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21 唇
しおりを挟む雑貨屋に戻ると「いやー、ちょっとゴメンね」と雑貨屋が気軽な様子で二人を出迎えたので、拍子抜けしてしまった。
「は? なんだよ」
「……ちょっとね、客が来てね……。面倒なんで、そこの獏に、夢を喰って欲しいんだけど」
雑貨屋は、苦笑を浮かべながら、目の前で手を合わせている。なんとか頼む、ということだろう。
「面倒?」
獏が怪訝そうな顔をする。
「そうそう。ちょっと面倒で……」
「どういうことだ?」
「……今そこに紛れ込んだものがいるんだけどね」
「紛れ込んだもの?」
「そう……ちょっと悪夢で困っているらしくてね。香を作る前に、ちょっとなんとかしてやってくれないかい?」
気楽に雑貨屋は「頼むよ」などと言う。獏の双眸が引き締まった。
「対価は」
「えっ?」
涼しい声で言う獏に、雑貨屋は、あからさまな嫌な顔をした。
「なんで? 君は、別に、そういうのを必要としないだろ」
「しかし、お前はそれを求める。であれば、吾が求めても良いだろう。出なければ、不公平だ」
雑貨屋が顔をしかめている。
「なんだよ、ケチだなあ」
「お互い様だ。長年の知己であったのに、香のために、対価を求めるのだからな。そなたの為に、何度かただ働きしたことを、今更思い出したが?」
「……じゃあ……、ちょっとした道具でもあげようか」
「吾には、間に合っている」
「じゃあ、僕の頼みは聞いてくれないって言うことじゃないか」
雑貨屋が、頬を膨らませてみせる。なんとも、人間くさい態度に、萌樹は呆れてしまう。
「……君の安寧の為に、こんな品はどうかな」
雑貨屋が手をひらめかせる。次の瞬間、雑貨屋の手に、一つの珠が握られていた。虹色にも乳白色にも見える、不思議な色合いの珠だった。
「……それは」
と呟いた獏が、言葉を切る。
「どうだい? ……記憶を、吸い取る珠だよ。一度きりしか使えないけどね。君は、辛い記憶があるというじゃないか。それを、これに吸わせてやれば良い」
しばらく珠を見ていた獏だったが、不意に、顔を逸らした。
「どんな痛みを伴おうとも、記憶は宝だ」
「不本意な結果でも」
「ああ。それを、弄るような悪趣味なことはしない……が、代償としては悪くない」
指で宝珠をつまみ上げ、獏は懐へそれを入れた。
「まあ、使う使わないは君の自由だからね」
「……次に、お前に何か用事を頼むときにでも使うことにするさ」
それで、どの悪夢を喰えば良い? と、獏は雑貨屋に向き合う。萌樹は、薄い明衣一枚なので、なんとも心許ない気分になりつつ、二人のやりとりを見守るしか出来なかった。
「済まないねぇ……ここで、悪夢の気配なんかさせていたら、香に影響しそうだからねぇ」
くすくす、と雑貨屋は笑う。
「まあ、こちらも、腹ごしらえと言うことで……」
腹が、減っているのだろうか。獏は、涼しい顔をしているから、よく解らない。何も、読み取ることが出来ない。
「……あのさ」
「ん? なんだ?」
「……夢を食べる所は、見てて良い?」
「ああ」
雑貨屋に案内されたそこには、芍薬の花が一輪あった。花瓶に一輪だけ挿してあるが、羅を幾重にも重ねたような花は、存在感がある。その花の中央を、雑貨屋は指さした。
「ここに、寝ているんだよ……おそらく、蜂かなにかの精だと思うんだけど」
雑貨屋が苦笑する。
「気づかずに、ここまで引き入れてしまった……蜂は、こうして休むことがあるらしい」
小さな小さな、子供のような姿のものが、眠っている。人の形をしているが、小さな翅を持っていた。童話の『親指姫』を思い出す。うなされているようだった。
「……哀れなことだ」
そっと、蜂の精に獏の指先が触れる。そして、離れる。蜂の精と、獏の間を、青みがかった透明の糸が繋いで居た。
獏が、腕を揺らめかせる。謳うように、何かを呟いていた。指先からほとばしる糸が、宙を舞う。青い糸が、雑貨屋を満たしていく。
「ああ、これには触れないようにね」
雑貨屋に肩を引かれて、一歩、萌樹は後退した。
やがて、糸は黄金色に光り輝く。糸を紡いでいるようにも見えた。その、糸をたぐり寄せて、獏が、食む。獏の肌や、髪が、青白い光を放ちはじめた。
「前の時と、全然違う……」
「そうだろうねぇ。さすがに、獏だって、夢魔の見せる悪夢なんて、食べたことはなかっただろうし」
ふふ、と、雑貨屋は微笑む。
萌樹は、獏を見やった。伏し目がちに、悪夢を食む獏の姿が、とても、美しかった。一度、獏が、『悪夢』に口づける。そのまま、吸っているようだったが、その姿をみて、萌樹は、胸が跳ねた。
「おや、どうしたのかい?」
「い、いや、何でもないよ!」
雑貨屋が、訝しげな顔をする。慌てて、取り繕う萌樹は、動揺していた。
(なんで)
ぎゅっと明衣を握りしめる。
(なんで。あの唇に触れたいなんて思ったんだ……)
殺気まで、水垢離で冷え切っていたのに、顔が、熱かった。
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