帰る旅

七瀬京

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 信長は、お鍋の方の前では、大分寛いだ表情を見せるようで、先程、惟任を虚ろな瞳で見下ろしていた信長と、とても同じ人物には思えなかった。

「ここは、陽当たりが良うて眠くなる」と欠伸をする信長の姿に、私は目を疑ったが、お鍋の方は慣れているらしく「天主の方が、陽当たりはよろしいのでは?」と問うた。

「天主か」と信長は小さく呟く。チラリ、と見遣った先には、天主があるはずだった。

「あそこは、陽が近うての。灼かれそうで昼寝は出来ぬ」

「まあ、それなら、夜は月明かりが眩しいとか、星の光が騒がしいとか、そんな事を仰有いそうです」

「成程、眠れぬ夜には、そう言って小姓どもを叩き起こすか」

 愉快そうに呵々と笑った信長は、ごろん、と横になる。それを見計らって側に寄ったお鍋の方の膝を枕に「風が心地よい」と呟きながら信長は微睡んだ。ほどなく寝息に変わった信長の顔をのぞき込んだお鍋の方は、

「お前は、随分、上様に気に入られているのですね」と私に問いかけた。気に入られている、と言われれば嬉しい。お鍋の方は、そっと、信長の肩に手を触れて、愛おしそうに撫でる。母が、子を慈しんでいるような姿、だと思った。かつて、宣教師に飼われていた頃に見た、聖母子像ピエタを思い出した。

「上様は、平清盛たいらのきよもりになりたいのかもしれない」

 お鍋の方は、小さく呟いた。平清盛。それは誰だろう、と首を傾げていると、

「上様は、殊の外、「平家物語」を愛好しておいでで、「平家物語」ならば、諳んじられる程でしょうね。時折舞う「敦盛」なども、その一つ」

 平家物語。私は、今まで聞いた事はないが、「敦盛」は聞いた事がある。「人生五十年」と言った信長に、乱が反駁した時だ。

「この国のいにしえに、一時ひとときの栄華を得たものの、その奢りのために滅びていった平氏という一族の、栄枯盛衰の物語で、上様は若い頃から、この物語に魅入られて、ご自身を「上総介かずさのすけ」と称されたり、姓を藤原氏から平氏に変えてしまったり、赤い色を好んで用いられたりしているのです。赤は、平氏の色なのですよ」

 ああ、そういえば、信長は赤い色を好んでいた。信長が心酔する物語、と聞いて私も興味を持ったが、私は文字を読む事も出来ない。内容を知る事も出来ないと、残念に思っていると、

「  祇園ぎおん精舎しようじやの鐘の声、諸行しよぎよう無常むじようの響きあり。

   沙羅双樹さらそうじゆの花の色、盛者必衰じようしやひつすいことわりをあらわす。

   おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。

   たけき者も遂にはほろびぬ、ひとえに風の前の塵に同じ……」

 お鍋の方は朗々とした声で語った。難しかったので充分には理解できなかったが、私は、「信長」がそこに在ると思った。空しい、と言った、信長の心そのもののような気がした。

「平家のおさ、平清盛は温情で、敵の息子を助けるのです。ですが、その息子達に地位を脅かされ、熱病に罹って死んでしまうのですよ。敵の息子など、生かしたばっかりに」

 お鍋の方は微苦笑して、私を見た。何か、察しろと言う事なのだろうが、私には解らずに、戸惑って、目をぱちくりと瞬かせていると、私に語った。

「お前、七兵衛殿という方を知っているかしら。上様の弟君で勘十郎かんじゆうろう信勝のぶかつ様という方が居たのだけれど、そのご令息なのですよ」

 七兵衛は知っている。惟任の娘婿だったはずだ。お逢いした事はなかったが、何度か、名を聞いた事はある。妹を側室に入れ、甥を娘婿に迎えるとは、惟任は、抜かりなく身固めをする、用心深い性格なのだと私は思った。

「信勝様は上様に謀反され、上様手ずから、ご成敗されました。七兵衛殿にとって、上様は父親の敵。それに、惟住これずみ丹羽にわ長秀ながひで)殿のご正室は、上様に謀反を起こした、三郎五郎さぶろうごろう織田おだ信広のぶひろ)殿の姫君です」

 お鍋の方の説明を聞いて、私は、一体どういう事なのだろうか、と訝った。二人の重臣が、信長と血の繋がりが深い、謀反人の子供と婚姻を結んでいる。もし、その子らが、親の無念を晴らそうとして兵を挙げれば、織田家の重臣二人が味方する事になる。多くの兵を抱える惟任、惟住である。一応、当主を退いている信長は、そう多くの兵を抱えるわけではないだろう。信長の命など、風の前の塵のように吹き飛んでしまうかも知れない。

「なぜ、こんなに、この方は、生き急がれる」

 お鍋の方の呟きに、私はハッとした。平清盛という人は、温情で助けた敵の息子が原因で死んだ―――と、先程、お鍋の方は言っていたではないか。

 私は、身震いがした。、信長は、のか、と。それと、先程の、惟任と乱の、遣り取りは……。まさか、と思ってお鍋の方を見る。お鍋の方は、

「そなたは、せめて、上様のお側にいて差し上げて、良くお話を聞いて、上様のお心を慰めておくれ」と、寂しそうに微笑した。お妻木の方も、同じような事を言っていた、と私は思い出した。

「上様、お側に」と。胸の中で、私は、何度も、その言葉を繰り返した。



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