帰る旅

七瀬京

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らん! 盥に水を持てい! これを洗うぞ!」

 立ち上がり、甲高い声で命じた信長の言葉に、私は耳を疑った。朝になれば、水瓶に薄氷が張る程、寒いというのに、私を、水で洗うというのだ。私は、この国に於いて珍奇な姿であるらしく、宣教師に「見世物」として飼われている。

 乱と呼ばれた小姓は、信長の後ろから影のように現れた。低い姿勢のまま「かしこまりました」と受けて、後ろ向きのまま音もなく、去っていった。十六七という年頃に見える。

 信長―――織田おだ信長のぶなが、というのはこの国で一番力を持った大名らしい。今日は、信長の専用の宿舎である本能寺ほんのうじに、信長の目を楽しませるために連れられた。明日、みかどからの要請で、「馬揃うまぞろえ」という催しを行うらしいので、その祝賀のために、訪れたのだ。

 信長は、小柄な身体に、床まで引きずるような長い外套マントを召していた。その、唐紅からくれないが、どんよりと曇った冬空の灰色に、一際鮮やかに翻った。

「今から洗う、とは、で御座いますか?」

 戸惑ったのは私を連れてきた初老の宣教師で、首を傾げながら遠慮がちに信長に問いかけた。どうやら、他にも信長に洗われたものがいるらしい。信長は、宣教師を一瞥すると、「色を付けたような姿であるゆえ、洗い流す事にした」と事もなげに答えた。

「生まれついてこのようななりで御座います」宣教師の戸惑いは深まるばかりだった。

「そなたはそう申すが、我が国では見かけぬ姿ゆえ、確かめてみる事にした」

 程なく、乱は数名の男を伴って戻った。同じような歳の頃の、つまり年若い男ばかりで、皆同じ、萌葱色の小袖と袴を着用している。乱とは相役あいやくの者なのだろう。彼らは庭に盥を用意して、私を立たせた。乱は支度を整えると、地面に低く座って慇懃に一礼をしてから、「上様。支度が調いまして御座います」と低い声で報告した。

 信長は部屋を出て地面に降り、盥の側に自ら立った。すかさず、乱が、木で出来た柄杓を捧げ持つと、信長は何も言わずに手にとって、勢い良く私に水を掛けた。水しぶきが凍って氷の飛礫が身体に当たっているように、水は酷く冷たかった。ぴゅうと吹く北風に思わず身震いがしたら、水しぶきが信長の衣にはねて、唐紅の衣装に濃い染みを作る。

「この色が生まれついてのものだというのは、真実まことであるようじゃ。中々、美しいいろじゃ」

 信長が、私を見ている。ただ珍しがるだけではなく、美しい彩、と評されたのは、この国に来てから初めての事だった。飽く事なく私を見ている信長に、宣教師が声を掛けた。

「ここより、南方に遙か下りましたところに、我らの教会が御座います。これは、彼の地で手に入れました。南方には、このようなものが、沢山おります」

「南方の国より参ったという事は、寒さには弱かろう。たかが行水で感冒に罹ったようじゃ。乱。このものは城で飼うゆえ、そなたが万事面倒を見るが良い」

 信長は甲高い声で笑いながら、寺の中へと戻った。その気配が完全に消えた後、乱は盥の側に寄り、神妙な顔でゆっくりと、子供に言い聞かせるように語った。

「私は森成利もりなりとしという。上様は、ただ、「乱」と呼ばれるが、これは私の幼名だ。そなたの世話を命じられたゆえ、そなたも私の言う事を聞くように。そなたは、言葉も通じぬが、今より、上様にお仕えする事になったゆえ、万事、上様の御為になるように心掛けられよ」

 真っ直ぐと、乱は私の目を見て言った。乱は、透き通るような美しい眼差しと真剣な声音をしていた。

「森様。それは、声を出せませぬ」と宣教師は、乱に言う。

「声が出ぬ? 言葉は通じぬとも、声くらいは出せよう」

「私どもに売られる前に、どうやら、喉を潰されたようです」

 乱は、じっと私を見た。宣教師の語る通りだ。森で私を捕らえた商人は、私を酷く殴り、蹴り、そして、煩いと喉を潰した。乱の表情には、私を哀れむような色はなかった。ただ、じっと見つめてから、

「それは難儀であった。言葉なくとも、上様にお仕えする事は出来よう。上様は、無用のものを、お側に置かない」と断言した。宣教師は、乱の潔い言葉に驚いたようだったが、「このものは、森様にお預け致します」と丁寧に頭を下げ、乱も「承知致しました」と頭を下げる。そんな乱の様子をじっと見ていた小姓衆の一人が、

「森殿! お役目とはいえ、そんなものに、そう真剣に語っておいでだと、頭がおかしくなったと言われますよ」と、乱にあからさまな嘲笑を浴びせたが、乱は、スッと鶴が田に舞い降りたように毅然と立って、

「今よりともに上様にお仕えする同胞はらからであるゆえ、このものを軽んじる事はならぬはず。あなた方こそ、早う上様のお側に参らねば、お叱りを受けるのではありませぬか、市若いちわか殿」

 市若と呼ばれた若者は、悔しそうに「ぐっ」と呻いた。皆、同じ衣装だが、市若は刀の柄を鮮やかな緋色の組紐で飾りつけている。色白でぽっちゃりとした、可愛らしい顔は、乙女のようだった。市若は、その組紐を指で弄びながら、

「煩いな。そのような事は言われずとも解っている! 上様のお気に入りだからと言って、私を侮るとは。私も、上様には格別にお目をかけて頂いて、この組紐を賜る程なのだ!」

 口角泡を飛ばして叫ぶ市若の白い顔は、興奮したのか、熱でもあるように、赤くなった。乱は、市若の様子を見て、「ふぅ」と一つ溜息を吐いて、

「なればこそ、お早く上様の御前に向かった方がよろしかろう」と淡々と告げてからは、市若に関わるのを止めたらしく、私の身体を手巾で丁寧に拭いはじめた。乱の手は、暖かかった。
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