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しおりを挟む信長自身は一人、天主に住んでいる。本丸には妻妾を住まわせており、私が仕える事になる「お妻木」という側室も、一室を与えられていた。
私は、信長と乱と共にお妻木の方の居る、本丸西側の部屋へと向かった。天主の派手な装飾に比べると、こちらは質素と思える程に、飾り気が無かった。良く見れば、細かな彫刻を施した欄間などがあるが、鮮やかな色はどこにも見当たらない。桔梗の紋を施した調度があるくらいだ。
部屋には、一人の女が信長の来訪を待ちわびて座していた。蒼白い頬の痩せた女だった。痩せた、といよりは、やつれたと言うのが正しいのかも知れない。年は、四十には鳴っていないように思えた。頬はこけて、着物の袖から出た腕も手首も、枯れ枝のように細く弱々しかった。
「上様、ようこそおいで下さいました」
消えそうな声で言う女は、それでも黒い瞳だけは、キラキラとした生命の輝きを失っていなかった。お妻木の方は、惟任の正室の妹なので血の繋がりはないはずだが、その静かな眼差しは、惟任と似ていると、私は思った。
「そなた、また痩せたな。身体は十分に休めておるか? 飯は喰っておらぬのか?」
心配そうに矢継ぎ早に言いながら、信長はお妻木の方の痩せこけた頬を手で包み込んだ。慈しみの眼差しを向ける信長に、「上様、ご案じ下さいまして有り難う存じます。妾は、幸せ者で御座いますね」と、お妻木の方は目を潤ませながら言った。
「そうではない。飯を十分に食っているかと聞いている」
「はい。少々、食が細うなりましたが、日に二度、腹がくちくなる程、頂いております」
お妻木の方は、はきはきと受け応えたが、ちいさな、囁くような声音だった。
「ふむ。であらば、じきに気鬱ぎからも戻ろうが、他に身体が悪いと言う事はないのじゃな」と念を押す信長に、「はい」とお妻木の方は答えた。けれど、ただの気鬱ぎで、こんなやつれ方をするものなのだろうか。
「そうじゃ、乱。そのものをここへ」
信長の言葉に促されて、乱と私は信長の側へと移動した。お妻木の方は、私を見なり「まあ、珍しい」と目を丸くして驚いた。
「どうじゃ、お妻木。そなたに、このものを遣ろうと思うてな」
「まあ、それは有り難う存じます。このような珍しきものを頂戴致しまして、嬉しゅう存じます。このものは、生まれついてこの美しい彩をしているのでしょうか」
首を傾げたお妻木の方の言葉を聞いて、私は可笑しくなって思わず笑ってしまった。信長と同じ事を言ったからだ。
「ハハ。やはり、そなたもそう思うか。余が洗って確かめたゆえ、間違いないぞ。これは、このような彩を持って生まれたのじゃ」
「まあ」、と、お妻木の方は、私に同情の眼差しを向けた。優しげな眼差しは、やはり、惟任に少し似ていて、不思議に思う。
「上様、これは言葉は通じるのですか?」
「うむ。何となく、こちらの言うた事を解しては居るようだが、言葉を紡ぐ事は出来ぬ。喉を潰されたと宣教師どもは言ったらしい。修練しても、言葉を紡ぐのは無理であろうな」
「喉を潰されたなど可哀想に」お妻木の方は、「気の毒に」、と言いたげな表情で私を見た。喉が、苦しくなるような気がする。
「けれど、妾、このものが気に入りました。見ているだけで、飽きませぬし、屹度、妾の言う事を、解してくれるのでしょうから、妾の話の聞き手になってくれる事と存じます」
ふわりと微笑んだお妻木の方の表情を見て、信長は、かすかに安堵したようだった。おそらく、信長が、お妻木の方の微笑を見たのは久しぶりの事だったのだろう。
ふと、部屋の外に気配を感じて目を遣れば、惟任の姿があった。坂本で会った時のまま、穏やかな姿のままで、静かに廊下に控えていた。
「惟任、参ったか」と言う信長の呟きに「ハッ」と短く受けて、惟任は頭を上げた。部屋の主であるお妻木の方の様子を見て、こちらも少し安堵したようだ。顔がふ、と緩んだ。
「これのせいか、今日はお妻木も加減が良いようじゃ。そう思わぬか、惟任」
「はい。確かにお方様のお気色もよろしいようで、安堵致しました」
義妹とは言え、主の側室であるお妻木の方に対しても、惟任は丁寧な態度だった。
「お妻木。余は、今年は少々、安土でゆるりと過ごすゆえ、そなたも養生せよ」
「かしこまりました、上様」
「うむ。余の代わりに惟任と七兵衛を働かせるゆえ、気にするでない」
笑いながら、信長は惟任と乱を伴って部屋を去った。信長の去った部屋で、お妻木の方は「そなた」と私に呼びかけたので、顔を見ると、お妻木の方は言葉が通じてホッとしたというように、柔らかく笑んだ。
「そなた、妾の話し相手になっておくれ。頼みますよ」
わざわざ、頼んだお妻木の方に、私は驚いた。今まで、こんなに丁寧な扱いをされた事はなかったからだ。お妻木の方の柔らかな笑みを見て、胸が熱くなった。
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