5 / 16
弐
3
しおりを挟む
十一月の空に相応しく、澄みきった青空だった。鰯雲が空を彩っている。潮の香が鼻を突く。海が近づいているのだ。真っ直ぐ前方には、白い灯台もある。この街のシンボルでもある。この街は、港町だ。小さいながらに、港を抱え、市場や海水浴場もある。夏の観光シーズンを終えて、今では閑散としている。夏の残骸であろう、薪の燃え滓や、遊び終えた花火や、サンオイルのプラスティック容器が、散乱している。夏は、海から来る潮風は、サンオイルの甘い香を含んで居るのだが、今は、ただの潮の……生物の死臭と春宵が信じる香しか聞こえはしない。
灯台が近くなってくると、春宵の右側には、白塗りの壁だけが続くようになっていた。
「これが、橿原さんのお屋敷?」
とりあえず、入り口を探そうとするが、歩けど歩けど壁ばかりで、一向に入り口らしき入り口は見えてはこない。いいかげん辟易してきた頃に、春宵は立ち止まった。立派な門に、橿原の表札が掛かっている。
「すみません」
インターホンに向かって呼びかけるが、応答はない。仕方なく、大きな木製の扉を開いて、屋敷の中に立ち入った。一歩屋敷の中に入ると、純然たる日本庭園が続き、その奥に、時代を感じさせる立派な洋館と、平屋の日本住宅が建っていた。それにしても、と春宵はあたりを見回した。広大な土地であることは分かる。きちんと造園がなされた、立派な家だということも分かる。しかし、
「なんで、人が居ないんだ?」
人がいる、気配らしき気配がない。春宵の足元には、砂利が敷かれているので、恐らくはこの上を車が通るのだろうが、それらしき痕がない。紅葉が、緋鯉の泳ぐ池に落ちているのさえ、計算された造形にしか感じられないような、しっくりこない不自然さがある。
春宵は、のんびりと、洋館のほうに近づいた。日本家屋のほうにいかなかったのは、そちらのほうにはピアノがないと判断したからだ。春宵は、ピアノを弾きに来たのだ。
「すみません。若月と申します。……ピアノを弾きに来ました」
しかし、屋敷は、静寂を保ったままだった。仕方なく、何度か呼びかけてみるが、屋敷の平静は破られることは無く、仕方なく帰ろうとした、その時だった。
「……若月さん?」と、背後から、声がした。女の声だ。妙に、鼻に掛かったような艶のある声だった。春宵は、潮の香に相応しい、秋の夜の月のような声だと思った。
「どうも、若月です」
と、振り返ると、そこには春宵と大して年の違わない女が、黒漆の喪服姿で立っていた。「……高浜のおばから聞きましたわ。どうぞ、お上がりになって」
勧められるままに、春宵は、洋館へと足を踏み入れた。飴色に光る廊下。アールヌーボー風の調度。時代を感じさせるだけではなく、骨董屋で産まれ過ごした春宵が見ても、確かな品ばかりで彩られたこの屋敷は、ともすれば悪趣味にも見えかねないが、品良く調和していた。よほどの趣味の良い、目利きがこの調度を整えたに違いない。
「どうにも……素敵なお屋敷ですね」
「そうですか? 若月さんがそう仰有るのならそうかもしれませんわね。けれど、わたくしにはどうでも良いことです」
能面は。無表情の代名詞のように用いられる。しかし、能面はあのすべらかな木彫りの面のせいだろうか、その角度や所作によって、または面の種類によって、面をかける人間の、面の使い方によって、随分と表情を変えるのである。しかし、この橿原京香という美しき女性は、まったく表情を変えることもない。筋肉が、動いたような印象すら受けない。
「あの、橿原さんは、どんな曲がお好きですか?」
「京香とおよびください。橿原の名前で呼ばれたくはありません」
春宵は、かすかな嫌悪感を、京香の無表情に感じた。
「それで、どのような曲をお好みでしょう。できればピアノ曲だと助かります。こちらもあなたの為に、ピアノを弾くために来ていますから」
「そうですわね、では、リスト。ラ・カンパネッラ。弾けまして?」
「ええ」
「好きですの。……思い出深い曲ですもの」
と、言いながら、京香は応接用の客間の、長椅子を薦めた。京香だけは、しばらくドアのところに立ち止まっていたが、紅茶と洋菓子を受け取って、春宵に差し出した。普通は、給仕のものがやるだろうが、応接室には立ち入らない。
灯台が近くなってくると、春宵の右側には、白塗りの壁だけが続くようになっていた。
「これが、橿原さんのお屋敷?」
とりあえず、入り口を探そうとするが、歩けど歩けど壁ばかりで、一向に入り口らしき入り口は見えてはこない。いいかげん辟易してきた頃に、春宵は立ち止まった。立派な門に、橿原の表札が掛かっている。
「すみません」
インターホンに向かって呼びかけるが、応答はない。仕方なく、大きな木製の扉を開いて、屋敷の中に立ち入った。一歩屋敷の中に入ると、純然たる日本庭園が続き、その奥に、時代を感じさせる立派な洋館と、平屋の日本住宅が建っていた。それにしても、と春宵はあたりを見回した。広大な土地であることは分かる。きちんと造園がなされた、立派な家だということも分かる。しかし、
「なんで、人が居ないんだ?」
人がいる、気配らしき気配がない。春宵の足元には、砂利が敷かれているので、恐らくはこの上を車が通るのだろうが、それらしき痕がない。紅葉が、緋鯉の泳ぐ池に落ちているのさえ、計算された造形にしか感じられないような、しっくりこない不自然さがある。
春宵は、のんびりと、洋館のほうに近づいた。日本家屋のほうにいかなかったのは、そちらのほうにはピアノがないと判断したからだ。春宵は、ピアノを弾きに来たのだ。
「すみません。若月と申します。……ピアノを弾きに来ました」
しかし、屋敷は、静寂を保ったままだった。仕方なく、何度か呼びかけてみるが、屋敷の平静は破られることは無く、仕方なく帰ろうとした、その時だった。
「……若月さん?」と、背後から、声がした。女の声だ。妙に、鼻に掛かったような艶のある声だった。春宵は、潮の香に相応しい、秋の夜の月のような声だと思った。
「どうも、若月です」
と、振り返ると、そこには春宵と大して年の違わない女が、黒漆の喪服姿で立っていた。「……高浜のおばから聞きましたわ。どうぞ、お上がりになって」
勧められるままに、春宵は、洋館へと足を踏み入れた。飴色に光る廊下。アールヌーボー風の調度。時代を感じさせるだけではなく、骨董屋で産まれ過ごした春宵が見ても、確かな品ばかりで彩られたこの屋敷は、ともすれば悪趣味にも見えかねないが、品良く調和していた。よほどの趣味の良い、目利きがこの調度を整えたに違いない。
「どうにも……素敵なお屋敷ですね」
「そうですか? 若月さんがそう仰有るのならそうかもしれませんわね。けれど、わたくしにはどうでも良いことです」
能面は。無表情の代名詞のように用いられる。しかし、能面はあのすべらかな木彫りの面のせいだろうか、その角度や所作によって、または面の種類によって、面をかける人間の、面の使い方によって、随分と表情を変えるのである。しかし、この橿原京香という美しき女性は、まったく表情を変えることもない。筋肉が、動いたような印象すら受けない。
「あの、橿原さんは、どんな曲がお好きですか?」
「京香とおよびください。橿原の名前で呼ばれたくはありません」
春宵は、かすかな嫌悪感を、京香の無表情に感じた。
「それで、どのような曲をお好みでしょう。できればピアノ曲だと助かります。こちらもあなたの為に、ピアノを弾くために来ていますから」
「そうですわね、では、リスト。ラ・カンパネッラ。弾けまして?」
「ええ」
「好きですの。……思い出深い曲ですもの」
と、言いながら、京香は応接用の客間の、長椅子を薦めた。京香だけは、しばらくドアのところに立ち止まっていたが、紅茶と洋菓子を受け取って、春宵に差し出した。普通は、給仕のものがやるだろうが、応接室には立ち入らない。
0
お気に入りに追加
20
あなたにおすすめの小説
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/mystery.png?id=41ccf9169edbe4e853c8)
それは奇妙な町でした
ねこしゃけ日和
ミステリー
売れない作家である有馬四迷は新作を目新しさが足りないと言われ、ボツにされた。
バイト先のオーナーであるアメリカ人のルドリックさんにそのことを告げるとちょうどいい町があると教えられた。
猫神町は誰もがねこを敬う奇妙な町だった。
ヘリオポリスー九柱の神々ー
soltydog369
ミステリー
古代エジプト
名君オシリスが治めるその国は長らく平和な日々が続いていた——。
しかし「ある事件」によってその均衡は突如崩れた。
突如奪われた王の命。
取り残された兄弟は父の無念を晴らすべく熾烈な争いに身を投じていく。
それぞれの思いが交錯する中、2人が選ぶ未来とは——。
バトル×ミステリー
新感覚叙事詩、2人の復讐劇が幕を開ける。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/mystery.png?id=41ccf9169edbe4e853c8)
とある最愛の肖像
相馬アルパカ
ミステリー
騎士団長の息子・クラウディオの婚約者は推理がお得意だ。令嬢探偵・ヴィオレッタは可憐な外見からは想像できないほど行動的である。
画家志望の青年から『消えた肖像画を探してほしい』と相談されたクラウディオはヴィオレッタの力を借りて失せ物探しを始めるのだが。
人が死なないミステリー。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
伏線回収の夏
影山姫子
ミステリー
ある年の夏。俺は15年ぶりにT県N市にある古い屋敷を訪れた。某大学の芸術学部でクラスメイトだった岡滝利奈の招きだった。かつての同級生の不審死。消えた犯人。屋敷のアトリエにナイフで刻まれた無数のXの傷。利奈はそのなぞを、ミステリー作家であるこの俺に推理してほしいというのだ。俺、利奈、桐山優也、十文字省吾、新山亜沙美、須藤真利亜の六人は、大学時代にこの屋敷で共に芸術の創作に打ち込んだ仲間だった。グループの中に犯人はいるのか? 脳裏によみがえる青春時代の熱気、裏切り、そして別れ。懐かしくも苦い思い出をたどりながら事件の真相に近づく俺に、衝撃のラストが待ち受けていた。
《あなたはすべての伏線を回収することができますか?》
憑代の柩
菱沼あゆ
ミステリー
「お前の顔は整形しておいた。今から、僕の婚約者となって、真犯人を探すんだ」
教会での爆破事件に巻き込まれ。
目が覚めたら、記憶喪失な上に、勝手に整形されていた『私』。
「何もかもお前のせいだ」
そう言う男に逆らえず、彼の婚約者となって、真犯人を探すが。
周りは怪しい人間と霊ばかり――。
ホラー&ミステリー
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる