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 とあるマンションの一室に小さな看板がかかっていた。知らなければ見過ごしてしまうような、小さな看板だ。

 看板には『ドレスメーカー for Angel』と書かれている。

 間違いない。ここだ。

 幸子は、一度深呼吸をしてから、ゆっくりとインターホンを押した。指が震えていた。ここへ来るのを、夫や姑に相談はしたが『そんなことまでしなくても』というような顔をしていたし、『外聞が悪い』と言って姑には、不出来な嫁だと殴られた。

 夫に至っては『そんな無駄なお金を使わなくてもいいんじゃない?』などと言って、スマートフォンに視線を落とした。

 会社のメールではない。何年も、だらだらと課金をしながら続けているSNSゲームだ。

 こんな時にまでやらなくてもいいだろう。幸子はそう思っていたが、すでに夫に何を言っても無意味だということを悟っている。指摘をすることはなかった。

 そして、姑からは思わぬものを受け取ったが、もはやどうでも良くなっていた。



 せめて少しでも華やかな気持ちで送ってやりたい。そう思うのはおかしなことだろうか。

 いや違うだろう。少なくともこの店のことを教えてくれた看護師は、幸子の気持ちに寄り添ってくれたし、同じ気持ちだったに違いない。

 あの看護師は入院中もとても親切だった。

 たくさん受け持ちの患者はいるはずなのに、いつもにこやかで気配りを忘れなかった。

 例えば幸子が少しめまいがして体がしんどいなと思っていた時、あの看護師はいち早く気がついて声をかけてくれた。

 我慢していればそれで済むような不調だった。

 実際、もっと体が動かないようなしんどい時でも、夫と姑は気づかなかった。

 いや、もしかしたら、気づいていたのかもしれないけれど、嫁に気を使うことはないと思っているのだろう。旧然とした家だった。まるで、昭和の家に嫁いできたような錯覚に陥っていたが、結婚前には気づかなかった。


『はい。for Angelですが……先ほどお電話くださった方ですか?』


 インターホン越しに声がしたので、幸子は我に返り、「はい、そうです。先ほど電話した中沢です」と返事をする。

 すると、ほどなく、軋んだ音を立てながら、ドアが開いた。

 黒い、パフスリーブのワンピース。それに黒縁のメガネ。長い黒髪は、一本縛りにしている。

 魔女のような姿―――と幸子は思った。

「いらっしゃいませ。こちらの場所はすぐ分かりましたか?」

 魔女は、柔らかく微笑む。眼鏡が虹色に光った気がした。なぜか、それをみて、幸子は、ホッとしていた。

「分かりました。マンションの名前がちゃんと書かれていたので。それに……レンガ作りのようなマンション、とお伺いしていたから……」

「迷わなかったようでしたら良かった。さあどうぞお上がりください。……紅茶はお好きですか?」

 魔女のような人は、淡く微笑みながら問いかける。

 幸子は少し戸惑いながらも「はい、紅茶は好きです」と答えながら、マンションの部屋の中へ、誘われるままに入って行く。

 部屋の中には、大きなテーブルがあった。

 厚みのある、木で出来た大きなテーブルに、真っ白なレースで出来たテーブルセンターがあった。そして、その上に一輪挿しのフラワーベースが置かれていて、白い薔薇が、一本いけられている。

 その他に、飾りらしい飾りは、この部屋の中にはなかった。

「まずは、おかけください」と彼女は言う。

 幸子は、席に座って辺りを見回す。

 白い壁、飾り気のない部屋。

 通りに面しているはずだったが、外からの音は聞こえない。しゅんしゅんと小さな音を立てながら、やかんが鳴いているのが聞こえるぐらいだ。

 キッチンは別になっているようだった。

 部屋には確かに扉がある。

 扉は二つ。

 ガラスのついている扉が、キッチンへつながる扉だろう。

 もう一つの扉の奥に、おそらく、彼女の作業場所があるのだろうと、幸子は思った。

「お待たせしました。まずはお紅茶をどうぞ」

 真っ白なボーンチャイナ製のティーセットは、清潔で美しかった。

 こういうものを、結婚前は好んでいたはずなのに、しばらくの間、見ていない。結婚してから、どれほど多くのものを我慢して、耐えてきたのだろう。一口飲んだ紅茶は、とても懐かしい味がした。

「ロンドンに行ったことがあるんです。美味しい紅茶を飲みたくて……娘が出来たら、一緒に、ティールームでアフタヌーンティーをするのが夢だったのを思い出しました」

 眼の前が、滲んでぼやける。魔女のような店主は、やんわりと微笑みながら、静かに聞いている。

「お嬢様と、ほかにどんなことを、なさりたかったんですか?」

「えっ?」

 面食らった。

 ここへ来た理由は、魔女のような店主にもわかっているだろう。なのに、彼女は、話を進めない。それどころか、長話を促しているようにも見えた。

「娘が出来たら……ピアノを習わせて、あとは、近所に桜並木があるからそこをお散歩して、一緒にお洋服をかったり、テーマパークに行ったり、楽しいことをたくさん一緒にやりたかったですね」

 楽しい想像をすると、影のように夫の声が聞こえてくるような気がした。


『そんな無駄金を使いたくない』


 望みはそれほど贅沢なものではないだろう。だが、夫はそれを許さない。自分のものならばいくらでも買うのに。『稼ぎのない専業主婦』『養ってやってる』という言葉ですべて封じ込める。けれど、もう、そんな日々は終わったのだ。

「あの……それで、ドレスの話をしたいのですが……」

 おずおずと幸子が申し出ると、魔女は、静かに一冊のパンフレットを差し出した。



 亡くなった赤ちゃんのためのベビードレス制作を承ります、と書かれていた。
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