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01.
しおりを挟むとあるマンションの一室に小さな看板がかかっていた。知らなければ見過ごしてしまうような、小さな看板だ。
看板には『ドレスメーカー for Angel』と書かれている。
間違いない。ここだ。
幸子は、一度深呼吸をしてから、ゆっくりとインターホンを押した。指が震えていた。ここへ来るのを、夫や姑に相談はしたが『そんなことまでしなくても』というような顔をしていたし、『外聞が悪い』と言って姑には、不出来な嫁だと殴られた。
夫に至っては『そんな無駄なお金を使わなくてもいいんじゃない?』などと言って、スマートフォンに視線を落とした。
会社のメールではない。何年も、だらだらと課金をしながら続けているSNSゲームだ。
こんな時にまでやらなくてもいいだろう。幸子はそう思っていたが、すでに夫に何を言っても無意味だということを悟っている。指摘をすることはなかった。
そして、姑からは思わぬものを受け取ったが、もはやどうでも良くなっていた。
せめて少しでも華やかな気持ちで送ってやりたい。そう思うのはおかしなことだろうか。
いや違うだろう。少なくともこの店のことを教えてくれた看護師は、幸子の気持ちに寄り添ってくれたし、同じ気持ちだったに違いない。
あの看護師は入院中もとても親切だった。
たくさん受け持ちの患者はいるはずなのに、いつもにこやかで気配りを忘れなかった。
例えば幸子が少しめまいがして体がしんどいなと思っていた時、あの看護師はいち早く気がついて声をかけてくれた。
我慢していればそれで済むような不調だった。
実際、もっと体が動かないようなしんどい時でも、夫と姑は気づかなかった。
いや、もしかしたら、気づいていたのかもしれないけれど、嫁に気を使うことはないと思っているのだろう。旧然とした家だった。まるで、昭和の家に嫁いできたような錯覚に陥っていたが、結婚前には気づかなかった。
『はい。for Angelですが……先ほどお電話くださった方ですか?』
インターホン越しに声がしたので、幸子は我に返り、「はい、そうです。先ほど電話した中沢です」と返事をする。
すると、ほどなく、軋んだ音を立てながら、ドアが開いた。
黒い、パフスリーブのワンピース。それに黒縁のメガネ。長い黒髪は、一本縛りにしている。
魔女のような姿―――と幸子は思った。
「いらっしゃいませ。こちらの場所はすぐ分かりましたか?」
魔女は、柔らかく微笑む。眼鏡が虹色に光った気がした。なぜか、それをみて、幸子は、ホッとしていた。
「分かりました。マンションの名前がちゃんと書かれていたので。それに……レンガ作りのようなマンション、とお伺いしていたから……」
「迷わなかったようでしたら良かった。さあどうぞお上がりください。……紅茶はお好きですか?」
魔女のような人は、淡く微笑みながら問いかける。
幸子は少し戸惑いながらも「はい、紅茶は好きです」と答えながら、マンションの部屋の中へ、誘われるままに入って行く。
部屋の中には、大きなテーブルがあった。
厚みのある、木で出来た大きなテーブルに、真っ白なレースで出来たテーブルセンターがあった。そして、その上に一輪挿しのフラワーベースが置かれていて、白い薔薇が、一本いけられている。
その他に、飾りらしい飾りは、この部屋の中にはなかった。
「まずは、おかけください」と彼女は言う。
幸子は、席に座って辺りを見回す。
白い壁、飾り気のない部屋。
通りに面しているはずだったが、外からの音は聞こえない。しゅんしゅんと小さな音を立てながら、やかんが鳴いているのが聞こえるぐらいだ。
キッチンは別になっているようだった。
部屋には確かに扉がある。
扉は二つ。
ガラスのついている扉が、キッチンへつながる扉だろう。
もう一つの扉の奥に、おそらく、彼女の作業場所があるのだろうと、幸子は思った。
「お待たせしました。まずはお紅茶をどうぞ」
真っ白なボーンチャイナ製のティーセットは、清潔で美しかった。
こういうものを、結婚前は好んでいたはずなのに、しばらくの間、見ていない。結婚してから、どれほど多くのものを我慢して、耐えてきたのだろう。一口飲んだ紅茶は、とても懐かしい味がした。
「ロンドンに行ったことがあるんです。美味しい紅茶を飲みたくて……娘が出来たら、一緒に、ティールームでアフタヌーンティーをするのが夢だったのを思い出しました」
眼の前が、滲んでぼやける。魔女のような店主は、やんわりと微笑みながら、静かに聞いている。
「お嬢様と、ほかにどんなことを、なさりたかったんですか?」
「えっ?」
面食らった。
ここへ来た理由は、魔女のような店主にもわかっているだろう。なのに、彼女は、話を進めない。それどころか、長話を促しているようにも見えた。
「娘が出来たら……ピアノを習わせて、あとは、近所に桜並木があるからそこをお散歩して、一緒にお洋服をかったり、テーマパークに行ったり、楽しいことをたくさん一緒にやりたかったですね」
楽しい想像をすると、影のように夫の声が聞こえてくるような気がした。
『そんな無駄金を使いたくない』
望みはそれほど贅沢なものではないだろう。だが、夫はそれを許さない。自分のものならばいくらでも買うのに。『稼ぎのない専業主婦』『養ってやってる』という言葉ですべて封じ込める。けれど、もう、そんな日々は終わったのだ。
「あの……それで、ドレスの話をしたいのですが……」
おずおずと幸子が申し出ると、魔女は、静かに一冊のパンフレットを差し出した。
亡くなった赤ちゃんのためのベビードレス制作を承ります、と書かれていた。
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