帰る旅

七瀬京

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 私が安土城に戻ったのは、それから一月も経った頃で、年を跨いで天正十年(一五八二)になっていた。私は、天主の信長の居室に召されていた。漆塗りだったり、丹塗りだったり金彩で彩られていた城内にあって、信長の居室だけは妙に質素だった。金箔で彩られた襖や屏風が一つもないので、部屋の中は昼間でも灯りが要る程、薄暗い。少し変わっていると言えば、畳の縁が鮮やかな緋色をしているところくらいだろう。

 部屋の中には、私と信長しかいないので、緊張した。この間、市若と青木をあっさりと斬った鮮やかな剣を思い出したからだった。

「月日の経つのは早いものだ。ここまで来るのに、三十年も掛かったわ」

 それは、そのまま信長の戦いの人生なのだろう。私には計り知る事は出来ないが、信長の人生は、苦難の連続だっただろうし、信長自身が望んだ訳ではないのだろう。

 信長は立ち上がり、窓の外を見遣った。天主の窓から見える四角い空からは、小さい鳥の姿は見えない。見えるのは、とんび朱鷺ときのような、大きな鳥だけだった。

「そなた、故郷に帰りとうないか?」

 信長は私を見ずに聞いた。私は、もはや、故郷に帰りたいとは思わないが、答える言葉を持たなかった。信長は問いかけたが、答えを求めていないようだった。私は、じっと、信長の背を見つめた。金と赤の糸で刺繍の施された豪華な天鵞絨びろーどの黒い上着を纏った信長は、ただ、空を見つめている。信長の様子を伺っていると、ふいに、信長は呟いた。

「余は、帰りたい」

 それは―――尾張という国だろうか、と聞きたかったが、私に聞く事は出来ない。折角、こうして聞いた言葉に、返す言葉を持たないのは、辛い。けれど、信長は、私に語るのだ。信長の背は、とても小さく見えて、今にも消えてしまいそうだと思った。

 ふいに振り返った信長は、何事もなかったように、円座に座って黙り込んだ。何事だろうか、と思っていると、程なくして白湯を持った乱が、足音も気配もなく戻ってきた。

「上様、白湯をお持ち致しました」

 恭しく白湯を差し出した乱から茶碗を受けとると、信長は一口含んでから「何かあるか」と乱に声を掛けた。私には、乱の様子に変わったところは見当たらなかったが、信長には解るのだろう。乱は、畳に視線を落としたままで言う。

「武田攻めの件で中将様(織田信忠)、それと、惟任殿がお目通りしたいと」

「武田か」と信長は呟いて顎を撫でた。眉間に皺が寄っている。ううむ、と唸ってから「武田が事は奇妙きみよう(信忠)に任せてあるゆえ、後で聞く。惟任をこれへ」と静かに申しつけると、乱は承知致しました、と退室する。

 中将様というのは、信長の嫡男で、織田家の現当主である。その現当主を差し置いて、家臣である惟任を優先させるのが、不思議だった。惟任といえば、お妻木の方の義兄である。お妻木の方が亡くなったあの日に、廊下ですれ違ったのが最後だった。あの時は、大分取り乱していたようだったが、今は落ち着いただろうか。

 程なくして、「上様、惟任に御座います」と聞こえた。やはり、静かな、不思議な声音だった。波が広がって行くような、不思議な響きだった。信長は「来おったか」と心持ち、緊張したように顔を強張らせた。「入るが良い」と許可すると、惟任と乱が部屋に入る。惟任は、直垂と烏帽子を付けていた。随分、かしこまった姿だ。

 信長は部屋の上座に座っていたが、惟任の姿を見るや、ふ、と表情を緩めて、「惟任、何用ぞ」と聞いたが、なんとなく、信長は、その答えを知っているようだと思った。

「上様、お目通り頂き有り難う存じます。此度、お目通り頂きました理由は、上様の方がご存じかと」

 惟任は真っすぐに、信長を見た。まるで、睨み付けるような、強い眼差しだった。

「先日頂きましたお文は、一体、何事でしょうか」

 問いかける惟任の口調は強く、詰問のようだった。

「あれに記した通りである」と信長は、スッと立ち上がり、謡うように呟いた。

「この世はままならぬ。すべて空しい。御堂関白みどうかんぱくが我が世の春を謳っても、平清盛が位人臣くらいじんしんを極めようと、いずれ消えゆく。物語は残るが、炎に焼かれてすべて、灰に消える」

「安土と、上様を永遠とこしえに繁栄させてみせます」

 惟任は珍しく口角泡を飛ばしてになって言うが、信長は、やはり、静かだった。

「なれど余もいずれ死ぬ。今まで死を逃れたものは、誰一人とておらぬ」

 惟任は返す言葉が見付からなかったのか、唇を噛み締めて、拳を握り締めた。

「この世は空しい。余もいずれ死ぬ。であれば、余は、やりたい事を存分にやろうと思うてな。もとより、隠居の身じゃ。それゆえそなたに文を出した」

「武田攻めついでに、富士の山の見物。その後、三河や尾張を廻られる。五月には、上様のご生誕を寿ぐために諸国から人を寄せて、祭りを行う。そして、本能寺を攻めよと。もし、私が、三河殿が堺におられる、でしたか」

 本能寺は、一番最初に私が信長に会った場所だ。信長専用の宿舎と聞いていた。私は、惟任の言葉の意味が、良く解らなかったが、「その通りじゃ」と信長は肯定した。

 しばらくの間、惟任は黙っていたが、「なにゆえでございましょう」と怖い声で言った。心臓が凍り付きそうな程、冷たい声だった。
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