帰る旅

七瀬京

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 ぴゅうと音を立てて風が吹き、濡れた私の身体を容赦なく冷やす。ぶるっと身震いすると乱は心配そうな顔をしてから「とにかく、寺の中に参るぞ。そなたは、今日より、上様にお仕えするのだ」と、私を抱えるようにして、私を信長の元へと連れた。既に着替えを済ませていた信長は、先程の衣装とは異なるが、金の縫箔で彩られた緋色の道服を着ていたので、私は、赤い彩を特別好むのだと思った。

 信長は、上機嫌で、私と乱の到着を迎えた。

「おう、やっと来たか」

「遅くなりました」と乱は、畳に額が着く程、深々と頭を下げた。信長の居室の中は、全て畳が敷かれていた。

「このところ、お妻木つまきが伏せがちじゃ。余もお妻木を案じておるが、惟任これとう明智あけち光秀みつひで)が殊の外、狼狽うろたえておるゆえ、少しでも気が紛れれば良いと思うてな」

 信長の表情が曇り、独り言のように乱に語る語尾が、次第に暗い声音になってゆく。

「お妻木の方様も、このものが側に居れば、お心も紛れる事と存じます」

「そうであると良いがのう」

 二人の会話から推論するに、私はこの奇異の姿を、側室に賞翫させるために飼われる事になったらしかった。その割に、信長の声も表情も、晴れなかった。

「全く、馬揃えなど面倒だな。万事、惟任と七兵衛しちべえ津田つだ信澄のぶずみ)に任せて安土に戻っても良いが」と溜息混じりに愚痴めいた呟きを漏らす。信長の眉間には、深く縦皺が刻まれていた。

 宣教師が話しているのを聞いた事がある。馬揃え、とは織田家の武将がそれぞれの軍隊を引き連れて行進したり早駆けを見せたりする、盛大な催しであるという。

「上様が馬揃えにお姿を見せねば、京の町衆も、さぞや残念に思う事でしょう」

 さりげなくいう乱の言葉に、信長は「ううむ」と唸った。京の町の人々が、信長の行進を楽しみにしている、という自覚はあるようだ。その期待を裏切りたくない気持ちは、あるらしい。私の存在など忘れたように、信長と乱は会話をしていた。私は、二人の会話を聞きながら、今、信長の身辺はどうなっているのか、私の所在はどうなるのかを、探る事しかできなかった。

 信長が京を辞し、安土に向かったのは、この国の暦で天正てんしよう九年(一五八一)三月十日の払暁だった。三月の京は、そこかしこで桜が咲き始め、空気を淡く甘酸っぱい薫りで染めていた。桜、は私の故郷にはない花だったので、山の景色をぼやけさせるような淡い彩をした、儚げな花に魅了されたが、唐突な安土への帰還に振り回されて目まぐるしい。

 本能寺は、京のに在る。そこから東に進み、山を抜けて行けば安土までは、約一二里(約四七キロメートル)であり、そう遠くはない。一日で到着するはずだったらしいが、ひる過ぎに信長が立ち寄ったのは、坂本さかもと城(滋賀しが大津おおつ市)という美しい城だった。

 この城は惟任の居城だった。見上げても天辺が見えない程、背の高い、天守と呼ばれる櫓を二つも持っていた。真っ白な漆喰で塗られた、美しい櫓だった。湖に面しており、城から船が出せるように、船着き場を備えた優美な城だった。

 坂本城の者達が地面に額を擦りつけるように平身低頭して、ずらりと並んで信長の到着を待っている姿は壮観だった。隅々まで訓練されているという印象を受ける。

「上様、京よりのご帰還お待ちしておりました」

 上等な身なりの男が、信長の前に進み出て静かに告げた。城主の惟任である。上等なと言っても、信長のような華美さは無い。春霞の陽気に相応しいような、若緑の小袖に、肩衣と袴を纏っていた。それが、惟任の柔らかな雰囲気に、とても、似合っていた。歳は、信長よりも幾らか年嵩に見える。穏やかな湖の水面のように、凪いだ心を映したような、静かな瞳をした、温和おとなしそうな人だった。

「うむ、惟任。今宵は、泊まるぞ」

「かしこまりした」と惟任は、急な命令に動じた気配もなく、慇懃に受けて「では、湯漬けなど、用意致しましたゆえ、どうぞあちらへ」と信長を天守の手前にある建屋へと誘った。これは「本丸」という建物で、天守のように階層を持った造りではなく、天井が低い建物だった。信長は馬から降りて、本丸に向かって歩いて行く。その後ろを、ピタリ、と惟任がついた。

「そこに変わったものが居よう。お妻木が気鬱ゆえ、これを側に仕えさせれば、あれも少々気が紛れるのではないかと思うてな」

 信長の言葉を聞いて、惟任は初めて私の存在に気がついたらしく、私を一瞥して、すぐに私から視線を外すと、

「確かに、珍しいなりで御座います。お妻木の方様も、斯様に珍しいものが側で目を楽しませてくれるならば、さぞ、気が紛れましょう。上様の心馳せ、この惟任めも、嬉しく存じます」と恭しく信長に言って、一度、姿勢を糺してから、深く礼をした。惟任は、真心からそう言っているらしく、信長の優しい心遣いに感激して、言葉の端が震えていた。

「うむ。であれば良いが、女が気落ちしているのを見るは、やはり忍びない」

 信長と惟任の親しげな様子を見ながら、乱が私に声を掛けた。

「あの方が、惟任殿だ。お妻木の方様に取っては、義兄君あにぎみにあたる方で、この坂本城を預かる方でもある。良く憶えておくと良いだろう」

 乱の言葉に頷いて、私も、本丸に入った信長の後を追った。
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