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 橿原の屋敷から、若月骨董店に迎えがきた。橿原京香から、若月春宵という青年を連れてくるようにと言いつかった、タクシーの運転手は言った。どうやらお抱えの運転手ではないようで、黒塗りの車の屋根にはタクシー会社のランプがついていた。

 別にすることもなく手持ち無沙汰にすごしていた春宵は、タクシーの運転手に誘われるままに、橿原の家に向かった。チラチラと、タクシーの運転手が、春宵の顔を見ている。国道の渋滞につかまって、退屈したのか、「お兄ちゃん、格好いいね」と言ってきた。

「はぁ」と春宵は返すほかなく、渋滞を、蝸牛のようにゆっくりと走る車の窓から、ぼんやりと外を見ている。タクシーの運転手のことなど、春宵にはどうでも良い。

「あの、橿原の奥さんの、コイビトだったりして?」

「だったら良いのにね」と、春宵はそっけない。運転手が、窓を開けた。悪阻らしいことに、手回し式の窓だった。程なく潮の香が満ちてきた。国道は、海の直ぐ隣を通っている。海岸沿いを行くものだから、土地のものは海岸線と呼んでいる。観光シーズンは、もとより毎日がひどい渋滞である。

「橿原の奥さんは、綺麗でしょ。みんな、あの綺麗な奥さんが、なんであんな旦那さんと結婚したのかって、不思議がってるんだよ。お客さんみたいな人だったら分かるけど、あんな、ねぇ」

「あんなって?」

「……昔ね、あの旦那さん、事故に遭ってね、顔が酷く焼けてるんだよ。そりゃあ、不気味なものだって、橿原水産のお得意さんに聞いたことがあるけどね。それに、年だって、親子ほど離れてたし、それに……後妻だしね。前の奥さんは、今の奥さんが嫁ぐ、二、三ヶ月前に唐突に亡くなったって言うから。しかも、変死ばかり」

 春宵は、ほんの少し考えるような素振りをした。そっと、目を伏せて。

「……秋、か」

「秋?」春宵の呟きを聞いていたようで、運転手は聞いた。「確かに、もう、良い季節ですねぇ。山のほうなんか、綺麗に色づいてますし。お客さんは、紅葉狩りにでも行かれるんですか?」

「紅葉狩り? そうだな、行きたいな。旅行李たびこうりでも持って」

 くすっ、と春宵はやわらかく微笑んだ。思わずタクシーの運転手が、バックミラーに映る春宵の笑顔に見とれて、エンストしてしまった。

「……お客さんと、橿原の奥さんは、どう言った関係なんですか?」

「あの人に依頼されて、僕はあの人の為にピアノを弾くだけだよ。ピアニストっていうほど、偉そうなものでもない。流しのピアノ弾きだよ」

 そうですか、と呟いてタクシーの運転手はステアリングを切った。随分、強引な曲がり方だったが、春宵は別に気にした様子もなく、ぼんやりと外を見つめていた。そこから、橿原家までは、そう遠くなかった。ものの二分程度で、橿原京香が立つ門の前までたどり着いた。橿原京香が、喪服姿で立ち尽くしている姿は、タクシーの運転手を瞠目させた。

 京香は、八年前、この家に嫁してからというもの、ほとんど、外に出たことはないと言うからだ。八年間。この家からほとんど、おそらく一度も出たことはないのではないだろうかと言われている京香の喪服姿は、まるで、幻のように美しかった。

 突風が吹いた。海からの風である。水蒸気を孕み、十分に冷えたそれは、身体の芯まで凍えさすほど冷たい。そして容赦なく吹く。時化しけだ。

「時化、ですわね。……このところ、時化が続いているから大変だわ」

「ええ、そうですね。随分と冷たい風だ」

 二人は、タクシーを見送った。年代物のディーゼルエンジン特有の黒鉛と、軽油の匂いが鼻を突いた。潮の香と交じり合う。春宵は京香の顔を見た。白蝋びゃくろうのような生気のない顔色だった。

「お顔色が悪い」

「いつものことですわ。久方ぶりに、外に出たものですから…………眩暈めいまいがしただけ」

「それならよろしいのですが。いきなり、タクシーが来たときには、吃驚びっくりしました。そんなに、僕なんかのピアノが聞きたいとは、思えなかったので」

「なぜ?」と京香は問うた。本当に眩暈がするのか、額を手で押さえている。

「あなた、ピアノの音がお嫌いですね。……昨日、眉をひそめていらっしゃった。聞き苦しいものを聞かせてしまったのかもしれませんが……リストのラ・カンパネッラと言ったのは、ただ……知っている曲だったからとは、違いますか?」

 京香は一瞬、硬直したように、動きを止めた。

「お見通しですのね。……かないませんわ。ええ。確かに、ピアノの音は大嫌い。悪魔は鈴を嫌うと言いますけれど、ピアノの音を嫌うのはなにかしら?」

「さあ、聞いたことがありませんね。……けれど、ピアノをお聞かせしないのでしたら、僕がここに居る理由も、必要もないとは思いませんか?」
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