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しおりを挟む誕生の日を祝う祭が終わると、先日、駿河で受けた接待に対する返礼というべき三河殿への接待が始まった。これは惟任が担当し、趣向を凝らしたらしいが、珍事が起きた。
惟任が急に接待の饗応をやめて、膳を投げ捨ててしまったのだ。惟任の奇行は、流石に安土中の評判になったが、とうの惟任は気にした様子もないし、三河殿は惟任の非礼に憤慨して岡崎(愛知県岡崎市)に戻ったりはしなかった。
ただ、惟任は、信長の心変わりを待っていたようで、じっと、信長を見つめ続けているが、信長は、どれほど見られても睨まれても、気にしない様子だった。
私も、信長に心変わりして欲しいが、どうすれば良いか。せめて、声でも出せれば、お妻木の方が言ったように「上様、お側に」という言葉を伝える事は出来よう。けれど、今更、必死に練習したところで、潰れた喉の奥からは、呻き声のような音しか漏れない。
「うー」と不愉快な音を立てて、私は何度も唸る。同僚達は、「このところ、忙しいが、少しすれば多少、暇ができよう」と私を心配して、励ましてくれた。
「うむ。三河殿は、上様に勧められて大坂見物に行くと言う事だし、惟任殿は、羽柴殿の援軍として出征されるらしく、坂本に戻るらしい。今月の末には、上様も御自ら中国出征のために、一度、京にお出になるという事だ」
「そなたは、中国にお供する事になるかも知れぬが、身体を休める時間も出来よう」
同僚たちの言葉を聞いて、私は、体中の血の気が引いて、頭がくらり、と揺らぐのを感じた。ひどく、頭を打った後のように、目の前が、ぐるぐる回る。
冗談ではない! と私は、気がついたら、部屋を飛び出していた。居ても立っても居られなくて、滅多矢鱈に、がむしゃらに動き回って、気がつけば、安土山の森の中に居た。
森は松の類が多いらしく、空気を吸い込むと、肺腑の曇りがスッと引いて行くような、清々しい芳香で満ちてゆく。所々にある落葉樹は、新しい葉を空一杯に広げようとするものだから、薄暗い。木漏れ日が所々射す、僅かな光くらいしか見えない。
私は、森の中で、叫んだ。声なき叫びは、木々を揺らす事もなければ、鳥を驚かす事さえ出来なかった。なぜ、私は言葉を奪われたのだろう。何故、私の音は、声にならずに、みっともない呻き声を上げる事しか出来ないのだろう。全身の力を振り絞って出るのは、呻き声。悔しくて、涙が出る。せめて、死ぬな、と伝える方法はないか。
信長は、この世のすべてを諦めて、この世のすべてを空しいというが、信長は、この世のすべてを知っているわけではない。この世のすべてを見てきたわけではない。私の故郷すら、見た事はないはずだ! 私は、自分の故郷、商人達に連れて行かれた暑くて赤い土をしたちいさな村、印度の宣教師の神学校に、マニラの聖堂、果てが見えない程に広い大海、九州を経て京に辿り着き、安土まで連れられた。私の方が、余程、世界の広さを知っているではないか!
高くそびえる天主を創り、天から世界を見下ろしている信長だが、鳶の高さに届かず、渡りをする鳥たちの見る風景さえ知らない。何も知らないくせに、すべてを知悉したような顔をするのはやめろ! と私は叫びたかった。
私の叫びは、どこに行くのだろう。声なき叫びは、どこへ行くのか。みっともない呻き声は、どこに行くのか。これが、何故、信長に届かない!
悔しくて悔しくて、目を閉じて怒りが収まるのをじっと待ったが、身体は震えが止まらなかった。震えが、止まらない。私は、惟任のように、諦めたくない。けれど、どうすればいい、と目を開いた時に、視界に鮮やかな赤い色が飛び込んできた。赤。平家の色。信長の好む色。近付くと、それは、赤いちいさな果実だった。茱萸、だろう。故郷でも見かけたような気がするが、最近、良く解らない。故郷の事を、思い出さなくなってきた。今では、故郷の、風の匂いも、忘れている。良く熟した赤い果実は、はち切れそうで、木漏れ日に透けて果肉の中の種の形も見えた。食べ頃の果実を、一つ食べてみようと思ったが、ふ、と信長の顔が過ぎった。
これを、信長に贈ってみようか。甘く熟した木の実一つで信長の心が変わるとも思えないが、私が、信長のために何かしたいという思いくらいは、伝わると思った。私は、たわわに実った茱萸の中で、一番熟れた果実を摘み取った。それから、脇目もふらずに城に戻り、天主の天辺を目指した。
信長は居室にいた。乱が廊下に出されているのを見ると、また、一人、暗闇の中に居るのだろう。天主を上がってきた私に気付いた乱は、部屋の中の信長に「上様」とだけ声を掛けると、ス、と襖戸を引いてくれた。私は、真っ暗闇の中に放り投げ出されたように、暗い部屋の中で、信長の熱と呼気を探った。私から、少し離れたところ、左手側に、信長はいる。私は、意を決して、信長の膝に触れた。今まで、こういう無礼な振る舞いをした事はなかったので、信長は驚いてびくり、と身体を震わせたが、すぐに私だと気付いたらしく「乱! 灯りをもてい」と命じると、乱は、すぐに灯りを持って現れた。信長は、不愉快そうに私を見下ろしていた。
私は、信長と対峙した。
私の目を、信長がじっと見ている。信長の双眸に、私の姿が映っていた。私と信長は、あまりにも、かけ離れた姿だった。それでも、私が心配している事は、伝わるだろうか。私は、信長の膝の上に、そっと、茱萸を置いた。
「ん? そなた、余のために、これを摘んできたのか?」
その通りだと答えたくて、私は頷いた。信長は、真っ赤な、小指の爪程の大きさの果実を、まじまじと見つめて、一つ摘むと口の中に放り込んでから、破顔した。
「懐かしいな」と信長の声は弾んでいた。「昔、野山を駆け回って、これを見つけると、あるだけ摘んで、皆で食べたものだ。勘十郎(織田信勝)にも遣ったし、母上にも持って行った。うむ、懐かしい」
目を細めて言う信長の姿を見て、私は、失敗した、と確信した。これでは、余計に、信長に、死への路への憧れを強めるだけになってしまう。
「そなたも、乱も、余を案じてくれるのは有り難い。だが、余はもう、何度も何度も、繰り返し考えて、これ以上無いと知った。もう、疲れた。余は、ただ帰りたい。生あるものは皆、土くれに帰るのだ。余も、そなたたちも。言うなれば、人の一生など、土くれに帰るための旅に過ぎぬのだ」
信長は残った茱萸を一つずつ摘んで、愛おしそうに食んだ。
あの日、惟任に命じて以来、信長は、こんな風に、一つ一つ、思い出しながら、日々を、己の人生を取り戻すように愛おしがって、生きてきたのかも知れない。生を、諦めて欲しくないと足掻く、乱や、惟任や、私より、もっと、生と向き合って、己の残り時間を過ごしたのだろう。
私には、もう、彼を止める事は出来ない、と思った。それでも、私は、毎日、信長に茱萸を運んだ。信長が、この世に未練などない事は知っていたが、ほんの一時、心安らいだ時間を過ごして貰えるのならば……と、この一年と少しの間に受けた恩に対する、返礼がわりに、私が思いつく事は、それくらいだった。
明日、いよいよ安土を発つ、と決まった五月二十八日には、私の摘んできた実を、一つずつ、乱と私にも分けてくれた。
「甘う御座います」と乱は笑う。信長の死に相伴すると決めている乱も、人生の終末を迎えるはずだった。胸が苦しくて、茱萸がどれほど甘いのか、私には解らなかった。
その夜、信長の寝所に宿直した私は、安土城が燃えて崩れゆく想像をした。
この美しい漆塗りの柱も、黄金に彩られた襖絵も、丹塗りの柱も、故郷と同じ彩の屋根瓦も、すべて、かつて、ここに城があった事を誰もが信じられぬ程に、すべて、灰に帰し、土や風と同化して、滅びてゆくのだ。
私の眦から、涙が零れた。
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