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しおりを挟む翌朝は、雲一つない晴天だった。
どこからともなく、ほととぎすの声が聞こえてくる。夏らしい風情だった。まさか、これが死出の山路だとは思わない城の者達は、
「上様、留守は我らにお任せ下さい。ご無事に帰還下さいますよう」
と恭しく言う。それを聞いて、私は叫びたくなった。
もう二度と戻らないのだ! もう、二度と、ここに信長は戻らない。もう、この道を戻る事はないのだと。しかし、家臣達一丸になっても、きっと、信長を止める事は出来ない。なにより、信長の描いた狂言に、役を割り当てられた惟任は、止まらない。信長の筋書き通り以上に、働くだろう。本物の「謀反人」だと思われる程、徹底して戦い、誰かに討ち取られる事を願っているはずだ。一刻も早く、信長の死に相伴出来るように。
そして、北畠中将に焼かれて、この安土城は燃え落ちてゆく。
陽の光を反射して、世界をあまねく照らすような、天主の天辺も。瑠璃色の屋根瓦も、美しい白壁も、そこに描かれた極彩色の壁画も、すべて―――すべて。
「では、そろそろ参るぞ」と信長は馬を進めようとしてふと立ち止まり、私を手招いた。私は、そそくさと信長の側に寄った。
「そなたが、この国で生き抜く事が出来るか、余には解らぬが、達者に暮らすと良いだろう。余も、お妻木も、そなたを見て、心を和ませていた」
信長は、指の背で、優しく私の頭を撫でた。初めて撫でられて、驚いた。とても暖かで、優しい指だった。私は、信長に抱えられ、その腕を止まり木に、鷹のように立たされた。
「さあ、行くが良い。そなたを、放とうぞ」
す、と信長が腕を引く。私の足は、接地を失って、自然に、折り畳んでいた翼が広がった。落下しないように、と私は、精一杯羽ばたく。空を舞い上がる私の姿を、信長が嬉しそうに―――羨ましそうに見て居たので、私は、力の限りに飛び上がって、黄金色に輝く天主の天辺を、くるくると鳶のように旋回した。久しぶりに翼に、風を感じる。心地よい。
これほどまで高く飛んだのは初めてで、くらくらする。少し、息苦しい。黄金色の天主は、眩しくて、涙が出た。見下ろすと、水天一碧の光景が広がっていた。
空は青く、どこまでも青く、城の屋根瓦と同じ彩で、琵琶湖も、同じ青い色をしていて、私の羽も、その、空と水の色に溶け込むような、同じ青い色だ。見下ろすと、信長の姿が見えた。ごま粒よりも、もっと小さく見えた。信長は、天を仰いで、私を見ていた。
信長が、私を珍しがり、この羽の色を、美しいと言わねば、私は、この空を舞う事はなかっただろう。もし、信長に仕えていなければ、別の大名に差し出されていたかも知れないし、また、どこかに売られて死んでいたかも知れない。
そう思えば、私の、この命は、信長に救われたと言っても過言ではない。それに、この国に、私の仲間はいない。このまま、何に縛られる事なく空を舞ったとて、それに何の意味があるだろう。
よし、と私は決意した。乱が決めたように、惟任が決めたように、私も、決めた。
「上様のお寂しい心を、少しでも慰めてほしいのです」と、お妻木の方は私に願った。ならば、お妻木の方の願い通り、最後の一瞬まで、信長の側に居よう。
私は一つ呼吸をして、心を落ち着けると、体勢を立て直し、勢いを付けて、真っ逆さまに地上へと落ちていった。風と風の間を、錐揉みしながら落ちて行く。尾を捕まれて、ぶん回されているように、頭の中が揺さぶられてくらくらしたが、不思議な事に、私の視界には、信長の姿しか見えなかった。空中真っ逆さまに落ちてくる私を見て、信長は、茫然と口を開けていた。風に圧されて息苦しくて、気を失いそうになった私は、とにかく、無我夢中になって、腹の底から目一杯、力の限り叫んだ。呻き声は、風にかき消されて消えてゆく。地上すれすれまで落ちた私は、風の流れに逆らうべく、思い切り翼を動かした。この国に売られ来てから、あまり飛んでいないから、上手く翼を、動かせない。翼は、自分のものとは思えない程、重かったが、地面に叩き付けられるわけにはいかないと、とにかく、がむしゃらに私は翼を羽ばたかせる。
くちばしの先が土に触れたが、何とか地面に着く前に、空に戻った。私は、信長の周囲を、幾度も旋回した。私も、共に、京へ向かう事を決めた。
「そなた――」と、信長は、それきり絶句した。私の決意を知ったようだった。
「ウエサマ、オソバニ。ウエサマ、オソバニ」
幾度となく胸の中で繰り返してきた言葉を、また胸の中で繰り返すと思いきや、私は、潰れた喉から、声が出ていた事に気がついた。
私の言葉は、「上様」に通じたらしく、そっと、腕を差し出されたので、躊躇う事なく先程のように、腕に留まった。信長好みの、赤い外套の色が、夏の明るい青い空に、一際鮮やかに映えた。
手綱を持って馬を進めるか、と思いきや、思い留まって信長は空を見上げた。瑠璃色の天穹に、黄金の天主が光り輝いて、あまねく地上を照らす。信長の威光を、世に知らしめるように。これが最後、と目に焼き付けるようにじっと、見つめた安土城は、涙が出る程、美しかった。
やがて信長は「さあ、帰るか」と、いつになく満ち足りた笑顔で言うと、一路、本能寺へ駒を進めた。
(帰る旅・了)
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