今夜は騎士(ナイト)をお持ち帰りです

さの めつた

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第五話 波の果て

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 ヤったはいいが、と言うと聞こえが悪すぎるので言い換えて、ヤってはみたけどさして変わったこともない。
 言い換えてもどうにもならない。
 ホテルの部屋で帰り支度をする多田くんはまるで後悔しているふうではなかった。やっちゃったってかんじでもなかった。平然としていた。冷静で、心ここにあらずなんて様子でも全然なく、もっと反応があるかと思っていた紘鳴はややさびしいような気もした。
 どんな種類でもかまわなかったが期待していたほどリアクションがなかったことに対してさびしいという意味で、多田くんが紘鳴とセックスした後とする前で態度の変化がなかったことに対してではない。
 未確定な関係を好んでも、みずから望みはしない。不定な関係を結びたく結ぶわけではない。自然と陥っているのが好きで、こんないちいち相手の反応を見ていたら、未確定でも不定でもない、ぎこちなく膠着を構築する関係をつくってしまう。
 そういうのはいらない。
 多田くんも、きっと、そんな関係にはなりたくないと思っているんだろうし、と紘鳴はソファに寝転がって考えていた。
 中二階とロフトつきの住居スペースが裏にくっついている事務所のような物件である。日がなまったり過ごしている活動の拠点で、実際の住み処ではない。
 呼び出されてここから出掛けることが多いが、知り合い共にも友人らにもこの場所は教えていない。押しかけられるといやだ。ここでは一人でいたい。だれも入れたくない。
 事務所のフロアに置いてあるソファは寝心地が良い。暇なときはいつでも靴を脱いで、だらしない姿で横たわっている。
 呼びつける奴らは基本的に紘鳴にすぐ連絡がつかなければあきらめる。連絡が来て、応答するかは紘鳴の気分次第で放っておくこともしばしばある。しつこい奴は切り捨ててきた。
 秋が深まって、街路樹の葉がじょじょに枯れた色になっている。多田くんとは九月の終わりにホテルに泊まって、朝に別れたきり会っていない。アポを求めてもこない。暗い顔をしていたが面接試験は終わったのか、まだなのか。
 今日は平日だ。昨日は呼びつけられた現場で、階段を際限なく往復する交換作業を手伝わされた。さすがに身体が痛い。この年だと筋肉痛が襲ってくるのは明日以降か。
 ガラス天板のローテーブルで仕事用の端末のランプが光っている。どうしようかな。腕を持ち上げて端末を引き寄せる気力が湧かない。
 それでも変なことに、閉じた瞼の裏に何か見えて、横たわる体勢を少し変えて紘鳴は端末を取り上げた。
『面接試験が――』
 まもなくの日付っていつだ。
 前回より誘いたい成分多めの多田くんのメッセージを読んだ。
 終わったら会いたい。どこで働くかは書いてなかったが、そこは綺麗なところらしく、いっしょに行きませんかなんて、面接受ける前に、面接終わったらいっしょに行きたいなんて誘ってどうする。表情暗くしてただろ。今そんなに余裕あるのか。
 返事をしなくては。
 そう思っても、断る文面が浮かばなかった。詳しいことを訊く文面も浮かばない。もう不確かな答えをしてはだめだと、多田くん相手のときだけ思う。だから何も考えなくなる。
 信じられないことに、どこか、多田くんがいない世界に行きたいとか思ったりする。
 多田くんの誘いに書かれている「綺麗なところ」はどこにあるのだろう。
 身体を起こした紘鳴はソファの背もたれに腕を垂らし、壁に寄せてあるロッカーの上の掛け時計を見た。
 その日は結局返信しなかった。
 まさか次の日の朝に通話がかかってくるとは思わなかった。
「……あの」
 朝早くすみません、多田ですと名乗った。午前九時前だった。暮らしている部屋のベッドで寝返ったときに筋肉痛で目が覚め、紘鳴はシャワーを浴びようとしていた。
「おはようございます。朝、お早いんですね」
 普段はこんな時刻にかかってきたら無視する。洗面所横の壁によりかかって紘鳴は話した。
「なにかご用ですか」多田くんの声の後ろには生活音も街の喧騒も聞こえなかった。
 どこに彼はいるのだろう。
 瞼をおろした。
「二里さん」
 もう少し長い文章をしゃべってほしい。耳の奥に声が残るように。
「はい」
 と紘鳴は答えた。そして通話は切れてないのに多田くんの声がしなくなった。
「……?」
 これは単に多田くんが黙っているだけか。
「すみません、二里さんの声が聞きたくなって」
 紘鳴は固まった。
「多田さん」
 動揺のない声を出すにかなり無理をした。
「他に用はありません」
「まだ、あいさつくらいしかしてません」
「目的は果たしました」
 通話が切れる、と思った。勝手だ、こっちは、びっくりしすぎて身体のどこにも多田くんの声が残ってない。これじゃ、予感が当たったと脱いだ部屋着を床に投げて端末を取った自分は
「……いつ面接がおわるか知らないがはやく日付をいってくれなきゃ、予定が埋まるぞ」
「じゃあ夜にまた、かけます」
 通話が切れてなかった。どうしてか安堵した響きの声になった多田くんの後ろで、風に葉が揺れる音がかすかに聞こえた。それにつられてくしゃみが出た。
「……風邪ですか?」
 ええ、風ですねと答えるのも
「いえ、今ちょうど……」
 おそろしいことを言いそうになった。多田くんも黙った。
「綺麗なところに、連れて行ってくれるのを楽しみにしています」
 膝を折って、紘鳴はささやいた。おそろしいことをごまかすためのリップサービスだった。多田くんの返事がなくて、耳をすませた。こっちが通話を切るのを待っている、と感じてしまったことに紘鳴はもたれた壁を伝って床に尻をつけた。
「――夜に」
 ひとこと多田くんは言い、紘鳴はそろえた膝に顔をうずめて通話を切った。


 夜更け、紘鳴が寝てしまいそうになるぎりぎりのタイミングだった。夜分にすみません、と多田くんは朝と同じようなことを口にしてから、今月の紘鳴の都合を訊ねた。
「いまのところ、いつでも空いてます」
 と答えた。筋肉痛がさらに襲ってきて、はやく寝たいと思ってすでに布団に入っていた。多田くんの言う日時を記憶した。そして彼はおやすみなさいと早々に通話を切った。端末を手から離した紘鳴は蛍光灯が消えた天井を見上げ、寝返った。筋肉痛にうめいた。
 面接はどうだったか、手ごたえというか感じ取れるいけそうな雰囲気とかあったか、もう問う間もなかった。
『おやすみなさい』
 暗い部屋で、それだけが身体を満たした。耳から奥に広がって長く指しこまれる。紘鳴は遅ればせに呼吸を乱した。
 会いたい、と思わない。むしろ今は、会いたくない。
 シーツに頬をつけ、そばに細い指が落ちている。
 数日後、待ち合わせ時間よりかなり早く来た紘鳴はまた近くのショップに入ってガラス越しに待ち合わせ場所にやってくる多田くんを眺めようか、と思って向きを変えようとして、スーツを着ている男に腕をつかまれた。
 眼鏡にスーツ姿の多田くんだった。
「……お変わりなく」
 と、ぺこと頭をさげた紘鳴はグレーのトレンチコートを前を開けてだらっと着ていた。下はカットソーとくすんだ色のボトムで今日はきっとコートを脱がないと思う。快晴だが風があった。
 連れられ、歩いていくと確かに綺麗な風景が続いて、紅葉が絵になる並木道を通る。見事だなと紘鳴は葉が降ってくるのを見守った。生い繁った葉が風に吹かれると、ざばあと木々全体が鳴った。黄色と朱色が混ざった視界がやわらかくたなびく。降る葉をともなって、強い風に流されるみたいに地面に積もった葉が多く舞い上がって、紘鳴をくるんで、また散らばった。
 多田くんがぼっーとこちらを見ていると気づいた。
 歩道には、木の下には紘鳴しかいなくて、しばらく呆けた顔をしたあと多田くんは珍しく笑った。
 変な、思わずというかんじで泣くような笑いだった。
 ぞわりと足もとがふるえた。
「来てくれてありがとうございます」
「……?」
「いまのを見られただけでじゅうぶんというか」
 何を見たと言うのだろう。紘鳴は、今の笑みを浮かべた多田くんがスーツ姿なのがなんとなく残念だった。
 多田くんのもさっとした質の髪に葉がささりそうだと紘鳴は漂ってくる葉と多田くんの後ろ頭をずっと仰ぎ見て、急に足を止めた身体にどふとぶつかった。
 前方に門が立っている。音が存在しないような、静かな庭園と建物が現れた。
「記念館。資料館」
 石版に並んだ文字を口に出して読んで庭を見渡した。親戚のつてがあった面接先。
「ちょっとここで待っててもらえますか」
 そう言って多田くんは建物の裏に行ってしまい、紘鳴は唐突に建物の玄関ホールのそばに置いてけぼりにされた。自動ドアの手前の立て札に休館日と書いてある。
「ここで?」
 どのくらい待てばいいか言わないのが悪いと紘鳴は手入れされた庭をひとりうろついた。林の中に入って小径を一周した。ところどころにベンチがある。紅葉の吹きすさぶ植物に囲まれ、繁みから枯れて濡れた空気がふくらんだ。葉を踏むと軽く割れる音がした。玄関ホールのそばまで戻って、まだかなと端末を取り出して操作しながら、裏へ回ってみた。建物の通用口のような戸に多田くんがいて、内にいる数人にかしこまって挨拶している。邪魔してはいけないと紘鳴はきびすを返した。
 しばらくして裏から出てきた多田くんがなにやら走ってきていきなりすごい勢いでハグをされた。
「……ッあ」
 綺麗な秋晴れの陽射しが目に入った。頭に眼鏡がちょっと当たった。多田くんは最後の一瞬全身軋むほどに抱きしめ、息を弾ませたまま紘鳴を離した。
「すいません、採用が決まったのが嬉しくて」
 ああ、それで、あんなふうにダッシュしてきてハグを、連れてきた紘鳴に
「もうしないでください」
 こんなふうに感情表現する男だったとは、とこわばった胸から腹に爪を立てて顔をそむけた。とりあえず
「良かったですね。無事決まって」
 今日のところはこれで帰る、と乗った電車でも紘鳴はまだ背が固く、待ち合わせの場所で人通りの多い中、明日知人の代理で遠出なんですと短く告げた。
 よくわからないが、いつになくがっかりされた。祝いにひとりで高い肉でも食べにいったら良いのに。
「……家でひとりで自炊します」
 と多田くんはつぶやいた。
 スーツ姿でスーパーで買い物する多田くんを思い浮かべた。
「おめでとうございます。新しいお勤め先が決まって」
 とあらためて言うと、「あ、はい、ありがとうございます」と我に返ったような、かしこまったかんじで多田くんは礼をした。
「……今日は」
 人波をゆっくりと見やって、ふいに紘鳴はわざとらしい手振りをつけてわかりやすく「採用決まって、おめでとうう」と叫んでスーツの多田くんに抱きついてぎゅーとした。
 周りの通行人の視線を感じ、何人か小さく吹き出したのを聞いた。
 すう、と腕をおろし、ぎり、と下から睨めつけて一歩下がった。硬直している多田くんに顔をすこし傾げて「じゃあ、ばいばい」と手を動かした。事務所の物件へ向かうため、タクシーをひろう。
 どうして腕の長さが違うからか、精一杯腕を回しても、普通のハグになった。多田くんは、背を回った両腕、というか両手が、紘鳴の肩と腕を掴んだのに。
 後部座席の窓に映る目つきがひどくなった。


 あの記念館だか資料館だかで働き出したら、縁も切れるか。最初は新たな環境になれるのが大変だろうし、忙しくもなると思う。
 研修とかあるのかな。
 知り合いの仕事のお供をして、事務所の物件に帰ってくるとさすがに疲れて、ソファにいったん坐ったがすぐごろんと横になった。
 十一月の中旬、冬に近づいて夜は気温がかなり下がってきた。冬用のブランケットを出してくるか、でもどこにしまった、と紘鳴は住居スペースに上がる階段に目をやった。端末のヴァイブレーションが響いた。今日は仕事のお供だったため朝からサイレントモードを解除してある。
「……」
 多田くんの誘いたい成分多めのメッセージを読んでも、頭が働かない。ようする食事の誘いだ。
 そうだな、お祝いをしてやってないなと紘鳴は難しく考えるのをやめ、高い肉、ではなく高い鍋の店でおごってやった。
「二里さんの本業って何なんですか?」
「ナイショです」
 今夜はスーツじゃない。待ち合わせ場所で内心、ほっとした。明後日が出勤初日だという。
「いちおう事務所はあります」
 信じられない。口が滑った。酔っているのか。紘鳴も日頃からあまり酒は飲まない。しかしさっき、店で飲みやすい日本酒を、ほんのちょっと飲んだ。
 多田くんは明後日のことを考えているのか、言葉数が少なかった。お祝いなど余計な世話だったかなと後悔しつつ、店から坂道をくだって、最寄りの地下鉄の駅の階段口で別れようとした。
「あの」
 寒空のした、車の往来のライトが途切れ、引き留めてくる多田くんに、紘鳴はもう用はないのだという笑顔を浮かべてみせた。
「――今夜は、帰らないとだめですか」
 やっぱり酔っているらしく、長い間が空いた。問いの意味をつかめなかった。
「帰らないとだめです」
 と言った。あと、たぶん、帰らないとだめなのは明後日の準備をしなくてはいけない多田くんのほうだ。
 地下鉄の階段に視線を移ろわせても多田くんが階段をおりていこうとしない。
 あれからどれくらい経ったか。
 何度ひとりでしたかなんて数えていない。
「事務所って、どこにあるんですか」
 そこに食いついてくるとは思わなかった。
「……」
 タクシーに乗った紘鳴は黙っていた。となりの多田くんの眼鏡に街に点滅する光が反射する。紘鳴の膝の近くに手を置いた。
「看板もないんですね」
「ええ、あまり目立ちたくなくて」
 安ビルが密集している通りの一角でタクシーを停めた。代金を支払っておりるうち、多少屈辱的な気持ちになって、紘鳴は事務所の物件のエントランスの戸を押した。
 内ドアに複数付けてある鍵を開ける。
 蛍光灯をつけ、室内を見まわす多田くんに「上着を」と声をかけた。そばのコートかけのフックのハンガーを差し出した。今日の多田くんは長袖のTシャツと丈夫そうなチノパンである。
 広いフロアは白い床と白い壁で、曇りガラスの窓がひとつある。全体的に無機質な空間だ。面積の半分以上使ってない。ソファとガラス天板のローテーブル、本棚、腰の高さのロッカー、パーティションで区切った先にキッチンがある。いつも寝転がりくつろいでいるソファに坐らせるのは抵抗があった。立ちつくしたあと「いま、お茶を」と紘鳴は上に羽織っていたものをハンガーにかけた。襟のあるシャツにワンサイズ大きいカーディガンにタイトなボトムを履いている。
「イスの類いはないんですか」
 多田くんはしかつめらしい表情で言った。
「……それじゃ……これにでも坐ってください」
 スタッキングのスツールをフロアの隅から持ってくる。
 コーヒーメーカーでコーヒーをいれるのも面倒で冷蔵庫からペットボトル飲料を取り出した。
「ここは本当に事務所ですか?」
「――ッ」
 パーティションをはさんで多田くんが訊ねてくる。
「譲り受けた物件です」
 スツールから立ち上がった多田くんが本棚を見ている。ガラス天板にウーロン茶を注いだカップを置く。
「え、それはじむ」
「男親から譲り受けた物件です」多田くんの言葉をさえぎって紘鳴は言い、自分用のカップのウーロン茶をひとくち飲み、ガラス天板の端に置いた。
 多田くんがスツールに座ってカップに口をつける。紘鳴はソファの背もたれの後ろに突っ立っていた。壁の掛け時計を見上げ
「……もう遅いので、帰りのタクシー代を」
 渡しますよと続けようとした。
 ソファをはさんで、スツールに坐っていた多田くんがもっさり腕を上げて、紘鳴の手を引いた。
「事務所ではない、というより事務所を持つような職種ではないんじゃ」
 坐る多田くんは紘鳴の腰を抱いた。
「それがどうかしましたか?」
 じゃっかん目線が下になった多田くんを見下ろし、腰を抱く腕を後ろ手で剥がそうとした。
「……はい?」と多田くんは、紘鳴の表情が鬼のように剣呑なものに変わったのに目を瞬いた。ぐいと多田くんの顔を仰向かせ、紘鳴は唇を重ねた。眼鏡があったから、ゆるく動かしてすぐ離したら、身体を腰で抱え上げられた。
 壁に寄せてある腰の高さのロッカーの上には何も載っていなかった。そこに紘鳴はおろされ、ロッカーに腰かけた体勢で背を壁におしつけられる。多田くんは眼鏡を取って紘鳴の膝から離して置き、はね退ける紘鳴の手を握った。
 とぷんと多田くんの舌が音を立てた気がした。舌が絡まるのに眉をひそめたが身体に力が入らなくなっていく。それでも耳に髪をかけられて、紘鳴は多田くんの脇腹をロッカーのふちにかかる膝で器用に横蹴りした。
 握りこまれた手そのままに多田くんの喉仏を狙ったら、太腿にぎゅっとくっつけられた。
 首筋をきつく食んで、太い血管をたどるように舐められた。荒い呼吸が聞こえた。すごく肌を嗅がれている。びくっと身体がふるえた。
 堪え性がないのは自分だ。大きい手に両手をおさえつけられて、開いた唇にまた舌が入ってくる。腰が重くなる。腿の付け根をどろどろとめぐり溜まる感覚に、多田くんの指の間に爪を喰いこませていた力が抜ける。
 紘鳴の手をロッカーの上に広げて置いて、カーディガンの裾から潜りこむ多田くんの手が紘鳴の腋から腹を撫で、唇のなかの舌が抜かれた。
 カーディガンのボタンが全部外されたことに気づいて瞳を見開いた。後ろに深くずれ、シャツのボタンを順に外す多田くんの手の甲に、真上から拳を落とした。
「はずすな」
 力を振り絞って振り上げて的確に多田くんの手の甲の筋をえぐるように指の節が当たる。ようやく多田くんが身体を引いた。痛そうに手を下方向に振っている。
「……だって」まだめげない。
「これは」
 多田くんはたぶん痛みで震えている手を紘鳴の下腹にゆっくり這わせた。紘鳴は動けなくなった。もう壁ぎわまで腰を引いていた。ベルトをしないで腰履きしているボトムの下で硬くなっているそれを多田くんは手のひらで揉むようにした。
「ッや」背筋にずぐんと熱いようなものが走り、紘鳴は身をよじった。目を吊り上げた。
「手をどけろ」
 紘鳴の声のトーンに多田くんが身を引いた。紘鳴は息を吸った。
「ここでするつもりも、今夜おまえとやる気もない」睨みつけると、多田くんはどうしてか呆気に取られた表情になり、紘鳴は背を起こした。
「……あ、えぇっと、はい、わかりました」
 なんだその腑の抜けた答えは。紘鳴は身体を丸め、自分の腕を交差させて腹を抱き締めるような体勢で息をした。咳きこんで膝にかぶさるようにうずくまると冷たいロッカーの上から抱き下ろされた。
「ごめんなさい。すみません」土下座しそうな声で多田くんは繰り返して、大きい手で紘鳴の背をさすった。紘鳴が静かに目を閉じたことに気づいた多田くんはどうしたらいいかわからないみたいな声になった。
 くっついてわかったけど、多田くんだってさわったら熱そうな、柔くはない下半身だった。


 いいかげん離せと紘鳴が言うまで多田くんは悲愴な空気で紘鳴を抱き締めていた。
 コートかけのハンガーにかけておいた上着に袖を通した多田くんの表情はとても情けなかった。紘鳴が「新しい仕事、最初は大変だと思うけど、無理せず、気楽に」と励ましたら、ますます情けなく目を伏せた。タクシー代にも首を横に振った。
「……」
 夜気を吸うと喉がひんやりした。エントランスの戸を出て、どこをどう帰るのか、きっとタクシーをひろう多田くんを見送った。
「――二里さんに会いたくて、会ったらしたくなって」
 多田くんは地面から目を上げないで、紘鳴は多田くんのむこうの夜空を見ていた。
「会ってないあいだも、ずっとしたくて。次、また会ってくれるのなら」
 星のない空だ。でも雲が動いているのがわかるなと雲の千切れた端を追った。
「そのときは、したいです」
「会う約束はできない」
 紘鳴は答えた。
 多田くんは顔を上げた。
 紘鳴は見つめ返して頬笑んだ。
「ありがとうございました」
 多田くんは最後に礼を言った。
「礼を口にされるようなことをした覚えはありません」
「あの採用結果を聞きに行った日、二里さんに抱きついたのは嬉しかったのと理由がもうひとつ」
 身体が軋んだ瞬間に
「連れて行く途中、忘れられないものを見て、興奮してしまって」
 優しい顔になった。
 いま笑ってほしい。
 こんな気持ちが発生しない関係になりたかった。
 どうしてなれなかったのか紘鳴にはわからなかった。

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