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『最初の頃』という言葉の意味を、私は探り……そして、答えに行き着いたとき、彼の苦労の一つも、私が知ろうとしなかったことを知った。

 客を取り始めて最初の頃。

 彼は、客に身体を差し出す間、ずっと、暗記の文言などを思い浮かべて、耐えていたのだろう。嫌悪感に耐えていたのか、それとも、屈辱に耐えていたのか、苦痛に耐えていたのか、私には計り知れない。ただ、彼の言う『職業に貴賤はない』という言葉だけを、その額面だけを素直に受け取っていただけだ。

 媚薬の効果は、夜明けを過ぎたあたりには収まった。

 私は、あの男の臭いが染みついた服を脱ぎ捨て、寝台へ潜りこむ。シンは、壁を背に眠っていたようだった。シンにも、寝台に上がるように言えば良かったが、寝ているところを邪魔はしたくなくて、声は掛けなかった。





「大神官様……大神官様」

 シンの声に起こされて、私は眠い目を擦りながら、起き出した。日が高い。太陽の位置を考えると、正午くらいだろう。

「わっ……っ!! ちょっとあんた、なんて格好で……」

 シンが急に声を上げて、部屋の片隅に飛んでいく。

「えっ?」

「ちょっと。服を来て下さいよっ!! 目に毒ですっ!!」

 服。私は、そういえば、あの男の残り香が不愉快で、服を脱ぎ捨てたのだった。床を見れば、大神官としての礼装である、薄紫の長衣がおちているが、とても、再び袖を通す気にはならない。

「では、マーレヤに、なにか服を持ってくるように……」

 いいつけて欲しい、とシンに願おうとしたその瞬間だった。

「大神官様、お休みの所申し訳ありません!」

 扉が勢いよく開いたのだった。そして、私は、生まれたときのまま……つまり一糸まとわぬ姿のまま、副神官長のスティラと対峙することになったのだった。

「あっ……」

 スティラが、小さく呟いてから、片眼鏡のズレを直す。私は、気まずい雰囲気のまま、なにも言えずにただ、寝台の上に座っている。床には、脱ぎ捨てられた、礼装。部屋の隅で顔を真っ赤にして頭を抱えているシン。

「まず、簡単に、状況を確認致します」

 こほん、とスティラは咳払いを一つして、そして、私に向き直った。私は丸裸のまま、間の抜けた格好だったので、仕方がなく、毛布だけ巻き付けておいた。その姿を見て、何人かの神官とシンが、おおいに咳き込んでいたのだが、それは気にしないでおくことにした。

「まず、テシィラ国の国王陛下は? 如何されましたか? 離宮においでになりませんでしたが」

「結果だけを言うと、お帰りになった」

「経緯をお伺いします」

「……温室で、口論になった。その上、あの男に媚薬を飲まされ、その後、あの男が勝手に帰っていった」

 嘘ではない。

「大神官様の色仕掛けが効かなかったと?」

「色仕掛けっ?」

 シンが目の色を変えて叫び、私の側に駆け寄ってくる。

「だから、あんた、あんなに……移り香が……」

「抱きしめられましたが、その程度です。私は、まだ、誰にも肌を許しては居ません」

 私の言葉を聞いたスティラが「あら、そうなのですか?」と不思議そうな顔をして問う。視線が、シンの方を向いていた。それは、酷い誤解だろう。

「シンは、私を気遣ってくれた。だから、一人で、部屋の片隅で休んでいたのだ……」

「それより、あんた、色仕掛けって何だよ!!」

 色めき立つシンに「大神官様がご説明しづらいと思いますので、私から説明を致します。まず、大神官様は、普段ならば、あの国王はけんもほろろに追い返しますが……、今回は、シン様に魔の手が及ばぬように、とあの国王に色仕掛けを」と、実に端的に説明をした。

 シンが、私を睨む。私はたじろいで、寝台の上で後ずさった。

「俺を、こんな所に閉じ込めて、自分は、男相手に色仕掛けって、正気かよ、あんた!」

 スティラは、シンの言葉に全面的に同意しているらしく、うんうんと頷いている。マーレヤも、シンの味方のようだった。

「あの男が、私に興味があるのは解っていましたから……。気を引くためです。別に、本当に身体を差し出したりするわけではありません」

「でも、媚薬は飲まされた。今回は、単に、運が良かったから、助かっただけじゃ……って、あんた、それ、首っ!」

 シンが私の首を指さしている。そういえば、あの男に、首を絞められたのを思い出した。跡が残っているのだろうか。シンの反応を見ている限り、そうなのだと思う。スティラとマーレヤが動く。医師の手配を始めたようだった。

「首を絞められて、媚薬を飲まされてって……しかも、その、色仕掛けが、……俺のためだとか……」

 シンの声が震えている。

「私が、神殿の為に判断したことです」

「それで? 実際、その、なんとかっていう男に、身体まで捧げる気だったのかよっ!」

 最悪の場合は、それも辞さないとは思っていた。どこかで、逃げられるだろうと甘く目論んでいたのも事実だ。

「それは……」

「あんたは馬鹿かっ!」

 シンはそう叫ぶと、私の顔を思い切り殴りつけた。無防備なところを殴られて、思わず、寝台に突っ伏してしまう。

「だって、それが、あの時点で、最善手だったでしょう? ……あなたを、あの国に渡すわけには行かなかったのですから。あなたの存在も、できるだけ隠しておきたかった。あの男は、厄介ですから……」

 あの、猛禽類のような眼差しを思い出して、身震いがした。

「最善……ね」

 冷えた眼差しで、シンが私を見下す。

「えっ?」

「俺のためとかに、動くなよ。あんたが、自分の身体を差し出したりしたら、俺は、嫌だよ。……なんで、あんたは、そんなことがわかんないんだろう。マーレヤだって、スティラだって、俺と同じことを言うだろうよ。あんた、政治的な話とか、そういうの抜きで、あんたの為に、俺が、その、気に入らないやつに身体を差し出したら、どう思うんだよ」

 私の為に、シンが、あの男の慰み者になる―――と思ったら、目の前が暗くなった。なんとか、寝具を掴んで、「嫌です」とだけ、言うのが精一杯だった。あの男だけでなく、誰の慰み者にもなって欲しくなかった。だって、あなたは、本当は、身体を売る仕事を、是としていなかったはずだから。

「……そこまでとりあえず解ったなら、まずは良いけどさ……、無茶は止めてくれよ。あと、ちゃんと、自分のことを大事にしろ。自分と対話しろ。何事もそこからだよ」

「あなたは、難しいことばかり言う」

「そっか? 当たり前のことだろ? 俺って、なんか、変なこととか妙なこと言ってるかな、スティラ。それにマルロー」

 マルローと言うのは誰だったか。確か、司書を兼ねた神官だった。ここに、彼も駆けつけたらしい。スティラ。マルロー。マーレヤ……シンは、気軽に彼らの名前を呼ぶ。けれど、私の名前を、知ろうとはしない。

「大神官様は、本当に、ご自分を大事になさった方が良いと思います」

「ええ。今回の件も、神官たちが知れば……テシィラ国に戦争を仕掛けかねません。ただでさえ、あの方の振る舞いは、本当に無礼なものでした……。ここぞとばかりに、大神官様の肩を抱いたり、腰を抱いたり……」

 スティラの背後に、どす黒い陽炎のような魔力が立ち上っている。それを見なかったことにして、私は、シンに視線を移した。シンは、怒っているように見えた。頼んでも居ないことを、自分のせい、などと言われたことが心外なのだとは思った。私は、別に、それを、彼に押しつけるつもりはなかった。私が、そう、したくてしただけだ。

 自分を大事にしろ……というのは、私には解らない。いや、もしかしたら、私は、シンがあの男に酷い目に遭わされるのを見たくないから、ああいうことをしたのだ。ならば、私は、自分自身の気持ちに沿う行動をしたと言える。シンに、非難される謂れはないような気がした。

「二度と……こういうことはしないでくれ」

 シンが、絞り出すような声で言う。私は、「約束は出来ない」と正直に答えた。彼に対して誠実であること。これ以外に、私は彼に報いる方法を知らない。

「なんでっ?」

「私は、あなたが、あの男に酷い目に遭わされるくらいならば、私がそうなった方が良いと、心から思った。……その為に行動したことならば、私の中では、私を蔑ろにした行動とは言えないと思う」

 シンが、言葉を飲み込んだのがわかった。何かを言いかけて、口を開き、また、真一文字に閉じられた。シンは、納得していないようだったが、私の気持ちは、清々しい。ただ、一つだけ、引っかかっていたのは。シンが、私を、他のものたちのように、名前で呼ばないことだった。


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