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しおりを挟む長年の習慣で私は夜が明けるより早くに目醒めて、日が昇るのを待つ。乱たち小姓衆や、城の雑用をこなす女中衆などは、私と同じくらいの刻に起き出して、それぞれの仕事を始めるが、お妻木の方は朝が遅い。陽が昇ってから起床する。どうやら、朝方は、頭が重苦しくて、身体を起こすのが億劫なようだった。
桜の花が雪のように散り、今は、初夏、というのだろう。木々が真新しく柔らかな葉を付け、蒸し暑くなってきた。冬の、射すような冷たく澄んだ空気ではなく、どこか、柔らかい空気だ。南方産まれの私には、こちらの方が過ごしやすい。お妻木の方に仕えて一月以上経つが、一向に、不調は回復しないようで、側で見ている事しか出来ない我が身が、もどかしい。
「お妻木の方様のご様子は如何だ?」
乱は、表情を変えずに、黙々と務めを果たす。その乱が、今日は、心配事でもあるかのような思案顔だったので、私は、大いに訝った。
「上様のお気色が優れぬようなのだ。ここ最近は、本丸まで足をお運びになっても、お妻木の方様のところまでは、おいでにならず……、お妻木の方様のお体を案じておられるのだとは思うが、お鍋様や、美濃の方様とお話になっただけで、また、お帰りになる」
お鍋の方は、信長の側室。美濃の方は正室だったはずだ。乱は、信長の真意を掴めずに苦労しているようだった。乱としては、せめて、お妻木の方が、身を起こす事が出来る程に回復していれば、という思いだったのかも知れない。最近では、床に伏せっている時間の方が長い、と知るとあからさまに落胆して肩を落とした。
「お妻木の方様が、それ程、お悪いとは思わなかった。上様も、こちらには足を向けないが、気に掛けておいでゆえ、それとなく耳に入れておく事にする」
乱は気を取り直して、スッと背筋を糺してから私の許を去った。やはり、美しい、鶴のような立ち姿だった。
「また、お乱殿が来ていたの?」
弱々しい声が問いかけたので、私は、お妻木の方の床の方へと飛んでいった。
「そんなに急がずとも、妾はここにいますよ」
フフ、と笑うお妻木の方様は、やはり、弱々しい。生命の輝きを、殆ど失っているようだった。私がここに来てからしばらく経つが、お妻木の方の身体は一向に回復しない。養生しているが、日に日に弱って行く。信長は、その姿を見るのが、辛くなったのだろう。それで、足が遠のいたのだ。
「上様は、この世にままならぬ事があるのが許せぬのですよ。ですから、お方様にも、お顔を見せずに……なんという、情の無い方で御座いましょう……」
竹は、しばらく、信長の来訪が無い事をぶつくさと愚痴ていたが、お妻木の方は「いいえ」と言い切った。その眼差しは、存外力強いものだった。キラキラと黒瞳が輝いている。
「いいえ、上様は、お優しい気性の方だから、妾が衰えて行くのを見るのがお辛いのです。ご自分に、出来る事は何もないと、自らお責めになるから」
無力を、噛み締めているのだと、お妻木の方は言う。私は、天主を仰ぎ見た。故郷と同じ青い色の瓦で彩られた屋根の上に、ちょこんと乗ったお堂のような最上階に、一人座す信長は、無力と空しさを噛み締めているのだろうか。私に知る由も無い。
「上様は、情の深いお方。上様のお心はいつも、戦の後のように荒んでおいでで、上様は、どなたにも弱きお心の裡をお見せにならないから、妾は、上様が心配で。私は、ずっと、上様のお側にいたいのだけれど」と、一息に言ったお妻木の方は、コホコホと小さく咳き込んだ。咳は軽かったが、長く続いた。咳が収まった後、一息吐いたお妻木の方は、
「お前は、上様の御為にお仕えするのですよ」
しっかりとした黒い瞳が私をじっと見つめていた。真剣な眼差しだった。熱があるのか、潤った瞳は、キラキラと、良く磨かれた黒漆の器のように輝いて私を見つめていた。
「妾は死にます。近いうちに、夏が終わらぬうちに、蝉の声が途切れる前に」
お妻木の方は、迷いなく言い切った。まだ、夏は来ていない。蝉も鳴いていない。けれど、お妻木の方は、真剣な表情で、嘘や冗談を言っているようには、見えなかった。
「お前は、他言の心配がありません。ですから、上様のお側に仕えた暁には、上様のお寂しいお心の裡を、お聞きして、少しでも慰めて欲しいのです。それが、妾の望みです」
死、を覚悟したお妻木の方の言葉は、私の胸の奥に、鋭く突き刺さった。
「ああ、出来るならば、妾も、上様、お側に……」
祈るように、お妻木の方は、何度も、「お側に」と繰り返していた。
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