった。
さいわい骨に異常はなく、左目を覆われて裂けた傷と痣ができた左の額から頬にかけて包帯を巻かれた。
「なあ、ウチに来いよ。その傷で、一人で」
「ここで降ろせ」
「……おいっ」
「聞こえなかったか。降ろせと言った」
街なかで車を停めさせ、降りた。紘鳴は視界は悪いのもあってゆっくり歩いた。周りの視線を感じ、それはそうかと思い、駅前の量販店に入った。サイズの大きいパーカーを買ってフードを被る。それからタクシーを拾った。
痛みと熱があったけど痛み止めを多くもらったし、もともと傷の治りははやいほうだった。それでも巻かれてしまった包帯を変えるのと裂けた傷のため病院には通った。呼ばれて警察に事情を話しにも行った。
ひどい色の痣がひいて、裂け目のぼこぼこが目立たなく治まるころには世間はクリスマス前になっていた。知り合いからのケーキフェスタにブースを出店するから来てくれないかという呼び出しがあったのはイベント前日、二十一日でもう夕方だった。暖房の効いた事務所のソファに寝転がる。
「ケーキ屋……ちょっと今、顔に傷跡があるんだがそれでもいいか」
「見てすぐわかるような傷か」
「いや、そこまでじゃない、と思う。ああ、まじまじと見られたらわかる」
「……んーまあ、そのくらいならかまわん」
知り合いの渋い声を紘鳴は鼻で笑った。
傷もいいかげん、治ったと手を平らな下腹にやって、紘鳴は唾液を嚥下した。多田くん以外の男とヤる気には全然ならないけど、もう別にいいと思った。溜まっているのだ。明日の夜は、どこかで適当に男を選んで
「できるかな」
と声に出した。いやだなと続けて言いそうになった。なにがいやなのか。二の腕をさすった。
二十二日、食品を扱うから香水の類いはつけないで、朝、駅で知り合いの車が迎えに来た。イベント会場の会館で紘鳴は女性の店員三人に挨拶し、案の定全員に顔の傷を悟られた。高いところのものを無理に取ろうとしたら顔に落ちてきたと眉をひそめて痛そうに笑みを浮かべる。
紘鳴は試食を勧めて、セールストークをする役目を任された。売り子の白い布巾の帽子までしてしまうと、髪に隠した顔がだいぶ見えてしまうのにそんな役をして売り上げに影響しないか大丈夫かと心配になったが、三人ともひかえめなタイプのようで積極的に試食を勧める役はしたくないようだった。
会場の天井は高く、照明が等間隔にぶら下がっていた。さまざな種類の菓子屋がブース出店している会場は賑やかで、この顔で試食を勧めてもどの客も気にしなかった。紘鳴はブースの前で試食用に切られたケーキを載せたトレイを持って、ケーキの美味しさを明るい笑顔で会場を行きかう人に勧めた。
午後、トレイにまた違う種類のケーキを載せていると聞いた覚えのある声が耳に入り、紘鳴の顔から表情が一瞬無くなった。
なんでよりによって今日なのだ。下瞼がひくついて傷跡に痛みが走った。
「レストランには持ちこめないから、ここで生菓子は買えませんね」
多田くんの声はどこかかっちりとしていた。
「でもせっかくだし、小さいのを買って食べない?」
「あんまり重くないのならいいかもね」
会話をしているのだ、と紘鳴はトレイを持ってまた客の通るほうへ向いた。
スーツの女性二人が脇の通路で立ち止まり、ブースの並びを眺めている。その女性二人の背後にスーツの多田くんが微妙に首をかしげて、どうしようかという顔で立っていた。
試食販売の役なのだから。紘鳴は女性二人に「お気軽に、ご試食どうぞ」と声をかけた。自分の声に耳の裏がざらざらして吐き気がした。
多田くんの顔がこわばって固まったのはほんの数秒で、試食をつまむ女性二人から何歩か下がって待っている。
「おいしい」と驚いた声で女性二人は言い合って、紘鳴はケーキの紹介をするとブースのケースに顔をしゃくった。女性二人の歩調と合わせケースに寄って他のケーキの説明をし、女性二人がケースをのぞきこんでいる間、多田くんの視線をかわして、ずっと顔をそむけていた。
プチケーキの会計を済ませた女性二人にお辞儀をした。
それから、休憩をとったらどうかと三人から言われ、そういえばろくに休憩時間をとってなかったと紘鳴はすみませんとうなづいた。自分は昼を食べたろうかと客の間を抜けていく。
そういう立ち姿もできるのかとフードコートのようなコーナーでさっきの女性二人が購入した品を食べている近くに立つ多田くんを眺めた。
顔を上げた多田くんと視線を交わす。女性二人に何か言って、多田くんは必死そうな足で紘鳴の前まで来た。
「ごぶさたしてます」
「……あの」
「同僚の方ですか?」
「……ああ、ええ、そうです」
「そうですか。……この後はお二人とお食事?」
「……これから、移動して、職場の忘年会に。明日から、三連休で」
「ああ、そうなんですね。それは」
二十三、二十四、二十五のクリスマス三連休が
「……夜、事務所に行ってもいいですか」
紘鳴はちょっと笑った。
「来られても困ります。というか」
今夜は
「行っても留守です」
会話が終わった。眼鏡は変わっていないなと紘鳴は見上げて、濃い青のネクタイの模様を見つめた。
「その、顔の傷はどうしたんですか」
紘鳴は絶句しかけた。多田くんは鋭い目つきで、紘鳴の顔の左側をなぞるように見た。
答えずにいると、多田くんがふいと顔を女性二人のほうへやってそれから紘鳴に無言で礼をしてその場を立ち去った。
店じまいの時刻にやってきた知り合いに、完売を感謝され、飲みに行こうと誘われたが断ってすぐ会場を後にした。
どこで男を選ぼうかと紘鳴は繁華街の夜道で、胸に落ちてきたマフラーをまた肩にかけた。頭の中で行く店の候補を挙げていく。
どうしてあんなふうに、抜群のタイミングで会わなければいけないのだろう。
やめておこうか。でも帰ったってもうどうしようもない。それなりに心づもりをしてショート丈のコートを着てきたことに、なんだか後悔が募った。
結局、両手で数えるくらい行ったことのあるクラブに顔を出すことにした。
地下階段をおりて、混んでいる店内に引き返そうかと思ったが今日会ったことに対する意地でアルコール度数が低いドリンクを注文して暗い壁際で飲んだ。アルコールで身体が熱く、あっちいと深く呼吸した途端、人口密度の高い空気が気持ち悪くなった。帰ろうと決めたらやたら速かった。しかし出口でふらついたところに声をかけられた。
「帰るの?」
低めのトーンの声で、手足のバランスの良い男の全身を観察してから紘鳴はこくんと首を動かした。
「足ふらってしてたけどだいじょうぶ?」
「……だめかも」
「そっか」
紘鳴の腰、コートの裾に男が手を沿わせる。
頭が男の胸にかるくふれて、耳元で囁かれた。
「ネコ?」
「バリネコ」
男の胸にもたれて、腕に指を絡めた。そのとき、閉じた瞼になにかいやなものが映り、目が開いた。「これなんだよ」と尖った声がした。ぐいっと肩をつかまれて、男から引き剥がされた。それから「だれだよこいつ」とコートの胸ぐらをつかまれ、カウンターの端の壁に押しつけられる。紘鳴に体格だけ似た、目鼻立ちが派手な男が「すぐこれかよ! いいかげんにしろよ」と大声で叫んだ。紘鳴を誘ってきた男がなだめる口調で紘鳴のコートから手を離させた。それから口論が始まった。
相手持ちか。汗をかいた肌が冷えていく。いつもならこういうのはすぐ見抜けるはずで、勘が鈍っているなと壁をずれて、よたっと出口に引き返した。
「誘いにのっといて、何も言わないで帰んのかよっ」
その瞬間、顔に冷たい液体が浴びせられ紘鳴は唖然とした。ドリンクをまともにぶっかけられるとは思わなかった。
しかしこれもいつもならうまくよけられただろう。手でおざなりに払って、マフラーがぐっしょり濡れているのに心底面倒くさい目になった。ひと息こらえて
「……相手がいるんだったら、声をかけてくるな」
こめかみに張り付いた髪をかき上げ、吐き捨てた。「泣いてすがって、許してもらえ」
地下階段をガツンガツンと音を立てて上る。
「ねえ、ごめん! ちょっと、頭にきて、よくわかなくなって」
上がり口でドリンクぶっかけてきた男が、紘鳴に呼びかけた。無視して、自分の息の音も耳障りだった。外気にふれ、濡れた皮膚に鳥肌が立った。ドラッグストアのトイレで顔を洗い、タクシーを拾った。車内でべたべたする首と髪をドラッグストアでついでに買ったウエットテッシュで拭う。
密集した路地に入る角で降りて事務所の物件まで足音を響かせて歩いた。
マフラーもコートもクリーニングにさっさと出さないと。怒りが静まると身体じゅうに萎えが広がって、顔の傷跡がぴりぴり痛み、今夜はなんだか事務所まで遠かった。ふんだりけったりというのはこのことだ。
長い帰り路の先、事務所のエントランスの戸から出てきた多田くんに紘鳴は顔つきだけぼんやりとなり、首から背までひとすじに硬直した。
「……いてほしいと思って来ただけです」
と言った後で、黙った。紘鳴の格好に瞳を動かした。
ひどい有り様を眺められ、笑うように唇を細めた。
「待っていたんですか?」
「……どうしたんですか」
街道の車の音が止むのを待って紘鳴は言葉をつむいだ。
「べつに……おとこを漁りに」
言いたくなかった。
苦い言葉だった。
多田くん以外とはしたくなかった。
それでも、言っておかないと限界だった。
しばらくして、スーツの上にコートを羽織った多田くんが正面から紘鳴の左の耳にかかる髪をよけた。
いつものように反応しなかった。どうでもいいことのように払いのけようとせず、目も合わせず、表情も動かなかった。額の髪をかき上げた。
「……べたべたしてるからさわらないほうがいい」
露わになった傷の跡を指が触らぬか触るかくらいに撫ぜた。
多田くんの顔がそこに近づいて、紘鳴はさすがに身を引いた。
「梅酒?」
くんくんと嗅いで多田くんはつぶやく。
「……ああ、たぶん……梅酒サワーか何かだと思うけど」ぶっかけられたのは梅酒の入ったドリンクで、マフラーもコートも梅酒くさい。もろにかかった髪はかなりべたついている。
ショート丈のコートのポケットで端末が鳴り、着信相手はわりと厄介な仕事を頼んでくる知り合いだった。多田くんが至近距離にいても、いないのと同じように紘鳴は端末で通話し始めた。
「明日から二泊三日。行ってくれるか?」
「遠いのか」
「まあまあ。あ、それで連れを一人用意頼む」
「は?」
「この三連休つぶして二泊三日。プラス連れ一人。ひろなり、おまえのとなりに立って不自然じゃないなら男でも女でもいい」
目の前の多田くんを見上げた。
「ちょっと待て」
耳から端末を離す。空は真っ黒に澄んで、街灯の光が淡く滲んでいた。
「多田さん」
明後日はクリスマスイヴだ。
「三連休、予定はありますか」
巻きこんではいけない。巻きこんだら、最後な気がした。そっちにいってはいけない。でも、きっと多田くんは
「特にないです」
「それじゃ多田さんの三連休ください。明日の朝から二泊三日の日程で」
紘鳴は端末に耳を戻した。
「わかった。連れは確保できた。請ける」
「おお、おまえ、出ないときは出ないのに、出ると即答だな」
詳しいことは明日の朝、車に乗せてからと通話が切れた。
端末をコートのポケットにしまった。
冬の空に沈みこむみたいに、息をついた。
ここで、もし梅酒の入ったドリンクをかけられてなかったら、顔も髪もべとべとしてなかったら、自分で一歩踏み出して多田くんの胸にぽすとくっついたかもしれない。
だが、実際に梅酒の入ったドリンクをかけられてなかったら、そのときはそんな真似はしようと発想もしない。絶対にしない。
「明日、二泊三日の用意して、集合は……この、路線で」多田くんの眼鏡に映るくらい、ずいと出した端末に路線図を表示させて、集合時間を決めた。
そのあとは多田くんを夜道に放りだすように帰るよう促した。エントランスの戸を押してなかに入ってすぐ、暗がりで顎をとられた。
わざわざ梅酒の匂いがする唇にキスすることないのに。
べとついてる傷の跡を優しく撫ぜる必要などないのに。
身体を離した多田くんの呼吸が夜気に、ほんのり白く立ち昇った。
0
お気に入りに追加
22
あなたにおすすめの小説

そんなの真実じゃない
イヌノカニ
BL
引きこもって四年、生きていてもしょうがないと感じた主人公は身の周りの整理し始める。自分の部屋に溢れる幼馴染との思い出を見て、どんなパソコンやスマホよりも自分の事を知っているのは幼馴染だと気付く。どうにかして彼から自分に関する記憶を消したいと思った主人公は偶然見た広告の人を意のままに操れるというお香を手に幼馴染に会いに行くが———?
彼は本当に俺の知っている彼なのだろうか。
==============
人の証言と記憶の曖昧さをテーマに書いたので、ハッキリとせずに終わります。

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

ある少年の体調不良について
雨水林檎
BL
皆に好かれるいつもにこやかな少年新島陽(にいじまはる)と幼馴染で親友の薬師寺優巳(やくしじまさみ)。高校に入学してしばらく陽は風邪をひいたことをきっかけにひどく体調を崩して行く……。
BLもしくはブロマンス小説。
体調不良描写があります。
絶対にお嫁さんにするから覚悟してろよ!!!
toki
BL
「ていうかちゃんと寝てなさい」
「すいません……」
ゆるふわ距離感バグ幼馴染の読み切りBLです♪
一応、有馬くんが攻めのつもりで書きましたが、お好きなように解釈していただいて大丈夫です。
作中の表現ではわかりづらいですが、有馬くんはけっこう見目が良いです。でもガチで桜田くんしか眼中にないので自分が目立っている自覚はまったくありません。
もしよろしければ感想などいただけましたら大変励みになります✿
感想(匿名)➡ https://odaibako.net/u/toki_doki_
Twitter➡ https://twitter.com/toki_doki109
素敵な表紙お借りしました!(https://www.pixiv.net/artworks/110931919)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる