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大魔法使いの死 (6) 希望
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「どうやら我々は、こっちの世界の私たちに相当する人物の体に、心だけが乗り移ってしまったようなのです」
篠原、もといシュプリンが、パーパスの顔をじっと見つめて言った。
「何? 心だけが?」
意外な展開に、老魔法使いも戸惑っている様子。
「はい、ですからヴォルノースの世界の住人である我々に、こちらの世界の記憶があるのも、当然なのです。それは乗り移った人物が、元々所持していた記憶なのですからね。
また、もう試したと思いますが、いくらやっても魔法が使えなかったでしょう? それは、こっちの人間に魔法を使う能力がないからなのです。その為、心だけが乗り移った私たちも魔法を使う事が出来ません」
なるほど。シュプリンの明快な説明に、パーパスは膝を打った。
「そして先ほど申し上げた裂け目が、非常に不安定な為、私たちの心が、あっちの世界とこっちの世界を行ったり来たりしているというわけです。お心当たりが、おありでしょう?」
聞けば聞くほどシュプリンの説明は合理的で、大魔法使いであるパーパスにも口をはさむ余地がない。
「おぬし、よくぞそこまで調べ上げた。いや、あっぱれ、あっぱれ」
老人の顔が、満面の笑みで覆われた。
「それだけ分かっているのなら、この先どうすれば良いのかも、既に計画しているのだろう」
パーパスが、核心に迫る。
「はい。申し上げた通り、時空の裂け目は不安定です。次にいつ開くかはわかりません。ですから、根気よく待つのです。そして今度私たちがヴォルノースの世界へ戻った時、その裂け目を閉じてしまえば、二度とこの世界へ飛ばされる事態にはなりません」
正に立て板に水。シュプリンの計画は完璧であった。
「そうか、それならば致し方ない。その時が来るまでは、この世界に滞在するとしよう。なぁに、ここはヴォルオースとは全く違った世界のようじゃから、色々と観察するのも楽しかろう」
老人の目は、久々に希望の光を取り戻していた。
一ヶ月後。
篠原は一つのベッドを見下ろしている。誰もいないベッド、いや昨日まで馬場が横たわっていたベッドである。
「あら、篠原さん。今日は、手続きに?」
なじみの女性看護師が、篠原を見つけて声をかけた。
「えぇ、本当にお世話になりました。あなたの献身ぶりには、頭が下がりますよ」
振り返った篠原が微笑んだ。
「いえ、いえ。篠原さんに比べればなんて事ありませんわ。だって、最後の最後まで、あの方に寄り添っておられて」
篠原の傍に、看護師が近づいて来る。
「でも、一つわからないですわね。激しい発作が起こって馬場さんが息を引き取る間際、もうダメだろうと先生が仰った時、篠原さんは”今がその時です。ヴォルノースへ帰りましょう”と、馬場さんの手を握って言っていましたよね。
あれは?」
昨日の事を思い出して、看護婦が不思議そうに尋ねた。
「馬場さんは、ヴォルノースへ帰ったんですよ。少なくとも彼は、そう思っていたはずだ」
篠原は、主のいないベッドに目を落とす。
「ヴォルノースって、何です?」
看護師が、至極当然の質問をした。
「彼が創造した異世界ですよ。あの人、昔は自分でもファンタジー小説を書いていましてね。まぁ、喫茶店経営の傍らの、趣味みたいなもんですがね。
同人誌になったのを、私も昔、読ませてもらった事があるんです」
「まぁ……」
「担当の先生から、彼がもう長くはなく、認知症のせいで現実と想像の世界が入り混じっているらしいと聞いた時、私なりに恩返しがしたいって思ったんですよ。
ケースワーカーとして、本来はやってはいけない事だと承知はしているんですけどね」
篠原が、しみじみと語る。それは職業倫理と自らの心情とが、激しくぶつかり合った後に生まれる静寂にも似た心情であった。
「恩返しって?」
「私も若い頃、色々と悩む事がありましてね。世の中に潰されそうになった時には、決まって馬場さんの店へ行ったんです。
もちろん、只の逃避だって事は分かっていました。それでも、あの店の中だけは世の中から切り離された正に魔法の世界で、一時だけでも辛い現実を忘れる事が出来た。
それが当時の私にとって、どれだけ救いになったか」
篠原の目は、遠い昔を俯瞰して眺めている。その脳裏には、まだ若い頃の馬場や自分、あの喫茶店に集った仲間たちの顔が浮かんでは消えた。
「その時の恩返しとして、彼をヴォルノースの大魔法使いパーパスとして、逝かせてあげようと思ったんです。
マスターの妄想が、かつて読んだ彼の小説の中にあった内容そのものであると気がつきましてね。彼の家で見つけた同人誌を読み漁って、まぁ、一芝居うったわけですよ。
馬場さんの方では、昔そういう小説を書いてたなんて事も、すっかり忘れてしまっていたようですけどね」
「それで、馬場さん、最後の何週間かは穏やかに過ごされていたんですね。
……今ごろ、馬場さんの心は、本当にヴォルノースの地へ帰っているんでしょうかね」
「そう願いたいですよ。そこが、あの人にとっての天国だと思いますから」
ただ篠原には一つの不審があった。馬場老人に、彼がパーパスだと信じ込ませた決定的な事象である”ハラモイド草とヒカリゴケの融合実験”。矛盾が生じないように、同人誌を再確認しようと思ったのだが、彼はどうしてもそれが書いてある本を見つけられなかったのだ。だが、それも今となってはどうでも良い事であろう。
ナースステーションの前で看護師と別れた篠原は、もう一度、彼の恩人が最期の時を過ごした大部屋の方を振り返る。
さらば、パーパス。
さらば大魔法使い。
そしてさらば私の青春。
病院の中であるにも拘らず、篠原の頬を、森のそよ風が触ったような気がした。
《大魔法使いの死・完》
****************************
「で、どうでした?」
篠原、もといシュプリンが、パーパスの顔をじっと見つめて言った。
「何? 心だけが?」
意外な展開に、老魔法使いも戸惑っている様子。
「はい、ですからヴォルノースの世界の住人である我々に、こちらの世界の記憶があるのも、当然なのです。それは乗り移った人物が、元々所持していた記憶なのですからね。
また、もう試したと思いますが、いくらやっても魔法が使えなかったでしょう? それは、こっちの人間に魔法を使う能力がないからなのです。その為、心だけが乗り移った私たちも魔法を使う事が出来ません」
なるほど。シュプリンの明快な説明に、パーパスは膝を打った。
「そして先ほど申し上げた裂け目が、非常に不安定な為、私たちの心が、あっちの世界とこっちの世界を行ったり来たりしているというわけです。お心当たりが、おありでしょう?」
聞けば聞くほどシュプリンの説明は合理的で、大魔法使いであるパーパスにも口をはさむ余地がない。
「おぬし、よくぞそこまで調べ上げた。いや、あっぱれ、あっぱれ」
老人の顔が、満面の笑みで覆われた。
「それだけ分かっているのなら、この先どうすれば良いのかも、既に計画しているのだろう」
パーパスが、核心に迫る。
「はい。申し上げた通り、時空の裂け目は不安定です。次にいつ開くかはわかりません。ですから、根気よく待つのです。そして今度私たちがヴォルノースの世界へ戻った時、その裂け目を閉じてしまえば、二度とこの世界へ飛ばされる事態にはなりません」
正に立て板に水。シュプリンの計画は完璧であった。
「そうか、それならば致し方ない。その時が来るまでは、この世界に滞在するとしよう。なぁに、ここはヴォルオースとは全く違った世界のようじゃから、色々と観察するのも楽しかろう」
老人の目は、久々に希望の光を取り戻していた。
一ヶ月後。
篠原は一つのベッドを見下ろしている。誰もいないベッド、いや昨日まで馬場が横たわっていたベッドである。
「あら、篠原さん。今日は、手続きに?」
なじみの女性看護師が、篠原を見つけて声をかけた。
「えぇ、本当にお世話になりました。あなたの献身ぶりには、頭が下がりますよ」
振り返った篠原が微笑んだ。
「いえ、いえ。篠原さんに比べればなんて事ありませんわ。だって、最後の最後まで、あの方に寄り添っておられて」
篠原の傍に、看護師が近づいて来る。
「でも、一つわからないですわね。激しい発作が起こって馬場さんが息を引き取る間際、もうダメだろうと先生が仰った時、篠原さんは”今がその時です。ヴォルノースへ帰りましょう”と、馬場さんの手を握って言っていましたよね。
あれは?」
昨日の事を思い出して、看護婦が不思議そうに尋ねた。
「馬場さんは、ヴォルノースへ帰ったんですよ。少なくとも彼は、そう思っていたはずだ」
篠原は、主のいないベッドに目を落とす。
「ヴォルノースって、何です?」
看護師が、至極当然の質問をした。
「彼が創造した異世界ですよ。あの人、昔は自分でもファンタジー小説を書いていましてね。まぁ、喫茶店経営の傍らの、趣味みたいなもんですがね。
同人誌になったのを、私も昔、読ませてもらった事があるんです」
「まぁ……」
「担当の先生から、彼がもう長くはなく、認知症のせいで現実と想像の世界が入り混じっているらしいと聞いた時、私なりに恩返しがしたいって思ったんですよ。
ケースワーカーとして、本来はやってはいけない事だと承知はしているんですけどね」
篠原が、しみじみと語る。それは職業倫理と自らの心情とが、激しくぶつかり合った後に生まれる静寂にも似た心情であった。
「恩返しって?」
「私も若い頃、色々と悩む事がありましてね。世の中に潰されそうになった時には、決まって馬場さんの店へ行ったんです。
もちろん、只の逃避だって事は分かっていました。それでも、あの店の中だけは世の中から切り離された正に魔法の世界で、一時だけでも辛い現実を忘れる事が出来た。
それが当時の私にとって、どれだけ救いになったか」
篠原の目は、遠い昔を俯瞰して眺めている。その脳裏には、まだ若い頃の馬場や自分、あの喫茶店に集った仲間たちの顔が浮かんでは消えた。
「その時の恩返しとして、彼をヴォルノースの大魔法使いパーパスとして、逝かせてあげようと思ったんです。
マスターの妄想が、かつて読んだ彼の小説の中にあった内容そのものであると気がつきましてね。彼の家で見つけた同人誌を読み漁って、まぁ、一芝居うったわけですよ。
馬場さんの方では、昔そういう小説を書いてたなんて事も、すっかり忘れてしまっていたようですけどね」
「それで、馬場さん、最後の何週間かは穏やかに過ごされていたんですね。
……今ごろ、馬場さんの心は、本当にヴォルノースの地へ帰っているんでしょうかね」
「そう願いたいですよ。そこが、あの人にとっての天国だと思いますから」
ただ篠原には一つの不審があった。馬場老人に、彼がパーパスだと信じ込ませた決定的な事象である”ハラモイド草とヒカリゴケの融合実験”。矛盾が生じないように、同人誌を再確認しようと思ったのだが、彼はどうしてもそれが書いてある本を見つけられなかったのだ。だが、それも今となってはどうでも良い事であろう。
ナースステーションの前で看護師と別れた篠原は、もう一度、彼の恩人が最期の時を過ごした大部屋の方を振り返る。
さらば、パーパス。
さらば大魔法使い。
そしてさらば私の青春。
病院の中であるにも拘らず、篠原の頬を、森のそよ風が触ったような気がした。
《大魔法使いの死・完》
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「で、どうでした?」
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