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036 一頭の美しい砂獅

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 驚くイネスに、アーセールはさらに囁く。

「……実際には、一人で侵入してお救いした方が良いと思う。だから、俺一人でやるんだが……もし、俺が、ここに四日間帰らなかったら、その方を救いに来て欲しい」

「ちょっと、将軍は?」

「その場合、俺は死んでるだろうよ」

 さらりとアーセールはいう。その場合は、おそらく、皇太子殿下の盾になるか、なにかで、死ぬことになる。それは、覚悟の上だ。

「ちょっと、なんで、そうなんですか……自分の命は一番に大切にして下さいよ。あなた、新婚でしょ?」

「しかしなあ……もう、離婚寸前だし……」

「いったい、何をやらかしたら、そうなるんですか……全く、ここで、将軍に死なれると、寝覚めが悪いんですよ! 絶対に、生きて帰って下さい」

「まあ、善処はする」

 だが、絶対にと言うことは出来ない。アーセールの気持ちとしては、絶対に、皇太子殿下はお救いする。だが、そこまで達成されれば良いような気にもなっている。

(俺が生きていたら、あの人は、きっと、遠慮するだろうし……)

 遠慮して、離婚しなかったり、距離を置いたりするのは、どうかと思う。まだ、若く美しいひとから、将来を摘むようなことをしたくないし、もう、傷つけたくないし、傷つきたくない。

(傷つきたくない……?)

 アーセールは、自分の中にわき上がった思いに、今、唐突に気がついた。ルーウェのことを傷つけたくない。だが、それは、表裏一体で、本当の気持ちは、こうだ。



『自分が傷つくのは嫌だ』



 恥ずかしくなって、顔が熱くなった。

「ちょ、どうしたんですか、将軍っ!?」

「いや、その……色々考えて、俺は卑怯者だと言うことを、噛みしめていたところだよ」

「なんなんですか? それは……」

「自己嫌悪が酷くなっているだけだから、気にするな」

「それは構いませんが」と言って、イネスは一度言を切った。まっすぐ、アーセールを見つめる。そして、キッパリと言う。「自己嫌悪してるからって、死んでもいいや、とか、絶対に思わないで下さいよ。それを言ったら、ここに帰ってこられなくなるんですから」

 たしかに、そうだ。ほんの些細な心の隙間に、悪魔が潜む。それが、死を引き寄せる。それは間違いなかった。

「たしかに」

「とりあえず、作戦成功のお祝いを、将軍の自腹でお願いしますよ。そうしたら、近隣の奴らに二百人くらいに声を掛けておきますから」

「えっ? 二百人?」

「そうですよ。俺たち、退役軍人は、情報網で繋がっているんですから」

 ふふん、とイネスは胸を張る。

「……では、ついでに、頼む。西の所領がある。そこに、第八王子殿下が向かっている。なので、そこを、お守りして欲しい」

「また、盛大な夫婦げんかをしたもんですね」

 はははとイネスは苦笑する。

「だから、そういうものでは……」

「まあ、どんなおしどり夫婦にだって、一度や二度や……離婚の危機くらいはあるもんですよ。で、そのたびに、こんな大遠征をしていたら、おうちの方たちが迷惑しますよ」

 ルサルカが目を三角につり上げているのを想像して、コメカミが痛くなる。

「だから、ちゃんと、仲直りした方が良いですよ。だって……将軍。ご伴侶のことが、好きなんでしょ?」

 さも当然という口振りで、イネスは言う。

「えっ……っ……す、好き……って」

 初恋を言い当てられた少年のような反応だ。顔が、熱くなる。さっきから、顔は、きっと、真っ赤だろう。恥ずかしくてたまらない。

「そういう、子供っぽい反応するなんて、本気なんですねぇ」

「だ、だから……その」

「でも、お好きなんでしょ? ……だったら、ちゃんと、捕まえておいた方が良いですよ。案外、人と人が別れるのは、一瞬です」

 イネスの言葉には、妙な説得力があった。

 人と人とが別れるのは、案外、一瞬。

 確かにそうだ。長年一緒に居た戦友たちも、一瞬。一瞬の判断の違いで、永遠に会うことが出来なくなった。そういうことは、多い。

「なあ」

「はい? なんですか、将軍」

「……もしさ、ご母堂のことがなければ……、まだ、お前は俺の軍にいたかな? 俺は、お前たちにとって、良い上官だったんだろうか?」

 イネスが小さく吹き出す。

「何を仰ると思えば」

「……俺は、ちょっと、気になったんだよ」

 果たして、自分は、多くの人に信を置かれるにふさわしい人物だったのだろうか。そんなことを考えてしまう。

「もし、母親の事がなければ、退役勧告を受けるまで、しっかりのこって、がっぽり年金を貰ったと思いますよ。……それと、軍人にとっての『良い上官』というのは、部下を見殺しにしないことの一点に尽きると思います。いつも、死に場所を探してた将軍にはわからない感覚でしょうけれどもね」

 死に場所を探していた―――それは、意識していなかった。だが、前線へ出るのも怖くはなかった。功が欲しかったわけではない。別に、それには興味はなかった。アーセールの世界は、灰色、何もない荒野が、漠々と広がっているようなものだ。闇もなく、音もなく。希望もなく。

(あなただけだった)

 たった一つだけ、あったものは、ルーウェから貰った言葉だった。幼過ぎて、大意は覚えているが、正確な言葉までは覚えてない、それほどささやかな言葉。きっと、大丈夫だと。ただ、一頭の美しい砂獅だけが、荒涼としたところに、居てくれたのだ。

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