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しおりを挟む夜明け近くの空気は、特別に澄み切って、ぐん、と冷える。あれから、ずっと枕に突っ伏して泣いていた私だが、もう、支度をしなければならない。今まで、マーレヤが起こしてくれて、身支度を調えていたが、今は、一人でしている。装束を着たままで寝台に突っ伏してしまったので、あちこち、皺になっている。火熨斗を掛けなければならないだろうが、それは、誰に言えばいいのか、解らなくなる。新しい、側仕えものを置いた方が良いのは理解しているが、なんとなく、気が引けていた。
ともかく、水でも浴びてこなければならない。私は、寝台から起き上がって鏡をのぞきこんだ。酷い顔だった。目は泣きはらして真っ赤だったし、目の下には隈ができている。髪はぼさぼさだったし、雰囲気はどんよりと曇っている。まだ、各国の外交官たちが神殿にいる中、こんな、無様な姿をさらすわけには行かない。私は、呼吸を整えた。吸う。吐く。それを繰り返す。明示的にそれを繰り返すだけで、かなり、気分は落ち着くものだ。シンの言葉が、まだ、頭の中を巡っている。あれが、夢だったら良かったのに、けれど、夢ではない。
『あなたに、愛は捧げない』
その言葉は永遠に抜けない氷の刃になって、私の胸に深々と突き刺さっている。では、今までくれた言葉は何だったのか。あの眼差しは何だったのか。愛おしそうに抱き寄せてくれたのも、二人だけの時間に囁かれた甘い愛のささやきも、すべて、なんだったのか。頭の中に、『なぜ』ばかりが渦巻いていく。
身体を求めるほどには親密で、愛を捧げ合うような仲ではない。
そういうことなのか。そうい関係性が、シンの世界にはあったのか。それとも、私の世界でも当たり前のようにそういうことがあって、私だけが解らないだけなのか。それはわからないけれど、自分の気持ちだけで考えるのならば、私は、なにも変わっていないと言うことに気がついた。
シンが、私に愛を捧げてくれなくても、私は、彼を愛している。その気持ちは、変わらない。一晩中泣いて、泣いても、変わらなかった。護符を捧げたように、私は、彼の為にならば、命を捨てても惜しくはない。それが、彼にとっては重たいのかも知れないが。私は、それでも、彼が好きだ。
同じ気持ちでなかっただけ。私は、まだ、彼の側で、彼を愛していきたい。
それだけ、理解出来たら、気分は落ち着いてきた。
水を使って身を清めた。装束の心配をしていたが、裸のままで執務室に戻ると、スティラが装束を持って控えていた。
「おや、どうしたのですか?」
「おはようございます、大神官様。お召し物をお持ち致しました」
そう言いながら、スティラが私の身支度を手伝ってくれた。身体を拭いて、後ろに回り、装束を着せてくれる段になって、私の顔も見ずに「シン様から、大神官様に装束をお持ちして、身支度を手伝うよう、頼まれました」と言う。それだけを聞いたとき、スティラは恋人同士が夜を過ごした、後の想像をしたのではないだろうか。
「シンが」
「はい。……その、何があったかは、詳しくはお伺いしません。ただ、私は……、大神官様が……、辛い思いをするのであれば、シンさまを許せません。私には、大神官様の幸せが一番なのです」
スティラの声に、悔しそうな響きが滲む。私の、心を心配してくれるのだ。それが、私には、ありがたい。誰かに、心を向けて貰えることは、幸福なことなのだ。私は、それを、最近知った。当たり前のことなど一つも無いのに、すべて当たり前のように受け取るだけ受け取っていた。それを、教えてくれたのは、シンだ。
「スティラ。あなたに感謝します」
「えっ?」
「いつも、私のことを考えてくれるでしょう? ……本当に、ありがたく思っているんです。そのまま、聞いて下さい。あの護符を、私はシンに捧げましたが、シンは、私には、愛を捧げないと、そう、言いました」
スティラが息を飲むのが解った。私の、装束の端を、掴んでいる。後ろに、引っ張られる感覚があった。
「なぜです」
「理由はわかりません。私と、彼は、生まれた世界が違います。感覚が違うことは沢山あるでしょう。……そのせいなのかもしれませんし……いえ、推測は止めます。昨日は、一晩中泣いていました。今は落ち着きましたが」
「……なぜ……、そんな、酷い……。シン様は……っ、大神官様をもてあそんでいるとしか……あれほど、仲睦まじいお二人でしたのに!?」
もてあそぶ、という言葉の持つ、強く、酷い響きに、胸が痛む。私は、もてあそばれていたのか。それならば、そちらの方が、よほど、納得出来るが―――そんなことを、シンがするはずもないと言うことも、私は知っている。
「理由はあるのでしょう。けれど、彼は私にそれを語りませんでした」
「それで、よろしいのですか?」
スティラが、問う。
「……私が、彼を愛していることは変わりありません。あなたにだけは、言っておかなければならないと思って、お伝えしました」
「承知致しましたが……」
スティラがの語尾に、悔しさが滲む。こういうとき、我がことのように心配してくれる人が居るというのが、私にはありがたい。
「スティラ。……シンに対しては、今までと変わらずに接して下さい。そして、テシィラ国と、式典の件が片付いたら、もういちど、彼と話してみます。あなたが思うより、シンが思うより、私は、諦めが悪いのです」
「畏まりました」
歯切れる悪い語尾を残しつつ、スティラは、私の身支度を手伝ってくれる。その、片眼鏡の奥が濡れているのに気がついて、私は、「私の代わりに、あなたが泣かなくても良いのに」と言うと、スティラは「失礼しました」とだけ呟いて、乱暴に目を拭った。
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