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第四話 棺の男

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 シャツの小さいボタンを外しているうちに、多田くんがのろくさく黒いTシャツを脱いだ。眼鏡はそこらに置いてある。裸眼の視線をどこへやっているか、紘鳴は視線を追ってみた。
 洗面の鏡にはまだ微妙な距離の二人が映っている。
 痕をつけても、キスもなく、こっちの服を脱がしてもこなかった。せっかく、ずれて脱がしやすくしてやったこっちがばかみたいだ。
 でも持ち上げられたシャツの裾は引っ張り出されて、あきらめたみたいに多田くんは腰にやった手で紘鳴を抱えて脱衣スペースのなかに一歩二歩さがっていった。そのあいだ、紘鳴は多田くんの胸に額をぐりぐり押し当てて、くっついていた。
 密着して、自分の身体の反応に紘鳴は一瞬目つきを暗くした。ちょっとかたくなっている。多田くんにもばれているだろう。
 シャツのボタンを全部外し、正面からしだれかかった。
「脱がせる? …………やっぱりいい」
 言ってみたら、視力の関係でか目を細められた。だから、甘えたな振りもやめた。口でしてやるとか言う気も萎えた。
 ぱたぱたと脱いで、多田くんにさほど注視せず、浴室の戸を開ける。
 バスタブから立ち昇る湯気に肩の力が抜け、裸足で鏡をのぞいた。
 自分の身体に、どうしてもう右首筋に鬱血痕がしっかりあるのか。ついさっきつけられた、あらかじめつけられたそれに紘鳴はなんとなく首をかしげ、ほんのすこしぞっとした。
 男二人余裕で坐れるバスタブにくらべ、白と水色の壁の洗い場は狭かった。シャワーをざーざー流して浴びていると盛大に水しぶきが跳ね、湯の出が良いなあと思った紘鳴は片足でバスチェアをおしやった。そうしてようやっと、迷っていたのか遠慮していたのかしらないが、多田くんが坐った。背を丸めて、カランに顔を近づけている。どうやら本当に眼鏡がないと見えないらしい。蛇口のほうの温度のメモリをひねっている。でかい図体の裸の背筋を眺めた。もさっとした髪にさわりたくなる。笑った息がもれてもシャワーの音にかき消える。
 曇り止めしてある鏡に湯がばしゃばしゃかかる。視界にあるのは多田くんの後ろ頭と背だけで、紘鳴は多田くんが男の下半身を見て萎えるかどうか、判断がつかなかった。鏡に映っている紘鳴の身体も眼鏡がなくて見えてないのだろう。こっちは、と紘鳴は目を瞑った。多田くんと交代で手を伸ばしてハンドルを調節し、熱い湯がどんどん胸から下腹に流れ落ちていく。
「シャワー、はいどうぞ」
 使い終わった紘鳴はシャワーを差し出した。洗面器が小さい。多田くんの濡れた手のひらと指がシャワーの持ち手をつかむ。
 湯を張ったバスタブに浸かり、身体を底からゆるめるように息を吐いた。湯の温度は高めで、紘鳴は多田くんに背を向けた状態で足を伸ばした。歩き回って足が疲れている、とつま先を曲げて動かす。
 水音が止んで、紘鳴は眠たくなった瞼を開けた。ふちにかかった手を見ていた。
 紘鳴は大きい手が好きだった。だから、手を意識することがあったりすると、すぐ
「……」
 くやしいな、と舌打ちしたくなった。
「……あの、はい?」多田くんが湯船に透明な湯に浸かり、紘鳴の剣呑な表情を感じ取ったのか、目つきを細くして怪訝な声を発した。
 多田くんの全身が浸かり、バスタブも手狭になる。
 すぐ横に裸がある。まじまじと眺めた。
 こいつを相手する処女は大変だろうな、と紘鳴は唇を曲げる。口もとの表情をごまかすために顔下半分に温まった手を這わせた。足の指を反らせる。
 もう限界だ。隠してもいられない。
「風呂でヤると酸欠になってぶっ倒れるから」
「倒れるから」
 おうむ返しに言われ、紘鳴は顎を引いた。
 腰骨が触れ合うようにして身体の向きを変えた。
「風呂ではヤらないということです。キスでも、わりと酸欠になる、から」
 膝で多田くんの腿をまたいだ。
「いつも、そうそうに湯から上がるわけ」
 坐りこむと多田くんの腿と脇腹に紘鳴の性器がつき、ゆっくり退がって膝立ちで見下ろした。多田くんによく見えるよう、両腕も脇に垂らした。ほんのわずか躊躇したのはうっすら残る古傷が目につくかもしれないということだった。まばたいた多田くんの両目に紘鳴は気をとられ、ぎりぎり湯に浸かっていたあばら骨の下周りをいきなりつかまれて、おもわず前にのめった。多田くんに上体をもたれて、また胸まで湯船に入る。
 おもいっきり背と腰に腕が巻きつき、肩口に頭がきてきつく確かめるように抱き締められた。
「……あったまってるか」ひとり言のようにぼそっとつぶやいた。
 紘鳴は目を見開いた。声が耳に残る。
 何を、言っているんだ。
 まさか、すぐ湯から上がるって言ったからか。身体の温まり具合を、計ったのか。
 下腹が擦れたとき、多田くんがかたちもかえるくらい硬くしているのに気づいて紘鳴は肩をつかみ、上半身だけ引き剥がした。
「上がりますか」
 静かに多田くんは言った。口調はゆったり身体を離す感じなのに、抱き締める両腕は紘鳴の腰を逃がしてくれる気配が全然ない。お互い擦れるから一度離れたかった。もがく肩胛骨を多田くんの指がなだめるようにさわって、下から背中にぐっと手のひらが当てられる。
「……あがる」
 紘鳴はそれだけ言うのが精一杯だった。


 バスタオルで身体をおざなりに拭いて紘鳴は肩にかけた。多田くんはまず洗面所に置いていた眼鏡を手に取って、視界が戻るとなんだか小首をかしげる寸前みたいな難しい顔をした。それから腰の高い位置にタオルを巻いた。紘鳴はまっすぐにらんだ。多田くんは目をそらし、動きづらそうに戸を出ていき、「転ぶぞ」と紘鳴は言った。水分が摂りたい。とことこ歩く火照った頬が鏡に映った。
 無料サービスの二人分、つまり二本のミネラルウォーターのペットボトルを取り出した。多田くんに一本は渡してやり、もう一本に口をつけ、ベッドに乗り上げてはふ、と紘鳴は落ち着いた。巻いていると窮屈みたいで、タオルを腹から腿にかけるだけになった多田くんはベッドの端に腰をおろしてやるせなそうに飲んでいる。
 いまあの喉仏にさわったらむせるだろうか、と紘鳴はペットボトルをベッドサイドに置き、備え付けのグッズとローションの類いを漁った。個包装をいくつか見る紘鳴に、振り向いた多田くんは口を薄く開いたものの、言葉を発しなかった。
 ローションのパッケージを検分するように顔の上にかかげて、多田くんに視線を移す。
 にじり寄って、後ろから抱きついた。湿った素肌が互いにひたりと吸いつく。多田くんの手もとにあったパネルで照明の加減を変えた。
 腕を多田くんの首にまわしてベッドのまんなかに引っ張っていこうとした。自分でも無茶だと分かっていた。そして多田くんの体重を引きずれるはずもなく、肘の内側で多田くんの首を絞めるみたいなことになって、苦しそうに腕を捕まれた。
「横になるんだよ」と紘鳴はベッドの真ん中をぺしぺし叩いた。
 何か言いたげな多田くんはおとなしく端からのそっと腰を上げる。
「バリネコって」
 顔を伏せた多田くんが紘鳴の肩のふちで言った。
 そうか、あのテラスで多田くんは全部聞いていたのか。
 無遠慮に下半身にまたがった体勢から四つん這いになる。
「――いれてくれってこと」
 キスしようとすると、眼鏡がある。紘鳴が多田くんの顔から取ろうとつまんだら、多田くんはちょっと手を上げて自分で外した。が、いったんかけ直して、身体を完全に起こし、下腹部にまたがっている紘鳴をじろじろ見た。
「なんで……眼鏡外せ馬鹿」
 内腿が多田くんの肌にふれる。多田くんはいくぶんか気が静まったようだが、こっちはもう、と紘鳴はどくどく背から足に血が巡っている。手順も説明してないのに、こんなのは焦らされているともいえない。紘鳴はもっと胸がつくくらいすり寄った。
「えぇっと……」
 腹筋を指でなぞり始めた紘鳴に多田くんはやや身を引いた。これで、あのやっぱり、そうじゃないんですとか言い出したらはっ倒すと紘鳴は顔を上げた。
「きれいだなと」
 言葉を失ったが、失っている場合ではない。
「……こういうのを使って、指をなかに押しこんでやわらかくして、いれられるようにするのはわかるだろ」
 紘鳴はシーツに放ったローションのパッケージをまたがった爪先でつついた。
「やわらかくなるんですか」
「……なる」
 間抜けな会話を。しかし、紘鳴は普段ならここまで積極的にヤろうとはしなかった。どちらかといえば、誘った相手の好みに合わせるほうだった。なぜ今日はこれほど、気乗りしない男をホテルに連れこんで、しがみついてぎゃーぎゃー騒いでまで、ヤろうとしているのだろう。
 多田くんは手を伸ばして、パッケージの表裏を返して見た。
「それはこっちでするから、ゴム、避妊具はサイズ合うの自分でつけて……生でやって怖いのは」言葉を切って、紘鳴はツンと横を向いた。何個か出しのが、枕元に散らばっている。
「つけないならいれさせない」
「……わかりました」
「はい」
 良い返事。黒目をぎろっと下瞼に動かし、全身でのしかかって多田くんを再度押し倒した。
 丁寧にフレームの両端をつまんで眼鏡を取って、紘鳴は伸び上がってよいしょっとベッドサイドの平らな広い部分に眼鏡を滑らせ、四つん這いを沈ませて多田くんの唇を舐めた。
 紘鳴にとっては、もうずっと欲しがっていたもので、触れあわせゆるやかに吸い、舌で感触を味わう。自分の性器が脈打って、足の力が抜けていく。
 またがった紘鳴の性器が、イチモツっていうのがしっくりくる、硬くてかたちがはりつめている多田くんのそれとぬるっと絡む。
 多田くんの手が紘鳴の髪を耳によけた。
「ッ、く、ふ」
 耳の窪みをさわる指にあやうく多田くんの舌を噛みそうになる。口内を舌先で揉むようにたどってから、四つん這いの体勢の股を広げて腰をがんばっておろし、多田くんの筋の浮いたのに自分のを擦りつけた。
 脇腹をくすぐったく撫ぜた大きな手が紘鳴の背骨の脊髄ひとつひとつをたどり、くっつけた唇がふるえてキスしていられなくなった。
 シーツについていた手を、迷ったが多田くんの腹筋においた。
「うごいたら、ずり、おちるから、こしささえて」
 頼むと、黙って腰骨のあたりを大きい手でしっかりおさえてくれる。
 多田くんのぐろいものと紘鳴の性器が粘液にたっぷりまみれ、両手でひとまとまりにぐちゅりと掴む。腰骨の内に潜る指にも感じて、性器の先端からとろとろあふれてくる。
「っあ、ん、ひゃっ」
 仔犬みたいな声が出てしまった。
 多田くんがいきなり上体を起こしたせいだ。
 胸の距離が一気に近くなり、腋をすぼめた紘鳴の薄い胸の皮膚に多田くんは指の腹を沿わせた。くねった腰が浮いて、紘鳴は唇が閉じられなくて、腹に唾液の糸が引く。
 またがっている姿をじぃと見られているのがわかって、先端がぱくと開いた。
 手をとめられなくて紘鳴は根元からつかね、指を巻きつけて扱く。
 こんなに夢中になってしてると多田くんに誤解される。すごく熱心に、腰を使って擦り合わせて陰嚢まで揉みしだいている。下生えもべとべと濡れそぼって、指でのける。
 多田くんがねっとり喉仏を舐ってくる。
 優しい舐り方だった。
「こ、れでいくとかじゃ、なくて、いれて、もらわないと」
 紘鳴は指を止めて言った。
 だらだらと洩れ流れた体液であわいも濡れているが、ローションを使って相当広げないと多田くんのは受け入れられない。
 ぱた、と自分の頭がシーツに当たったと気づくまで時間がかかった。
 この段階でシーツに転がされるとは予想していなかった。
 体液で汚れた両手は、手首を顔の横のシーツに押しつけられたが、すっと大きな手が離れる。
 紘鳴は目を見開いた。
 ここでまた眼鏡をかけた多田くんがローションを手にし、ぱちと開けた。
 どこにも表情が感じられない、妙に怖い顔をしていた。
「やわらか……く」と誰に向かって言っているのかわからない声でつぶやいた。
 ローションを、手のひらにあけると粘着質のなじませる音を立てて、やんわり濡れた穴のふちをついとなぞると、多田くんは黙ってひとさし指を第一関節まで押しこんだ。
 多田くんの指だと思うとぞわっと鳥肌が立った。短く指を探り動かしては、抜いて粘液を足して、指が押しこまれる。だんだん、なかの肉を試すように指の関節が折れるのがわかる。
 さっきまで扱いていた性器が揺れて、指がすぐに増やされないのが焦らされていると身悶えるくらいに、頭のなかがばらばらになる。
 人差し指が埋まって、抜かれて、違う指が押し広げる。閉じていきそうな膝を割り開かれて、足首を持ち上げる。
 指を数本含まされ、どこに何があるのかわかった声が「……あ? ああ」とかすれて、執拗になぞられる。最後はふちをいっぱいに広げるように抜かれた。


 さて、みたいな目つきをした多田くんに息をのんだ。シーツに指をなすりつけ「つけないならいれさせない」と多田くんは紘鳴の言ったことを復唱して、個包装を指で引き寄せた。身体を離され、意味なく顔をそむけて紘鳴は膝をぎゅうと曲げて、呼吸をゆっくり整える。
「……つけました」
「ッ……めがね蹴り飛ばしそうだから外せ」
 ここにきて眼鏡をかけたままの多田くんに足を振った。
 膝裏をつかんだ多田くんは紘鳴の腰をおさえこんだ。
 あっさりとあてがわれて、混乱した。浅く入りこんでくる。ぴく、と足の指が揺れた。
 初めてでもない紘鳴でも多田くんのは受け入れるのが時間をかかる。ずず、と埋めてくる。
 けど半分も入ったら、これだとゆっくりすぎる。大きいからと気遣っているつもりなら、もうはやく全部入れてほしい。
 でもほんとに、入れるんだなと紘鳴はぼんやり頭の隅で思う。
「もう、勢い、つけて入れろ」
「……それは、大丈夫なんですか」
 多田くんも呼吸が苦しそうだ。
「わざとじゃないんだったら、はやく」
「そう、言いながらじわじわしめられて、も」
「腰つかんで、ちょっと揺すって、ぐいって抱えたらいっきにはいる」
「あの……そんなの、痛いでしょう」
 言ってわからないのか。紘鳴は入ってくるものを意識させられすぎて、どろどろに濡れた性器に指でつつむ。
「いうとおりにしてくれたら」
 目を合わせた。めがねしてるからよく見えるだろう。首を斜めにねじって言う。
「はいったしゅんかん、いくとおもう」
 多田くんの息がとまった。紘鳴はにんまり笑った。
 無言になったあと、多田くんは小さく何か言った。腰を手の痕がつくと思うくらいつかむと、揺すって、たぶんじゅうぶんなじんだと感じたのだ、強引に突っこまれた。でも一気ではなかった。
 紘鳴はなぜかさっきついばんでいた唇の感触を思い出した。
 喉の内で変な音がした。笑い声に聞こえた。
 弛緩して視界に多田くんの顔が戻ってきた。精液が顎や頬に飛び散っている。
「……ん……?」
 射精した紘鳴のなかはかなり絞め上げたはずだが多田くんは保ち堪えたようだ。
 見ると、紘鳴の肩のそばに手をついてきつそうだった。めがねしてる目をみはって口をゆがめている。それからぷるぷる震えていた腕をシーツから離し、つながった紘鳴の下肢を自分に引きつけた。
「――っや、ん、まだっ」
 敏感に収縮している内壁を抉られて、片足が跳ね上がった。
 あ、眼鏡外した。ということは、と紘鳴はほんのちょっと身構える。
 くぷくぷと舌を呑みこませるみたいにキスされて、ふっつりと、じつのところ今の今まで緊張でこわばっていた胸うちが解けてしまった。
 困る、偶然今夜の相手が多田くんだっただけで、気乗りしない相手とセックスして、その相手がどうしてか多田くんで、気乗りしない多田くんを誘ったのはそこに多田くん以外いなかっただけで
「ほんとに――」
「ほんとに?」
 キスの合間に口から出てしまったことをふっと訊き返されても、自分の中でしか答えられない。
 ほんとに多田くんはこの身体でいくのかな。
 そして、つかのま休ませてくれたと気づいた。
 体液まみれの指の股を舐められ、口を大きく開けた多田くんの舌が見えた。指をしゃぶって、容赦なくなった手が性器を何の加減もなくいじる。小さい乳首をこねられ、奥からぐぶっと引き抜かれて紘鳴は悲鳴に似た声を上げた。あとすこしで抜け落ちそうになる、閉じていく内壁をまた押しひらかれ、粘膜に空気が混ざる音がする。
 多田くんは紘鳴がびくびくのたうつのをおさえつけ、じりじり抜いて奥に突き入れる。どんどん膨れ、硬くなる。紘鳴は二回目の射精で絞め上げるというより絞り取るかんじで多田くんのそれを奥に引きずりこんだ。弾けたように重みがゴムの内に流れ出たのを感じた。精液を出す震えにじっとしないで、腰をつかんだ手が紘鳴をこきざみに揺さぶってくる。
 がっくり疲れ果てたように多田くんが紘鳴にかぶさって、肘をついた。顔のすぐそばで荒い呼吸で目を伏せている姿が今日いちばん間近で男臭くて、紘鳴はふふと笑ってしまった。多田くんがこちらを見た。
 紘鳴が「……なんですか」と訊いても、顔をシーツにぼすと伏せてしまった。


 睡気が急に襲ってきた。なかから脱け出す多田くんがこそばゆくて、紘鳴は幼い子どもみたいな声を洩らした。
 そのあと、少し休んだ多田くんは振り返り、紘鳴が寝落ちしかけていると見て取り、ぐったりした格好でベッドを出て、紘鳴の身体をタオルで拭った。それすら紘鳴にはおぼろげだった。久々の行為で虚脱がひどいだけだと思うが、これまでこんなに睡くなることはなかったと怪訝に思う頭をぐらぐらさせ、多田くんが肩にかけてくれる室内着に腕を通そうとして、意識を失った。時間延長しておいてくれ、先に帰っていいと言うこともできずに。
 次に目を開けるとシーツに寝ていた。室内着をきっちり着た状態で枕に頭をのせて上掛けにくるまれていた。起き上がって部屋を見渡すと多田くんが身支度を済ませ、ソファに坐っていた。端末をいじっている。
「延長しておきました。時間」多田くんは紘鳴に目を上げた。眼鏡は洗ったようである。
 ベッドの端から足をおろし、よたっと歩き出した。
 全体的にさっぱりして服を着たとき、ジャケットとシャツでは右首筋の鬱血痕がどうやっても隠れなかった。
「……」
 苦い顔でアメニティグッズのカゴに四角い絆創膏を見つけ、ぺたりと貼り付けた。
 紘鳴はホテルの代金をおごる気で、多田くんは割り勘でと言う。絶対にゆずらないとごねて紘鳴は自動精算機でクレジットカード払いを勝手に選んだ。割り勘の額の現金も受け取らない紘鳴に多田くんは怒った声で「あの、……だって」と言い、肩を落とした。
 帰り道、朝焼けを眺めて眩しそうな紘鳴の怠い足取りを多田くんは気にした。駅へ行くというので道端で別れた。駅方面に行かないで紘鳴は帰る。
 多田くんは歩きながら横目で紘鳴を見て話した。
「眠りは、深いほうなんですか」
「……?」
「よく眠って、いたので」
 変に言葉を区切って言った。
「――死んだみたいに」
 低い声だった。
 紘鳴はどう答えていいかわからず、別れ際に多田くんの顔をちゃんと見なかった。「面接試験がんばってください」と小声で言った。
 首回りに日が射し、紘鳴はまだひんやりとしている洗い髪を手櫛で梳いた。
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