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第一章 夫婦の縁

09.新吉の心配

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 切羽詰まった表情のお多津からの、切実な願いを拒むことも出来ず、お瑠璃は数日後、芝居へ連れて行かれることになった。芝居は楽しいだろうが、なんとも、憂鬱だ。

 店の片付けをしながら溜息を吐いていると、

「なんだい、溜息なんか吐いて。景気が悪い顔をしているもんだな」

 と笑いながら新吉が入ってきた。

「あら、新吉さん」

「どうしたんだ?」

 新吉はお瑠璃のとなりにやってきて、そっと、淫具を手に取った。男性用の淫具で『吾妻形』という。漏斗のような形になっているが、その広い面についているのは、女陰を模したものだった。

「……新吉さんも、そういうものを使うの?」

「俺は、作るのに調べるだけさ。……どうせだったら、惚れた女のここのほうが、いいだろ?」

 新吉は、つん、と『吾妻形』を指で突く。お瑠璃が触られたわけでもないのに、下腹部が、きゅん、となった。

(やだわ……)

 恥ずかしくなってしまって、新吉から顔を背ける。

「新吉さんにも、居るのね。惚れた女」

「まあ、そりゃあ、いるだろうよ。俺だって、立派な陽のものをもった、男なんだから」

「あら、新吉さんのが立派だなんて、知らないもの」

「じゃあどうだい、見てみるか?」

 にやりと笑いながら、新吉が言う。

「からかうなんて、人が悪いのね……私が、落ち込んで居たからでしょ」

 お瑠璃の言葉を聞いた新吉が、目を丸くして、すぐに大仰に肩を落とした。

「まあ、そう言うことにしておいてやるか……はあ、困ったもんだ。それで、どうしたんだい? お瑠璃らしくないじゃないか」

 新吉は、『吾妻形』を元にあった棚の上に戻して、お瑠璃に向き合う。

「その……、前のお客さんなんだけど、芝居に誘われたのよ」

「えっ? そんなの、行くことはない! 危ないことになるかも知れないだろうっ!」

 新吉は急にいきり立って怒鳴りつける。口角泡を飛ばす勢いだったので、お瑠璃も面食らった。

「一体、何をされるか分かったものじゃないんだ。絶対に、行くことは許さない。どうしてもって言うなら、俺も付いていく」

 新吉が、お瑠璃の手を取る。職人らしく、大きくてゴツゴツした手だった。昔、やはり手を繋いだことはあったが、もっと、小さくて可愛らしい手だったのと、記憶を比べて、お瑠璃は驚く。

「待ってちょうだいな、新吉さん……危ないことには、ならないと思うわ。誘ってくださったのは、女のかたですもの。この間、少し話ししたかしら。……張型の使い方に難儀しているというお話しだったから、私に、指南して欲しいと言うことなのよ。だから、芝居のあとに、料理屋へ……ということなのだけれど」

「なんだ、なら安心じゃないか。ああ、驚いた。悪い男に騙されたらどうしようかと思っていたところだよ」

「まあ、私は、こういう商売をして居るけど、そんなに、誰にでも付いていくような女じゃないのに」

「ああ。それでもこういう商売だから、嫌な見方はされるだろうし、馬鹿な男が、いろいろとしてくることもあるだろうよ。だから、俺は、心配なんだよ」

 ぎゅっ、と新吉が手を握りしめる。暖かくて、大きな手だった。

「ありがとう」

「だから、お瑠璃は、たまには、俺も頼るんだぞ」

「いつも、頼っていると思うんだけど。お道具も作って貰っているし……なのに、何のお礼もしてないわ」

「いいよ、礼なんか」

 ぷい、と新吉が顔を背ける。そうなると、お瑠璃のほうが、余計に、気になってしまう。

「ダメよ、ちゃんと、お礼をしなきゃ。新吉さん、私に出来ることなら、何でも言ってちょうだい。……新吉さんが望むことなら、何でもするから。金子はあんまりないけど」

 必死に取りすがって言うお瑠璃に対して、新吉の顔は、瞬く間に真っ赤になっていく。

「お、おま……お前っ……そういうことは、軽々しく口にするものじゃ……」

「あら、軽々しくなんて言うわけありません。新吉さんだから……」

 なおも言葉を続けようとするお瑠璃の口を、新吉が手で覆った。

「悪いが、それ以上はやめてくれ」

(な、なによ、新吉さんったらっ!)

 ジタバタと暴れるが、新吉は手を放してくれない。このまま、噛んでしまおうかしらと、お瑠璃が覚悟を決めたところで、「もし、店のものはおられるか」と、張りのある、低い男性の声が店の外から聞こえてきた。

「なんだ?」

 今、店は暖簾を掛けてある。客ならば、店に入ってこようものだが……、訝しく思いながら外へ出る。すると、そこには、一人の武士の姿があった。年の頃は、四十あたりか。上背も高く、体格も立派で、来ているものも地味な色合いの羽織と袴だったが、絹だった。一目で、並の方ではないと、理解した。

「わたくしが、店を預かっております。八つ目屋、瑠璃と申します」

「お瑠璃殿か、少々、話することは出来まいか」

 武士は、静かに言う。だが、有無を言わせない圧と迫力があった。

「お話し、でございますか? ……手前どものようなものではなく、両国へ行けば、『四つ目屋』様などもありますが……」

「そのような用向きではない。ただ……家の者が、世話になっているようだから、話を聞きに来たのだ」

 家の者、と言われてお瑠璃は納得した。

 それは、おそらく、お多津主従のことだろう。

 お瑠璃は、固唾を飲んで、武士の顔を、じっと見た。怒っているわけではなさそうだった。静かな顔だった。悪い人ではなさそうだった。意を決して、腹に力を入れて、お瑠璃は口を開く。

「どうぞ、お入りくださいまし。手狭な店でございますが……」

 武士を、店内へと誘う。声は、震えていた。





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