若月骨董店若旦那の事件簿~水晶盤の宵~

七瀬京

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 春宵の眉根が、そっと寄った。京香の笑い方が、気になるようである。

「……若月さん。わたくしのことは、好き?」

 春宵は。ふ、と笑った。随分と、酷薄な微笑であった。

「僕は、人間が嫌いです。……あなたは好きです。あなたは、人ではないから」

 と春宵は言って、月を見た。確かに、水晶盤とたとえらるるほど、この月は鮮やかに美しい。そして、凛々と、冴えている。

「こういう、月の夜でしたわ」

 と、懐かしむように、京香はうっとりと呟いた。対して「そうですか」と春宵はそっけない。

「橿原さん」

 京香は、春宵を睨み付けた。そういえば、初めて出会ったときに、橿原さんと呼んで、『京香』と呼んでくれといわれたのを、春宵は思い出した。この名前は、好きではないから、と。

「その名前で呼ばないで頂けますか? わたくしは、橿原京香ではありません。三枝さえぐさ京香ですから」と、京香はキッと春宵を睨みながら言った。

「なぜ……橿原で呼ばれるのを嫌うのです」

「あなたには、分からないことかもしれませんけれど……わたくしは、あの人の所有物になったつもりはありませんの。それに……同じ名前になるのが嫌でしたから」

 と、京香は目を伏せた。月光が、京香を照らす。青白く、京香は光り輝いているようにも見えた。それは、美しい光景でもあった。

「たとえば……とたとえ話ばかりですね、僕は。……たとえばですよ。人が、人を殺すとき、そして、その死の証を手元に留めておきたいと願うとき、どういった思いを抱くのでしょうね。……昔、そう言う事件があったんですよ。ご存知ですか? 阿部定という女性の事件ですが……」

「ええ。存じておりますとも。……あなたには、分からないのかもしれませんわね。たとえば、男性ならば……あなたのようにね。男性ならば、いとおしく思う人を、自分の手で幸せにすることが、出来る。自分の力で、未来を、二人のための未来を拓いていくことが出来ましょう。けれど、女には、それはほぼ不可能なことです。女がまともに働いても、本当に男性と同じ評価をされるとは限らない。子供を産み、育むことくらい。それはそれで、大切なことでしょうけれども、それだけしか出来ないことは、辛いことです。だから、女は……本当に、本当に大切で大切でたまらない存在ならば、遠く離れて、声すらも消息さえも聞くことがないほど、離れてしまえば、良いとこいねがうのですわ。己の、身の内に燻る、ほむらに身を焼かれ鬼になるのを、自ら拒むから。

 蜉蝣かげろうという虫をご存知? 虫が、愛し合うか、わたくしは知りませんけれど、愛した男の身を食らって、自分の子供を産み……儚く、散って行く虫ですの。女は、愛する男を食らうことがあるんですの。それは、鬼になるときですわ。それを、わかっていて―――それでも、そばに居たいと希うのは、女の愚かですわ。女とは、愚かしく、悲しい生き物ですの」

 と、京香は目を伏せた。それを。春宵は、哀しい姿だと思った。

「……かしらに鉄輪かなわを戴きて」

「そう。頭に鉄輪を戴いて、相手の女を呪い殺すんですの。たとえ、冥罰が下ったとしても、構わないと……姿も見えぬ、声ばかりの鬼に成り果てても構わないと」

 春宵は、京香の姿を見つめていた。月光が、二人を包み込んでいた。潮の音が、繰り返されては、洞窟に響き渡る。「潮の香ですね、死緒しおの香です」春宵は、呟く。

「そうですわね。……多分。ここから始まって、ここに行きつくのだと思いますよ。わたくしも。―――確かに、死緒ですわね。……若月さんも、海には思い出がありまして?」

 春宵は、目を伏せた。京香の、美しい顔から、目を背ける。

「……昔。恋をしました。……その恋人は、僕の目の前で、川に流されていった。……そして、死体があがったのは、何十キロも遠いところにある、海だった。僕は、大嫌いなんですよ、海が」

 と、春宵は呟いて、天を見上げた。上弦の月にもかかわらず、途方もないほど、明るい、空であった。まるで、二人の瑕を暴き出しているように、青白い月は、ただ、冴え冴えと、太陽の光を反射させるのみだ。

「若月さん。……わたくしは、信じておりますの」

「なにをですか?」春宵は、京香のあでやかな微笑に、見入った。

「次に、逢える時を、ですわ」

 と、京香はうっとりと、目を伏せた。「なにをです」と春宵は聞いた。静かな声であった。

「……また、逢えるときです」と、ためらいなく、京香は呟く。春宵は、そんな京香に背を向けた。カツンという、固い靴の音が、洞窟を響かせた。誰も、見てはいない、この洞窟。月だけが、この場所を知っている。太陽には、分からない。ここは、秋だから。限りなく、死に近い場所だから。限りなく、狂気に近い場所だから。

「若月さん、あなた、待てまして? ―――秋去姫あきさりひめならば、七月の七日の夜に、愛しい殿御と逢瀬を重ねることも出来ましょう。あなたならば……次に逢う日を、待てまして?」

 春宵は、少しだけ考えるような素振りをしていたが、ふと、思いついたように、

「そうですね。待てますよ。……二千年」と言って、一歩、前に出た。

 くすくすくす、と京香は笑った。「わたくしも、待てますわ。二千年。……その時には、あなたに、紹介しますわね……」

「そうですね。あなたに、逢うことがあれば……その時こそ、ご紹介していただこうと思います。……あなたが――――狂うほど、愛された方を」

 一瞬。京香は、瞠目したが、次の瞬間には、嬉しそうに微笑した。そして、ほぅ、と一息つくのが春宵には分かった。春宵は、謡った。朗々とした謡であった。



「 通ひ馴れたる  道の末

  通ひ馴れたる  道の末

  よもただすの  かはらぬは

  おもひに沈む  みぞろいけ

  生きるかひなき うきみの

  消えんほどとや 草深き

  市原野辺の   草分けて

  月遅き夜の   くらま川

  橋を過ぐれば  ほどもなく

  きふねの宮に  つきにけり

  きふねの宮に  つきにけり」
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