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しおりを挟むお妻木の方が亡くなっても、当たり前の事ながら、日々は変わらず過ぎてゆく。陽は昇り、そして西の空に消え、月が昇り、満ちて、欠けてゆく。人一人の死など、気にも留めずに、月日は歩みを緩める事もない。夏が過ぎ、秋が来て、冬になったようだ。納戸の中は、震えが止まらぬ程に寒い。私は、納戸の中で、声も上げず、身じろぎもせずに、ただひたすら、沈黙を保っていた。ただ変わった事と言えば、私のところに、毎日、小姓が訪ねてくるようになった事だった。市若とその取り巻きの、青木鶴という二人の小姓だった。
「上様は、また乱ばかり! 乱ばかりを贔屓して、私の事など、お褒め下さらない!」
甲高い、鼻に掛かったような声で叫ぶ市若は、脇差に飾られた赤い組紐を弄びながら、苛立たしげに叫んだ。絶叫に近いような声音は、耳が痛くなる。
「上様の乱への寵愛は、度を超していると私も思います。本来ならば、乱よりも先輩である市若殿の事こそ、重きを置かれるべきですのに」
青木は、市若の言葉に同意するように、ひょろ長い顎を大きく上下に動かして頷いた。
「青木殿。君も、乱のせいで働きを認めて貰えずに苦い思いをしているのだろう?」
「ええ、何度、あの涼しい顔を殴ってやりたいと思った事か……」
「ああ、それにしても、忌々しい!」
市若は、私に近付いて、力任せに殴りつけた。脇腹を抉るように、のめり込んだ拳の勢いに押されて、私は無防備に床に転がった。うっかりして、頭を強く床に撲ってしまい、視界が、地震でも起きたように、ぐらぐらと横に揺れた。起き上がれずにいた私を、市若が足で蹴り飛ばす。無防備なところを足で蹴られたものだから、蹴られた背中は酷く痛むし、咳き込んで息が出来なくなる。涙が滲むが、私には、抵抗するという事は考えられなかった。手当については、ここを訪れた乱が、子細を聞かず、苦々しい顔でしてくれる。あとは、じっと、養生しているようなものだから、この程度の暴力は、如何程でもない。
「ああ! ああ! ああ! 忌々しい! 何とか、あの乱を苦しませたい!」
ぎりぎりと歯軋りをしながら、市若は怨念めいた声で言った。やはり、左の手は、赤い組紐を弄んでいた。
孤り、闇の中でじっとしていると、私は、お妻木の方を思い出す。記憶の中、お妻木の方は、殆ど、床に伏した姿だったが、いつも、同じ言葉を繰り返し呟いていた。今際でもそれは変わらず、幾度となく「上様、お側に」と呟く姿は、祈りのようで、私の胸に強く、響く。お妻木の方は、儚い印象の人だったが、きらきらと光る瞳の美しさは、今でもまざまざと思い出す事が出来る。お妻木の方は、かつて、私に、「上様のお寂しいお心の裡を、少しでも慰めて欲しいのです」と言った。お妻木の方がこの世を去る間際に、私に遺言したのではないだろうかと考える。
(上様、お側に)
私は、その言葉を何度も、頭の中で繰り返し、じっと闇の中で、いつか、信長の近くに仕える日を夢に見て耐えていた。納戸の中は相変わらず、歩けば空気に靄が掛かる程に埃っぽくて、暗く、陽も差さない。鳥目の私は、殆ど周囲の様子を知る事は出来ないが、ただ、ひたすら(上様、お側に)と繰り返すようになった。
闇の中で、目を閉ざしていると、遠くから、乱暴な足音が聞こえた。城内、皆足音を立てずに歩くはずなので訝しく思っていると、やはり、乱暴に納戸の戸が、ガラリと開き、人が入ってきた。市若だろう。
「待ってくれ! 市若殿!」
遅れて入ってきたのは、青木の声だった。青木は戸を閉めながら「市若殿。何をしようとしているのか、解っているのか?」と市若に言った。返事がない市若に、ズカズカと、青木が近付く。そして、肩か腕を掴んだようだった。
「市若殿……、どうするつもりだ」
「これをつかう」と市若は、唐突に私に近付くと力任せに殴りつけた。当然、私は床に吹っ飛ばされて、したたかに全身を打った。納戸に収められていた漆塗りの食器などが、けたたましい音を立てて散らばった。くらり、と揺らぐ視界に気分が悪くなる。腹は、どくどくと脈打つ度に痛く、熱を持って感じられた。
「ああ、あった。これだよ、青木殿。これだ。これをつかうんだ」
うっとりと、酔いしれたように市若は言いながら、床に散らばったものの中から、羽を一枚取った。かつて、私のものだった、羽だ。安土城の屋根瓦と同じ、瑠璃色の空の色で、私は、以前に、乱にやった事がある。
「ただの鳥の羽ではありませんか、市若殿」
青木の声には、微かな安堵の色があった。
「これに、毒を仕込んで、上様にお出しする白湯に浸しておけばよい」
市若は笑いながら言った。青木が、息を呑むのが解った。私は、冗談ではないと思ったが、未だに視界が揺れて、起き上がる事さえ出来なかった。
「市若殿! 正気か!」
「私は正気ですよ。青木殿。鴆という鳥をご存じですか? 羽に毒を持つ恐ろしい鳥だそうですよ。この羽に毒を吸わせて、鴆の羽の代わり使う。乱は、同じ羽を持っていると自慢していたから、毒の下手人になって貰えば良い」
市若の甲高い哄笑が納戸に響き渡る。どう、やるつもりか解らないが、乱が差し出した、飲み物に、毒を仕込んでおく。すると、毒入りの羽が出てくる。乱が同じ羽を持っているのは周知の事実なのだろう。
市若は、さも可笑しそうに高笑いを続けているが、青木の方は、同じ気持ちではないようだった。「上様を殺す」という畏れ多い事をする勇気はないらしい。外に出て行こうとした青木の背中に、市若は「青木殿は、私の仲間ですよ」と冷酷に告げた。
「仲間? ふざけるな。私は、そのような企てに加担するつもりはない! 失礼する!」
くるり、と背を向けた青木の背後に、市若がぴたり、と張り付いた。その瞬間、青木の身体が、びくり、と大きく跳ね上がった。
「誰かに言うつもりなら、今ここで青木殿を殺します。そのあとで、青木殿の母上も」
市若の言葉に、青木はしばらく沈黙していたが、やがて意を決したのか、
「私は何もしない。その代わり、他言もしない」とだけ低い、緊張した声で言った。
市若は「では、黙っていておくれ」と、うっとりと呟いて、青木を伴い、納戸を出た。
これは、大変な事になった。市若は本気だ。
ようやく揺れる視界が落ち着いてきたので、大急ぎで入り口に向かったが、杉戸に阻まれ納戸を出る事は出来なかった。信長が、白湯を飲むのはいつだろうか。今すぐだろうか。それとも、もっと後だろうか。
私は居ても立っても居られなくなり、杉戸に体当たりした。内側から物音がすれば、不審がって誰か開けるかも知れない。私は杉戸にぶつかっては床に転がり、また、よろけながら体当たりして床に転がり、何度も何度も杉戸に当たった。そのうち、頭はクラクラして、足下が覚束無くなる。立ち上がろうとしては床にぺしゃん、と尻餅をついた。それでも、杉戸に体重をぶつけるように、捨て身の覚悟で杉戸に体当たりした。
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