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しおりを挟む私の手首から流れ出た血はゆっくりと床に落ちていく。そこに、私は自分の魔力を流し込んだ。歌うように、神を賛美する聖句を口にする。私を制止するために動いたであろう国王が、シンに止められているのが視界の端に見える。
私の全魔力を捧げる。その代わり、願いを聞き届けよ。
古代の言葉で、私は呼びかける。『旧い言葉』には、力がある。神の言葉に近いのかどうかは解らない。少しずつ、血と、魔力が失われていくと、頭の中がぐらりと揺れるような感覚がする。けれど、私は止めない。集中する。
やがて、国王が何事かを叫んでいる声も、大聖堂の祭壇も、鮮血に汚れた水晶の刃も、全く認識出来なくなってきた。血を、失いすぎたのだろうか、と思ったが、おそらく、それは違う。あたりは、真っ白だった。ただ、白い空間に、私は居た。存在している。天地も上下も感覚が無い。或いは、私は立っているのか、落下し続けているのか、浮いているのか、そういう、空間の概念が、まるで消えた場所だった。周りは明るい。だが、足下には、影一つ落ちていない。
『……ここは、境だ』
まろやかな声が、辺り一帯に響いている。境、というのは初めて耳にする概念だった。
「境、とは、一体何なんですか?」
『つまり、私の住む世界と、そなたの住む世界。そして、シンの住む世界、ありとあらゆる世界の境だ』
この場所から。シンの居た世界に行くことが出来るのか。私は、そこを垣間見たいと思う。愛する人の故郷を見てみたいという願望は、誰にも共通するものだろう。
私の前に、何かが出現した。ただ、それが、どういう形状のものなのか、私には感知出来ない。
『シンは、かつてここに来たことがあるのだ』
異世界からこの私の住む世界へ来た時、にだろうか。私の疑問は顔に出ていたのか、それとも、私の心まで読むことが出来るのか。声は、続く。
『シンは、お前に殺されて、元の世界に戻ったのだ。ところが、彼は、膨大な魔法力と引き換えに、もう一度、お前の世界へ行くことを選択した』
「えっ? どういうことですか?」
私には、よく解らない。私が、殺した―――いや、確かに、シンは、言っていた。未来を見てきた。全部知っていると。
『そう。あれは、二度目なのだ。あれの産まれた世界、あれがそなたの世界に呼ばれる少し前まで時間を巻き戻した。今度は、お前と二人で生きるために』
それが、クックッと笑った。空間が、歪む。揺れる。
「……私たちは、出会い、生き残ってあなたの前に現れたという訳ですね」
『なかなか、面白い余興であった』
「それは、ようございました。見物代を頂きたいですね」
『そうだな、少しは、楽しめた。面白かった。魔法力のすべてを失い、地を這いつくばるように、お前の思い人は耐えたのだ。もう一度、お前に出会うために。馬鹿馬鹿しくなるほどに滑稽で、楽しめた。今度は、お前の魔法力と引き換えに、いま少し前まで戻そうか?』
シンは―――私を見捨てて、自分の世界で幸せになれば良かったのだ。
事故に遭う前に戻ったのならば、ユリと幸せになることが出来ただろう。そして、私は、シンを元の世界へ送り戻したあと、自ら命を絶ったはずだ。私のことなど、忘れて、悪い夢を見たとでも思って、元の世界で生きていくことは出来ただろう。
けれど、違った。シンは、私を選んだ。私と幸せになる道を選択して、自ら、この世界へ来たのだ。目頭が、熱くなった。それを知った、私の目の前に居るであろう『存在』が、笑う。
『どれほど自分が愛されているのかも解らぬとは、また、お前も愚かで良いぞ。さあ、お前の望みを言え。何でも叶えてやろう。私は、今、とても機嫌が良い。さあ、言うのだ。そして、私を愉しませておくれ』
哄笑が渦を巻いて空間を満たす。私は、一度、深呼吸をした。
「なんでも、よろしいのですね? ……けれど、私の願いが、あなたに叶えられるものでない場合はどうなりますか?」
『なんという無礼を……そなた。私を見くびるなよ。私は、この地に於いて、万能なのだ。ありとあらゆることが出来る。解るか? この世を生命で溢れさせることも、この世からあらゆる生命を消すことも、私は叶えられるのだ。私に叶えることが出来ない願いなどはないのだ』
「安心致しました。それでは、私のすべての魔力をお持ちくださいませ。その代償に、この世にあるすべての『聖遺物』を二度と使うことが出来ないようにして下さい」
私の目の前の『存在』が、狼狽えたのが解った。
「まさか、出来ないのですか?」
『できる……できるが……しかし、それには、そなたの力だけでは足りぬのだ。ゆえに、叶えることは出来ぬ』
「いいえ、御身は、叶えることが出来ない願いなどはないと仰せでございました」
私は、引かない。私の願いを叶える、と言ったのはこの『存在』だ。神の世界では、嘘を吐くことは出来ないはずだ。だから、この『存在』は私の願いを、叶えなければならないのだ。
『願いを、撤回しろ。その願いを叶えるには、……この世のすべての魔法を奪うほどでなければ……』
思わぬ言葉が出てきた。撤回か、代償を追加するか。その提案を、この『存在』は、うっかり口にしたのだ。
「では、代償を追加致します。この地上に住まい、そしてこれから産まれてくるすべての存在から、ありとあらゆる魔力を奪って下さい。新しい生命が生まれれば、その魔力は御身のものと致します」
『なんだと』
声に驚きが滲んだが、やがて『致し方あるまい。では、そなたをはじめ、この世界からありとあらゆる魔力を奪うこととする』と、その『存在』は了承した。私は、急激に、足下から力が抜けていくような感覚を覚えた。
魔力が、根こそぎ奪われていく。
『そなたらに『聖遺物』を与えて、余興を愉しんでいたが……まあ良い。これはこれで、強大な力は手に入れることが出来た』
「……これからも、御身に対する信仰を人々は続けるでしょう」
『祈られた分くらいは、恩寵とやらを返してやる。しかし……大神官。物語の幕切れは―――私は悲劇を好んでいるのだよ』
悲劇……?
嫌な予感がした。
「お待ちくださいっ! それは……」
『せいぜい、愉しませておくれ』
世界に哄笑が満ち……そして、気がついたときには、大聖堂の祭壇に、倒れていた。私は、自らの血で出来た血だまりの中に横たわっていた。どれほど長い時間、そうしていたのか解らない。大聖堂は、暗かった。窓から漏れてくる月の光だけが光源だった。なぜ、と思ったが、理解出来た。この世界から、すべての魔力が失われたのだ。いま、蝋燭の一つも、ここには備えていない。今まで、我々は、魔力で灯りをともしていたのだ。
私は、身を起こした。
「ルセルジュっ!」
私が起きたのを、シンが察したようで、駆け寄ってくるのが解った。青白い月の光を受けて、シンは私の元へ走ってくる。魔力を失ったと言うことは、『聖遺物』は、力を失ったはずだった。それならば、私の勝ちだ。だが、その言葉を想い出した。
『私は悲劇を好んでいるのだよ』
それは、どういうことだろう。嫌な予感がする。シンが近付いてきて、嬉しいはずなのに。なぜか、不安で胸が潰れそうだった。けれど、私は、声を出すことも出来なかった。
その、瞬間だった。
大聖堂の屋根を突き破って、雷のような、何かがまっすぐ私の目の前に落ちてきたのだった。それは、私にではなく。私の目の前の。シンに……。
「シンっ!!!!」
私は叫ぶ。シンが、私を見て。それから異変に気がついて、一瞬、上を見る。もはや、雷は、シンの頭上に落ちる。避けることは出来ない。目の前で、シンを失わなければならないのか。けれど、私の身体は動かない。動いたとしても、間に合わない。シンに与えた『護符』も、魔力なきこの世界では、もはや意味を成さないものだろう。
「シンっ!!!!」
もう一度、私は叫んだ。絶望感に、目の前が暗くなる。けれど、その瞬間、だった。
シンの身体が、何かに突き飛ばされて、壁の方へ飛んでいく。何が起きたのか、理解出来なかった。次の瞬間、大聖堂に閃光が満ちて、雷が、その人に落ちて、炸裂した!!!
轟音と、ものすごい衝撃波に、目を閉じて腕で顔を覆う。身体が、いくらか衝撃に持って行かれる感覚があった。衝撃の中央に居たのは、テシィラ国の国王だった。
「陛下っ!」
衝撃波が治まって、私はすぐに彼の所へ駆け寄った。
全身は黒焦げで、頭から、血を流していた。身体の、右半分に、雷が直撃したのだろう。そこは、鎧を着ていたというのに、忽然と、消え失せていた。
「なぜ……」
私は、側に寄った。魔力を失った私達は、国王に、治療をすることは出来なかった。いや、私に万全な魔力があったとしても、この状態では、癒やすことは出来ないだろう。
彼は、私に血まみれの左手を伸ばした。私の頬に、触れた。
「泣かないでくれ、ラーメル」
声は、存外しっかりしていた。私は、彼の手に、自分の手を重ねた。唇を、噛みしめる。
「……ラドゥルガに帰ろう。また、昔みたいに、静かに、暮らそう。そして、名前を呼んでくれ」
彼の意識は混濁していて、私と、恋人の区別は付いていないのだろう。シンが、私を見た。私は、それに促されるように、そっと囁く。
「ええ。帰りましょう。必ず、私が、あなたを、ラドゥルガに帰します。ラーディイレヤ」
国王の名前を囁いた瞬間。彼は、柔らかく微笑んだ。そして、そのまま、二度と、言葉を紡ぐことはなかった。
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