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30 大切なこと
しおりを挟む「どうした? 何を呆けた顔をしている」
電話を切ってしばし呆然としている萌樹に、月白が問う。萌樹のベッドは彼にはサイズが小さく見える。足はおそらくまっすぐに伸ばせば、はみ出すだろう。
「呆けたって、失礼だなあ……今、仕事先に電話してたんだよ。なんか、結構休んだみたいだったから」
「ああ、こちらとあちらでは、時間の進み方が違うからな。あちらで、ほんのすこし過ごしたと思っていても、こちらでは違うこともある」
「なんか、浦島太郎みたいだな」
昔話を思い出した。助けた亀に連れられて、竜宮城を訪ったのは良いが、いざ戻ってみたら百年の年月が経っていたというものだ。あれは、異界へ赴く話だ。
「なあ、月白。狭間の世界にも、竜宮城ってあるの?」
「まあ近いような所はあるのだろうよ。吾は知らぬが」
狭間の世界は、広いのだろうか。ほんの少し垣間見ただけの萌樹には、何もわからない。
「行けたら行ってみたい?」
「さあ。そのようなことを今まで考えたこともなかった」
「そうなんだ。俺は……金に困ってないんだったら、世界中あちこち見て回りたいな」
「世界中とは、また、強気なことだ」
月白が、微苦笑する。
「今は、世界中どこだって行けるよ。飛行機を乗り継いだら、地球の裏側にだって」
萌樹は、そっと、月白の手を取る。
「どうせなら、あんたと一緒に、あちこち回りたい」
「おや、世界中、連れて行ってくれるのか?」
月白は、笑いを濃くした。萌樹は、冗談で言っているつもりはない。けれど、月白は、冗談としてとらえているようだった。それが、萌樹には悲しい。
「一緒にいたいのは、俺だけか」
思わずこぼれた言葉を聞いて、月白が、息を飲む。
「萌樹」
月白は、何かを言おうとしている。口が、開きかけて、やはり、辞めたようで、唇が、真一文字に引き締まる。胸が、詰まった。
「いやな事をいうつもりは無かったんだよ。せめて、一緒にいる間だけでも、楽しいことだけ考えていたいっていう、それだけで」
「すまぬ。だが、我らに、偽りを口にすることは出来ぬのだ」
じゃあ、本当にして。
そう、縋りついてなじりたくなった。あるいは―――あの姿絵を燃やしてしまえば。もう、ここから、狭間の世界へ、月白が帰ることはできなくなる。
胸の中にある、薄暗い願望に萌樹は、そっと蓋をして、月白を見やった。相変わらず、美しい顔だった。
「ちょっとくらい、俺とどこかに行ってみたいとか、思ってくれても良いんじゃないの?」
「ああ、そうだな。まったく、そういう気持ちがないというのではないな」
「えっ? 本当?」
身を乗り出して聞く萌樹に、月白はゆっくりと首肯して、萌樹に手を差し伸べる。
「お前の暮らしている所が見たい」
「もういるし」
「どんなところで働いて、どんなところで日々を過ごしているのか。ああ、あとは、どんなものを食べて、どう過ごしているのか……」
月白は夢見るように遠い眼差しをして、言う。
目の前に、居るのに。
萌樹は、月白の袖を掴んだ。
「街に出てみる?」
「できるのか?」
「あんたって、他のやつにはどう見えるんだろう」
姿絵に描かれたような、獣の姿なのだろうか。
「そなたが見ているように見える。吾は実体しかないのだ」
「そうなんだ……」
萌樹は月白をまじまじと見る。白黒の長い髪。これは、隠せない……が、昨今の男性アイドルなどは奇抜な髪色をしているのだから、気にしなくてもいいだろう。見た目の麗しさは『美形』で売っている並の俳優が裸足で逃げだすレベルだ。
「服だけ着替えるか。問題は、俺より背が高いってことかな」
「装束か」
「服のこと? まあ良いや、買おう。ファストブランドの服になると思うけどさ」
「金子は?」
金には、困っていた。日々の暮らしもやっとのこと……だが、多少、蓄えがあった。数日豪遊したら、底をつくだろうが、それよりも、大切なことがある。今、月白と過ごすために金を使うことが出来なければ、一生、小金を溜め込んで、金がないと嘆いて暮らすだけになる。
「一度くらい、貯金全額使ってみたい」
「蓄えか。大切なものではないのか?」
心配そうに、月白が問う。
「あんたと一緒にいる以上に、大切なことなんか、この世の中にあるかよ」
萌樹の返答をきいた月白が、不意打ちを食らったように、目を丸くして、ぱちぱちと瞬かせた。少しだけ、萌樹は、胸がすいた。
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