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しおりを挟む五月十二日の祝祭のために各地から諸侯が集い、その中には、織田家一の重臣を自負する惟住、惟任。信長の子息である、中将、北畠中将、三七(織田信孝)の姿に加えて、甥の七兵衛、京の公家衆の姿もあり、安土は馬や輿、贈り物を積んだ台車などで、押し合うような大賑わいだった。
「父上、久方ぶりで御座います。此度は、ご生誕の祝賀、誠におめでとう存じます」
信長の居室に現れたのは、信長の次男で北畠中将と呼ばれる方だった。信長の生誕の祝いのため、他の諸侯と同じように、山のような贈り物を携えていた。長男である中将とは同母の兄弟らしい。信長の前で、媚びるような、卑屈な薄ら笑いを浮かべるさまは、並み居る諸侯と比べても見劣りする。切れ長の目許だけが、信長に似ているのが、いっそ哀れな感じだ。少なくとも、一国の主とは思えなかった。
「おう、茶筅か。久しいの。息災であったか」
「はい。父上も、息災のようで何よりで御座います」
「うむ。伊勢の方はどうじゃ。そなたからは文も来ぬが」
伊勢は、北畠中将の領地だった。息子の心配は怠らないのだな、と私は思った。
「万事、大事ありません。平穏無事そのもので御座います」
と胸を張って言う北畠中将に、信長は眉間に皺を寄せながら、
「そなた、父より受けた折檻状を忘れたか。これ以上、愚かな事を申せば、そなたを追放するぞ」と凄むと、北畠中将は、塩を掛けられた蛞蝓のように、情けなく縮こまった。
「ハハ、冗談だ。意外に、そなたのような調子の良い者のほうが、長く生きて、血を残すのかも知れぬ」
信長は、しみじみと呟いて、北畠中将の顔を見た。しかし、その内容を、北畠中将は訝ったらしく、眉根を寄せて、「父上、なにかございましたか」と聞いた。
「いや、何もない。万事、大事ない」
笑う信長を見て、北畠中将は、首を捻った。「私は、父上と、このように、静かに語り合った事はございません。父上、何がございましたか」
「一度くらい、あろう」信長は心外そうに眉を寄せて言う。
「いいえありませぬ」と言ってから北畠中将は重ねて、「今日の父上は、何か、妙です」と呟いた。
「そうかも知れぬな。ああ、茶筅、そなたに頼みがある」
信長は、たった今思いついたように言った。
「はい、どのようなご用でございましょう」とかしこまって聞く北畠中将に対して、信長は、笑いながら、あたかも冗談のような口調で言った。
「もしな、父に何かあれば、そなたの手で、この城を焼き払え」
「父上!」
北畠中将は叫んだ。戸惑ったようで、思わず中腰になって、信長の顔をじっと見つめていたが、やがて、ぺたん、と尻餅をついた。
「今のうちに、そなたの欲しがっていた文箱をやろう。硯と筆と、墨も入れておく。南都(奈良県)で得た墨で、余も気に入りじゃ。それと少々、香木の類も分けておこう。そなた和歌を好んで居ったろう。賜った「古今集」もそなたに遣るか」
饒舌に言う信長の言葉に「お止め下さい!」と信長は叫んで頭を抱えた。父の胸の裡を読んだのだろう。とすれば、これは、信長からの形見分けに違いなかった。
「私が和歌を好むなど、今まで一度も仰有った事は、なかったではありませぬか!」
絶叫して北畠中将は、ぐずぐずと泣き始めた。泣きながら「いつも、兄上と差別されて、あれこれ怒鳴られ、北畠に出されて」と今まで燻っていた鬱憤と愚痴が一気に溢れる。
「馬鹿者。父は、そなたの好むもの、好まぬものくらい知っておる」
少し怒ったような声で言う信長は、そっと、北畠中将の背を撫でながら、
「安土の事は頼んだ。それと、出来る事ならば、血を繋げてくれ。父や、そなたの祖父達が、生きて戦った事を、絶やさぬために」
と、優しい声で言った。北畠中将は、泣きながら、こくこくと頷いて、信長の袖に縋り付いた。子供のような姿だった。
「この安土は、余の城じゃ。誰にも渡さぬ。ゆえに、焼き払え。ここに、世界に名だたる城がそびえていた事が、あたかも夢であった如く、ことごとく焼くのだぞ」
「かしこまりました、父上」
泣きじゃくりながら北畠中将は、確かに受けた。この方は屹度、この約定を違える事はないだろう。
ああ―――。
この安土は、焼かれるのだ。そう遠くない将来に、屹度焼かれる。音にのみ名を残し、その痕跡を、この世から消し去るために。
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