永き夜の遠の睡りの皆目醒め

七瀬京

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 土方はおそらく、どこかの部屋に入って沖田隊の隊士達が去るのを見届けたのだろうと、思った。その日から、なんとなく、沖田は、土方の姿を気にするようになった。沖田が土方の様子を気にしていると、あの猫が、ふらり、と現れる。

 よく見ていると、土方は、猫に似ている気がした。

 猫は、規則正しい生活をしている。早朝に起き出して、自分のテリトリーを一周して、敵が居ないかどうかを確認する。一巡したら、一休み。その後は、日向ぼっこなどをして過ごす。朝食を食べたら、また、休む。休んでいるように見えるが、完全に眠っている訳ではない。あたりに気は配っている。熟睡などはしない。午後になると、二度目の巡回に出る。その後、休む。そして、夜になったら眠る。早朝に起き出す。

 土方は、早朝と深夜と、二度、屯所の庭を見回りしている。昼頃には、屯所の建物を一巡している。その中に、沖田の部屋前で、すこし沖田の部屋の中の様子を伺うというのがあるらしいが、沖田の部屋の中には入らない。

 沖田のことを心配しているのだろうが、それを、沖田本人に知られたくはないという雰囲気だった。新撰組副長としての公務の合間に、土方は様々な用事をこなしている。時折、島田や山崎を連れて出かけることもあったし、人目を忍んでこっそりと出て行く時は、きっと女の所なのだろう。そんな時の帰りは、空が白み始めるより少し前で、やけに浮かれた足取りで帰ってくる時もある。女に溺れるような男ではないが、相当な数の女が土方に夢中になっている。新撰組にこっそりと届けられる女達からの文の数も相当なもので、香を焚きしめた風雅な文に埋もれるようにして午睡を取っていた土方を見たことがある。気に入りの寝床を見つけた猫のようだ、と沖田は思った。

 沖田は、土方が猫に似ていると思う理由を、猫も土方も、一人で居ることを好むからだと思った。群れからは離れないが、群れの外から、傍観していて、一人で居る。集団の中には、居場所がないのかも知れない、と沖田は思う。

 土方は、遠くを見ている。ここではない、どこか遠くを見ている。そんなところも、猫に似ている気がした。





(土方さんは、何を見てたんだろうな)と沖田は思った。土方が何を見ていたのか、など、沖田には解らない。沖田は、毎日必死だった。朝起きて、まだ、生きていると言うことに安堵する日々だった。体調が悪いというのもあったが、人を斬った夜は魘された。自分の命を奪われる夢を見た。病気でも、でも、毎日毎日、朝、生きていることに感謝をするという日々だった。それは、死を目前に控えた現在でも変わらない。

 今日も生きていた。明日も生きられると良い。

 生きているから、何が出来るというわけではない。だが、死んでしまえば何も出来なくなる。それならば、まだ、生きていた方が良いように思えた。何も出来ないと思っていても、歯がゆさに涙したとしても、死んでしまったら、そこで終わりだ。本当に、何をすることも出来なくなる。

『死の淵』ならば、何度も見てきた。深い深い、暗闇に似ている。無明の闇、というのだろうか。耳が痛くなるほどの静寂がある。何もない空間、というのだろうか。虚無、と言う言葉がピタリとくる気がする。土方は、それに似ていると沖田は思う。

 きちがい、と京雀たちは言う。たしかに、あんな空間をみていたら、見続けていたら、気が狂う、と沖田は思う。そして、今、どっぷりと『死』の空気に染まった沖田は、やはり、気が狂っているのだろうと思った。

 沖田は嫡男だった。だが、父があまりにも早くに死んだ。沖田の父は、奥羽の白河藩の足軽頭だった。江戸詰だったので、沖田は生まれも育ちも江戸だ。白河など、行ったこともない。生まれも育ちも江戸という各藩の藩士たちは多かった。そういうものは、殆どが江戸で過ごし、自国の事など何も解らないという有様だった。江戸詰専任と、江戸と自国を行き来する役割のものが居たが、自国の者とは、言葉が通じない。下屋敷などに出入りしていれば、自国から出てきたものと交流するうちに覚えるのだろうが、沖田は、下屋敷になど出入りしたことはなかった。

 沖田には姉が居た。姉が、婿をとり、婿が沖田家を継いだ。つまり、折角長男として生まれたにもかかわらず、沖田は沖田家を継ぐことが出来なくなったと言うことだった。ついでに、物心ついた頃から、姉婿同居である。肩身が狭い思いが、剣術に向かわせた。『武士だから』と最適な逃げ道が、剣術稽古だった。人を斬ると言うことも、死も遠い世界だった。剣術稽古は、現実から逃れる為の場所だったから仕方がない。

 実戦を経て、沖田は、真実の意味で、剣の道の先に、生と死が見えることを悟ったが、土方と初めてであった時、沖田は違和感を覚えたのを思い出す。

『土方歳三と申す』と短く挨拶した『弟弟子』は、妙に薄暗い雰囲気を身に纏っていた。

『土方君は、今まで剣をやってきたのかい?』と沖田が聞くと、土方は『少しは』と短く答えた。寡黙な男だった。というより、(不気味だ)と思った。

『沖田様は、その若さで免許皆伝の腕前と近藤先生からお聞きしています』

 道場入門当初、土方は、沖田を『沖田様』と呼んだ。当たり前だ。沖田が兄弟子で、指導もする立場だからと言うのではない。もし、沖田が、剣などまるで使えないへっぴり腰だったとしても、土方は『沖田様』と呼ぶべきなのだ。

 土方は、姓の名乗りをしているが、農民である。沖田は、武士だ。江戸時代の身分制度は厳密であり、たとえ年下だろうが、沖田を呼び捨てになどすることは許されない。

 土方は、沖田に、意外な質問をした。

『沖田様。人を、斬ったことは、ありますか?』

 無論、無かった。そんな機会など、考えたこともなかった。『無い』とだけ答えると、土方は、一瞬、落胆したような顔になった。人斬りがしたいというような物騒な男には見えなかったので、沖田は『なぜ、土方君は、そんなことを聞く?』と聞いた。

 少し、考えるような素振りをしてから、『剣術は、人を斬ることにあったので、に付いて知らなければ、剣を振れない』とだけ言って、稽古に向かった。

 その時、沖田は土方の質問の意味を理解できなかった。人を斬ってから、初めて、知った。剣の先には、人の命がある。奪うも、生かすも、それを振るう自分次第だ。それを知ったら、怖くなった。怖くなったが、沖田は、戻れないところにいた。だから、それ以上考えなくなった。とにかく、斬るしかない。がむしゃらに振り続ければ、血煙の先に答えがあるだろうと思った。

(あの時、は、人を一人や二人斬っていたんだろうな)と沖田は思う。でなければ、迷わない。死を直前に控えた沖田は、まだ、人を斬ると言うことについての明確な回答は得ていないが、で良いのだと思った。こんな事が、理屈で割り切れてしまったら、ただの、狂った人斬りになる。それは、人の屍肉を食らって生きる鬼と変わらない。

(まだ、私は、人で居られるし……人のまま、死ぬことが出来る)

 身を起こし、暖かい風に誘われるままに外に出た。久しぶりに、外の空気に触れる。息を吸い込む。暖かな陽気を浴びた土地が、むわっとした熱気を立たせて、土の匂いがした。

 何となく、沖田は、一番最初に新撰組の屯所となった、壬生の前川家や八木家を思い出した。壬生には慶応元年まで居たから、二年も厄介になったと言うことになる。

「懐かしいなぁ」とぼんやり呟いた沖田は、一人の男が平五郎の家を伺っているのに気がついた。年の頃は二十五程度の武士だった。どうにもくたびれた姿をしているが、沖田には見覚えがあって、「おおい、むろ君かい?」と呼びかけた。久しぶりに大声を出したら、咳き込んでしまった。そんな沖田の姿を見て、男―――室宅之助むろたくのすけは大急ぎでで駆け寄ってくる。

「大丈夫ですか! 隊長!」

 大慌てで飛び込んできた室に、沖田は「大仰だな」と苦笑する。

「室君、久しぶりだ。元気そうだな」

 ハッ、と、室は沖田に平伏するように礼をした。頭を下げたままで、暫く居た。

 室は、新撰組脱走者だ。元々、沖田の一番隊に居たが、鳥羽伏見の戦いを目前に、新撰組を抜けた。脱走者には切腹申しつける―――土方の定めた法度ではそうなっているはずなので、室は、覚悟の上で、ここに来たのだろう。それが解った沖田は、

「室君。もう、新撰組は無いんだよ。私には、室君に切腹を言いつける事なんて、出来ないけどね」と笑った。

「新撰組が、ない?」と室は驚いた様子だった。

「そう。伏見の戦いが終わってから、私たちは、海路で江戸に来た。それから、新撰組は、甲陽鎮撫隊と名前を変えて、勝沼の戦いで大敗してね。永倉さん達が、甲陽鎮撫隊から抜けてから、隊士募集を掛けていた、流山で、官軍に囲まれてね。近藤さんは、総督府に出頭した………だから、新撰組は、もう無いよ」

 室は、「試衛館道場の皆様は、なにも言っておられませんでした。私が、試衛館道場を訪ねたのは、二日前です。そして、沖田隊長の静養先を教えて頂きました」と言う。

「そうか」と沖田は呟いた。「で、室君。なぜ、君は、ここに来たんだい? ……君は、京に住んでいたんだろう?」

 室は、じっ、と沖田を見た。真っ直ぐと、沖田を見ながら言い切った。

「沖田隊長が、伏せっていらっしゃるとお聞きしましたので」

 沖田は、驚いた。室とは、特別に親しかったわけではない。様々な戦いの場面で、一緒に死線を潜り抜けてきた仲間……特に、自身の隊の所属だったので、何度か話をしたり、酒を飲んだりはしたことがあったが、その程度だった。

「……驚いた」と沖田は言った。室も、頷いた。

「沖田隊長が、驚かれるのは仕方がありません。けれど、私は、伏見の戦いの前に、新撰組を抜けてしまいました。切腹となるべき所を、見逃されていたのは、沖田隊長のお口添えがあったからだと、思っておりました」

「室君、買いかぶりだよ。あの当時、私は、やっぱり伏せっていた。だから、私には、なにも出来なかったんだ。見逃してくれたとしたら、私の代わりに一番隊の面倒を見てくれた、永倉さんだし……土方さんだと思うよ。君はまだ若いから。腹を切らせなくても良いと思ったのだろう。本気で新撰組の監察部が動けば、君の居所なんか、十日で見つけられるからね。あの頃、新撰組は、おかしかったんだ。室君も、一緒に、幕臣に取り立てて貰っただろう? あの頃から、おかしくなった。いや、最初っから、おかしかったのかも知れないね」

 沖田は微苦笑した。しかし、室は、一途に沖田を信じて、東下りをしてしまったらしい。この沖田に、こんな事を言われても、納得がいかないようだった。

「……沖田隊長。私は、幕臣にお取り立て頂いて、新撰組では過分の手当も頂きました。病気の母に、なんとか、治療を受けさせてやることも、できました。私の家は、早くに父を亡くして、とても、貧しかった。母に育てて頂きましたが、その母も無理がたたって、病に伏せりがちでした。新撰組に入って、母を養生させてやることが出来ました。その、母の最期を看取りたくて、隊を抜けていたのです」

「ご母堂様が、亡くなったのか……」

 室は、頷いた。「………沖田隊長が、私を見逃して下さらなければ、母の死に目に合うことは出来ませんでした。本当に、感謝しております」

(見逃したわけではなかったのだけどな)と沖田は思ったが口には出さなかった。

「室君は、家族は他にいるのかい?」

「いいえ。母と、私だけでした。妹は、随分昔に死んでしまったので」

(なるほど、寂しくて、新撰組の誰でも良いから、逢いたかったのか)と沖田は納得した。室は、新撰組が京阪で募集を掛けた頃に入隊した隊士だった。三年以上、同じ釜の飯を食ったということになる。家族、というほど馴れ合った訳ではないが、室にとっては、帰るところの一つだったのだろう。

「私は、大恩ある沖田隊長に、一言も訳を言わずに新撰組を抜けてしまいました。せめて一度、沖田隊長と近藤先生や、土方先生にお会いして、お詫びをした後、腹を切りたかったのです。そうしたら、沖田隊長が、病身で静養中と聞き……居ても立っても居られなくなりました」

「死病だよ。静養ではない。お迎えを待っているだけさ」

 ふっと笑った沖田の顔を、室は傷ましそうに見た。沖田は、少し苛立った。同情をされるいわれはない、と思ったのだ。このまま、追い返そうかと思ったが、それも大人げないので、やめておいた。

「室君は、これからどうするつもりだ?」と沖田は聞いた。室は、即答できなかった。京から江戸迄下ってしまうくらいには、何も、考えて居ないのだ。江戸に行けば、新撰組の仲間に会えば、なんとかなる。すくなくとも、切腹だろうがなんだろうが、室の『未来』を決めてくれる。それは、将軍というリーダーを失い、『会津にさえ行けば』と北を目指した、幕府軍に似ている。

「はははは」と沖田は笑った。「君、自分のことだろう? なぜ、答えられないんだ」

 室は、うつむいた。答えなど、本当にないのだから仕方がない。

「……幕府は、たしかに、俺たちの生き方を作ったよ。農民は一生土の上で生きて、武士は一生、主家に仕える。それを、決めてくれた。思えば、こんな、ラクなことはない。何にも考えなくて、んだ。頭なんか使う必要はない。理屈を捏ねて生きても、身分は越えることが出来ない……だから、何も考えないことが正しかったんだ。でも、幕府の屋台骨が、ぐらぐらしはじめたら、みんな、色々考えるようになった。『幕府についていったら、生きていけないかも知れない』ってね。だから、いろんな人たちが、幕府を倒せだとか、王政を復活させろだとか、色々言うわけだ。でも、みんな、新しい言葉について行っただけで、その本質なんかわかっていない。私だって、新撰組は『攘夷派』で『佐幕』だなんていわれたって、ピンとこない。毎日、必死で生きてきただけだ。

 でも、みんな、望んでしまったんだよ。なにを望んでしまったのかって? それは、新しい、体制だ。新しい世界というのを、望んでしまったんだよ。つまり、みんな、欲がでた。こんな時代だから、自分が、世の中の中心に行けるんじゃないかって思ってしまった。誰だって、一番てっぺんになりたい。でも、どうして良いのか解らない。だから、勤王だの佐幕だの攘夷だの、新しい言葉について行っただけだ。近藤さんなんかは、その辺を沢山勉強したみたいだけど、役に立ったかは解らない。なにせ、もうすぐ、首を斬られる。新しい言葉についていくと、そうなる。天下を取ったものだけが正しい。それ以外のものは、敵だ。粛正される。

 私はね、室君。眠っていたよ。ずっと、眠っていた。みんなが、大変な苦労をして白刃を潜り抜けていた時、一人で、眠っていた。歯がゆかったよ。私も、みんなと一緒に、戦って散りたかった。でも、一人だから解ったこともある。こうして、みんなの事を外から眺めていたから解る。戦は下らないな。人斬りは、下らないよ。人を斬って、町を焼いて、それで何が残るんだい? また、憎悪が残るんだろう? 近藤さんは、新撰組に向けられた、すべての憎しみを背負っている。伊東さんの門下の人たちが、近藤さんの肩を鉄砲で狙った。近藤さんは、伏見の戦い、私と一緒に寝ているしかできなかった。伊東さんの件は、本当に酷い。おびき出して殺して、死体を晒して、高台寺党を全滅させるんだから、非道なやり方だ。『戦』だからって、こんなことをして良いはずがなかったんだけど、あの頃、誰も、あのやり方には逆らえない。そういう、法度だから仕方がない。だから、高台寺党の生き残りの人が、板橋の総督府に出頭した近藤さんを、『あれが新撰組の近藤です』って告げたらしいよ。それさえなければ、何とかなっただろうにね。薩摩だとか長州だとかは、新撰組を憎んでいたからね。だから、斬られる。斬られるんだよ、室君」

 室は、神妙に、沖田の言葉を聞いていた。

「でも、なら、俺はどうしたら良いんですか? 沖田隊長。俺は、新撰組しかないんですよ」

 縋り付くような言葉だった。その為に、京から出てきたのだ。仕方がない。

「……己の道は、己で行くしかない。だれも、室君の人生を代わりに歩いては呉れないだろう? 室君。君は、折角、生き残ったんだ。生きてくれ。私は、まだ死にたくない。が、もはや命数は尽きた。君は、まだ先があるだろう。私の分も……とは言わん。だが、生きてくれ」

 沖田の言葉に、室は泣き出した。きっと、新撰組の隊士らしく、戦って死ねと、言って欲しかったのだと、沖田は思ったが、今の沖田には、そんな無意味なことを言うことは出来なかった。
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