今夜は騎士(ナイト)をお持ち帰りです

さの めつた

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第三話 遠くに行ったら

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 こちらの連絡先を教えた。でも、教えてくれと言っただけだと思った。どこか、可能性があるなんて微塵も考えてなかった。
 教えたことも忘れかけていた九月はじめ、多田くんから予定の空きを知りたいと連絡が来た。
「……アポをとるのか」
 イヴに差し入れを雪の降るなか、駐車場まで持ってきた男は、あらかじめ相手の都合を訊ねて約束を取り付けるのだ。前日、当日に呼びつけられるばかりの紘鳴には新鮮に感じられた。
 誘いたい成分が少ない事務的なメッセージを紘鳴は何度も読んだ。どういう文面を送るか考える多田くんを想像した。
 会うか、返事をした。簡単な、愛想のない返事。こんな文章が口から出たらどんな響きになるだろう。
 身体の手入れをしなければ、と紘鳴は顎先をさわった。
 それなりの、準備とボタンの小さいシャツ、脱ぎやすい薄手のジャケット、肌ざわりと違うざらざらした生地の足首がのぞく丈のボトムを選ぶ。
 待ち合わせると時間より十分前に多田くんは到着していた。
 紘鳴は近くのショップのガラス越しに、難しい立ち姿でもない多田くんが端末をポケットから出すのを見て、どう近づいて声をかけようかとサイレントモードにしている端末をさわった。
 だめだな、と幾通りもシミュレーションしてこちらから声をかけるのをあきらめた。わかりやすく日向に立つと、すぐ多田くんは静止の姿勢を解いて端末をしまい、急ぎ足でほとんど駆け寄ってきた。紘鳴はちょっと驚いた。
「良い天気になって良かったですね」
 多田くんと視線を合わせた紘鳴はまぶしくて目を閉じるとまぶたが焼けそうだと額に手をかざした。
「――今日は」
 申し訳なさそうに口を開いた多田くんをさえぎって紘鳴はかるく頭をさげた。
「誘ってくださってありがとうございます」
「いやこ、ちらこそ、来てもらって……嬉しいです」
 あわててぎこちない調子で多田くんはなだめるみたいに腕を振った。それから人ごみにそろって顔をやって、多田くんの横に立った。
 目を上げ、横顔というか斜め下からのアングルで、じっと眺めた。多田くんはチノパンで、黒いTシャツに長袖シャツを羽織っている。
「なんでしょうか?」
 気づかれても見つめ続けた。
「……いえ」
 雑踏に目を戻した。
「唇が……むうとしてる」あっさり多田くんが言った。
 紘鳴は自分が子どもみたいに唇を曲げて突き出しているのに気づいた。
「すみません」
 謝ると、多田くんはなぜか大きな手でその顔の下半分を覆ってしまった。
 どこへ行くか、あらかじめ決めなかった。
「多田さん」
 胸のうちでは多田くんだが、実際は多田さんである。どこでも好きなところに行けばいいと暗に言うとさっさと蒸し暑い空気が電車の音と共に動く駅構内を多田くんは紘鳴を連れて歩き、最初から計画を立てていたみたいに路線もホームも迷わなかった。紘鳴の分の切符を買う多田くん自身はICカードで改札を通った。目的のホームに行く上りのエスカレーターに乗るあいだ、紘鳴は切符に書かれた文字を読み、駅の電光表示にどこへ行くか見当をつけた。下りのエスカレーターの乗客とすれ違うあいだ、紘鳴も下りのエスカレーターが着く地上に往きかう人を見下ろした。
「切符のお金を」
 数段先で多田くんは振り返った。
「ぼくが勝手に行き先を決めたので払います」
「そういうわけには」
 電車がちょうどよくホームに進入してくるのと同じタイミングのホームのアナウンスが流れた。自動的に運ばれるのを待たずに段をのぼり、多田くんは紘鳴の言葉が聞こえなかったみたいな素振りで、エスカレーターをおりた口でホームを見まわす紘鳴のジャケットの袖をはっきりとちょっとだけ引いた。紘鳴の手に指がかかった。多田くんはホームの端をいくらか進んだあと立ち止まり、眼鏡をさわりながら腕組みをした。そして、どの車輌にするかを紘鳴に訊ねた。
 これはかなり長距離快速列車ではないか。ふいに認識した。乗った電車のアナウンスと扉の上の停車駅を数える。
 先頭の車輌に客は少なかった。二人掛けの座席に二人並んで進行方向にむかって坐った。紘鳴がすぐとなりで身体のふちが触れているせいもあるだろうが、足が長い多田くんは窮屈そうにしている。のそっと背を丸めて紘鳴の顔が傍にあるのに背を伸ばした。静かな車内に、窓からふわふわと広がる光が差した。電車の振動に睡くなる。瞑りかける目に入る膝小僧がこのままよりかかると多田くんの足に当たる、と膝の傾け具合を変えたいのにすでに多田くんの肩に頭が落ちそうだった。かたくなに両手だけは多田くんにふれないように重ねてジャケットの前合わせをつかむようにしていた。
 意識なく体温と身体の重みを垂れ流してはいけないと思うのに、多田くんは起こす言葉を口にしてくれない。
 席は空いているのだから向かい合わせに坐ればよかった。


 ずいぶんな時間が経ったかもしれない、と目がぱっと覚めた。頭がぐらぐらするのを多田くんの指が無造作に支えた。それを両手でよける紘鳴に指をひっこめた多田くんが「あとすこしで着きます」と言う。
 遠い、そこそこ知名度のある地名の駅に着いた。ときどき雑誌にミニ特集が載っていたりする土地だ。
 アーケード街の人の流れと看板に目を奪われた。午後の陽射しは弱くなって、しっとりした空気で過ごしやすい。花屋から草花の青臭さが漂ってきた。
「ここを……歩いてまわりますか?」
 紘鳴は訊いた。
「……歩きまわるのは、そう、なります。……空腹とかだったら先に飯を」
 紘鳴は腹に手を当ててみた。寝起きでどうも食欲は湧かない。「食事は後で」コンクリの地面を靴の裏で擦った。
「多田さんは先に食事のほうがよいですか」
「そんなでもないので、後でよいです」
 どれくらい歩いて、どこを目指すのだろう。
 人通りが多いアーケード街とは反対方向の河に橋が渡っている。鳥が数羽、川面にぷわと浮いていたのが水流に乗って橋の影に消えていった。
 ならんで歩くと、またおかしいことになりそうだった。多田くんの歩調に気持ちを集中しないように歩いていく。長い橋の欄干に切り取られた景色を眺めて、紘鳴は橋を車の走る音にぴしぴし割れるような音を耳にした。
「風情がありますね」
 多田くんに連れられて歩くうち、この道は、たしかいつか読んだ観光ガイドに載っていたんじゃないかと紘鳴は思い出し、深い色合いの格子戸の前を通り過ぎた。
「公園なのに誰もいませんね」
 初夏に会ったときは訊ねてもいないのに多田くんはなんとなく事情を話していた。今日はなんとなく黙りこんでいるとまでは言わないが口数少ない。紘鳴が道すがら見えたものの感想を言っても歩みを遅くするだけだ。
 もともと口数の少ないタイプの男なのかもしれない。べらべらとしゃべられるよりも無口なほうがいいなと紘鳴は唇がなぜかにっこり笑うのを自覚した。
「歩くのは平気ですが、食事したいです」
 ふっと後ろにさがるように立ち止まった。多田くんがつんのめり気味に止まり、必死そうに何歩か戻ってきた。
「あ、はいそうですね」
 遅い昼食はテーブル席で向かい合わせに坐り、多田くんが物を食べるところをはじめてじっくり見た。
 全然おしゃれでもない丼物を勢いもなく普通にもぐもぐと食している。紘鳴も普通にひと口もしゃと咀嚼した。
 ぼんやりと行儀悪くいちどに唇におさめると多田くんにじろじろ見られている。
「……」
 目線を皿に移動させる前に紘鳴は上瞼だけ動かして、睨み返した。
 多田くんが食べおえて、お茶を飲んでいる。紘鳴が注文したメニューは味付けがじゃっかん濃く、食べきれそうもなくて、箸を置いた。
 割り勘で紘鳴が先に店を出ると厚い雲が多い空模様で淡いまぶしさが遠くに柱のように地上に伸びている。
「そういえば、新しいお勤め先はもう決まった」
「近く、面接試験なんです」
 多田くんの声は暗かった。
「そうなんですか」
 こんなときなんと言えば、と紘鳴は言葉を探してしまった。いちばん無難に「うまくいくといいですね」と励ました。
 おもいがけず優しい声だった。自分のこういった声音は聞き慣れなくて、紘鳴は気持ちが悪いなと思った。
 手ざわりのくっきりと感じられるような光がにじんで、景色は透明な液体に鮮やかにでこぼこに浮かび上がっている。多田くんは店を出て暑いと脱いだ長袖シャツを細く持って歩いていた。端が地面につきそうだ。
 紘鳴がそれを指摘すると多田くんは無言で持ち上げてぐしゃと丸めた。
 帰りの駅で、すみません着信がとひとこと紘鳴にことわり、多田くんは端末を耳にあて背を向けた。黒いTシャツ姿で長袖シャツを肘と腹にはさんでだれかと通話をしている。
 ここで別れてしまってもいいなと背中に顎を上げて、駅前を見渡した。口の動きで別れを告げて、すいと通行人のなかにまぎれて消えてしまうのもありだろうと多田くんの通話内容を聞かないように頭を揺らして考えていた。
 そうしたら手をつかまれた。だれかと通話している多田くんの手が紘鳴の手を握った。強い力で、しっかりとそばに引き寄せた。通話をやめずに目も紘鳴に向けない。なのに、大きい手は紘鳴を離さない。
「……?」
 握られるままになって、感触を身体の内に留めるように眺めた。
 通話を終えた多田くんは何事もなかったみたいに紘鳴を解放した途端に、こらえきれなくなったみたいに喉に詰めた息を苦しそうに吐いた。多田くんの腕に血管の筋が盛り上がっている。流れるどろどろの血を想って、頬が笑った紘鳴は顔を伏せて笑いをひっこめた。
 車輌は行きよりも混んでいたが坐れないほどではなかった。窓ぎわに坐った多田くんが日の暮れる色に染まる街なみを見やっていた。また睡くなって紘鳴は訝しんだ。全身をこわばらせても瞼が重くなる。快速電車に乗ったってこんなふうに睡くなることはない。目を閉じても意識を失うことなく次の瞬間に開ける。
 切符で指の腹をえぐるも、どうしても多田くんに身体半分よりかかる。たまたまとなりに多田くんが坐っているからそれでよりかかるのだ。それだけの話だ。電車の振動が多田くんの身体から紘鳴の体内に伝わる。だからもっと睡くなる。
 頭を振って、ぶざまに焦って目を開いたら、多田くんは窓の縁に肘をついていた目を閉じていた。寝てるのかと紘鳴は安心した。車内アナウンスに多田くんがぼやっと起きて頬杖を外した。停車した電車の扉がぷしゅうと音を立てる。ホームの自販機で紘鳴はペットボトル飲料を買うと、ごくごく飲んだ。節々が固まっているし、手足の感覚が鈍い。
 大勢が忙しく通っていく改札と蛍光灯の白い光があふれる駅構内を抜け、昼間待ち合わせた場所に帰ってきた。宵の口をとうに過ぎて、人が賑わう駅はまわりがうるさかった。これで、今日は帰る、と紘鳴は曇った夜空と多田くんを見上げた。眼鏡をさわって多田くんは黙っている。
「多田さん」
 混みあう広場に突っ立った多田くんに呼びかけると
「……どうして」
「はい?」
「どうして敬語なんですか」
「は?」
「ぼくのほうが年下でしょう。二里さんは……えっと」
「いま三十で、今年で三十一になります」
 と答えたら、多田くんが気まずげに唾液を呑みこんだような口の動きとともに微妙に頭をかしげた。
「それだったら」
「それだったらってなんですか」
 紘鳴がまぜかえすように言っても多田くんはとりあわず「敬語でなくてかまいませんが」とうながした。
「それなりに親しくないと、普通は敬語をくずさないと思いますが」戸惑いも苛立ちもない声で答えた紘鳴はすこしおいて小さく息をついた。多田くんは黙って、うなだれる体勢で静止した。
 青信号に変わって信号待ちの人々が向こう岸で一斉に足を踏み出して、広場に押し寄せるように歩いてくる。
 紘鳴は早足で人波をさけて、いちおう声をかけた多田くんと交叉点を渡った。街路樹でせまくなった歩道で、面接がんばってくださいと言おうとしたけど
「……」
 たぶん、と胸のうちでつぶやいた。たぶん、童貞ではないだろう。ざらざらした生地の上から太腿をさわったあと、三本の指で多田くんの手をつまんだ。
「だったら」
 多田くんが街灯の光を浴びている。
「――ホテルにいかないか」紘鳴は微笑んだ。


 浴室が広い部屋に決めて、徒いて入ってきた多田くんがドアを閉めた。暗がりで端末をいじっている。
「一緒にお風呂は?」
 部屋の設備をひと通り確かめてから、まず浴槽に湯をはることにした。振り返った紘鳴に訊かれて多田くんの視線があさっての方向にそらされた。正確には部屋の壁だったが。
「腹ごしらえにルームサービスを頼もう」
 ジャケットを脱ぎつつ、ソファに坐ろうとした。後ろから腹に腕をまわされる。どういう行動をとるかなと予想して、どれでもいいと思っていた。がっちりまわされた両腕に、腹で持ち上げられるように紘鳴はむぎゅうと抱きしめられた。背中が多田くんの胸板におされる。
 しかし、それをされた時間は短かった。腕の力が弱くなって、紘鳴はソファへぽてと足をつけた。
「ここはルームサービスのレベルが高いそうだ」
 メニューを差し出すと多田くんは素っ気なくテーブルに開いて置き、のぞきこんだ。紘鳴はソファに坐ったが、多田くんはベッドの端に腰をおろした。距離がある。
 注文した品を取りにローテーブルをまたぐようにしてドアにいく。
 くつろいだ格好でテレビをつけた。ベッドの端の多田くんを呼んだ。ソファ脇のスツールは十分な間隔を保って長い足を伸ばしてもぶつからない。
「……」
 ひかえめな態度のわりに、ボリュームあるプレートや一品料理を食べている。温かい麺類を食べて紘鳴は汁をすする。
「デザートぼくは要らないので、どうぞ」
「……はい」
 わざわざ移動して皿受け取って、ソファ坐ってもくもく食ってんじゃねえよ、と紘鳴は心のなかで自分に言った。
 またベッドをまたいだ奥へいこうとする背に抱きついた。
「べつに、無理していれろって言うつもりはない。そっちがいれなくても、こっちは好きにするから」
 往生際悪い多田くんはどうにか止まろうと浴室の戸の枠に手首でひっかかる。
「ああ、だいたい勃つかどうか」とつぶやき、紘鳴は舌で派手に音を立ててやった。
「わかりません、なんてさあ言う気だろ」
 壁に多田くんをおしつけ、正面からその懐に丸まりこむみたいにして身体を密着させた。さほど困っていない、難しく考えてもいない、目では気持ちを読み取れない表情で見下ろされる。
 腕を取って背中にまわさせようとするより先に、かるいかんじで紘鳴の腰のうしろを大きい手が持ち、偉そうにぐいと持ちなおした。
「ふん……」
 なんだ、と手の具合を見ようと紘鳴が仰け反り気味に身体をひねる。
 ひねって空いた側の右の首筋に食み吸いつかれた。
「……ッ」
 ゆるく食みながら吸ってくる多田くんの頭を手のひらでぐいぐい押した。まだ眼鏡をしてるが、壊さずにいてやる。鬼じゃないから情けをかけてやる。
 薄い皮膚を多田くんがきつく吸った。
 鼻梁が多田くんの首もとに潰され、目を閉じて身体の匂いを嗅いだ。
 咬んでもいいと後で言わないとな。
 紘鳴は密着させた腰を上下にずり動かして、器用に多田くんの手をおのれのシャツとボトムの間に指しこませた。
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