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第一章 宴のあと
12.恋に狂えば
しおりを挟む顔を上げることも出来ずにひれ伏したままでいると、真雪の視界に、滑らかなつま先が飛び込んできた。
「顔を上げよ」
端的な命令に、真雪は殆ど何も考えることなく反射的に、「はいっ」と顔を上げていた。
真雪の目の前に、主上が立っている。
花の香りは、よりいっそう強くなって、頭の芯が、くらくらして、視界が揺れる。
「名は?」
まさか、自分の名前を問われているとは思えず、真雪がぼんやりとしていると、関白が小さく「主上は、お前の名を、知りたがっておいでだ。お応えしなさい」と言う。
「藤原真雪と、申します……」
「ふむ。出仕はしておらなんだな。……年は、幾つになる?」
「十九に……」
「十九か。若いのぅ……舎人にも足りぬな。そなた、関白に生涯仕えるつもりか? どうだ、私に直接仕えぬか?」
思わぬ言葉を掛けられて、それが、冗談なのか、全く解らない。
「わ、わた、わた、しは……」
おろおろとしている真雪の横から、「お戯れを」と鋭く冷たい声が飛んだ。関白のものであった。
「なんだ、戯れ言も通じぬなど、つまらぬことだ」
「他のことであれば構いませんが、これを手放す気はないのですよ。私は」
「ほう、もし、私が……この者を本気で気に入っているのだとしたら、どうする?」
実に愉快そうに、主上は微笑む。真雪は生きた心地がしなかった。二人のやりとりが、一体、どこまで本気なのか、全く判別が付かない。
「主上。もし、主上がこの者を無理にでもさらおうとするなら、私は愛宕へ参りますよ」
冷水を頭から掛けられたように、ぞっ、とした。それは、政局が、変わる。
―――まさか……。
関白の言葉を、本気だとは思わないが……だが、ただの戯れ言とも思えない、真剣さがあった。
しばし、対峙していた関白と主上だったが、やがて、主上がくすくすと笑い始める。
「なるほど。それは困るなぁ……少なくとも、私は、そなたを手放すことは出来ぬな。関白。……今はまだ。しかし、そなたも、恋に狂えば、愛宕へ走るか。なるほど、それも、面白いかも知れないな」
「戯れが過ぎますよ、主上。……そろそろ、あちらがおいでになるのでは?」
関白が、真雪の手を引く。主上は、その様子を見て、声を立てて笑っている。
「……あの、殿下、放して……ください」
「いや、構わぬ。……あの方が、たちの悪いことを仰せになるから、こうして捕まえておかねば、私が安心出来ない」
関白は、ぎゅっと手を握る。その手が、冷たく汗ばんでいる。顔も、いつもよりもこわばっていた。
真雪は、―――ものの数にも入らないような、取るに足らぬ存在だ。
関白や主上に望まれれば、それを僥倖として一生の光栄とするものだろう。真雪の身体だけではなく、命さえ、意のままに弄ぶことが出来る方たちである。
そのような雲の上の方々が、真雪を巡って、なにかやりとりをすることがおかしいのだ。
真雪が不思議がっていると、あたりに、ふ、と黒方が薫った。沈香を感じた。沈香だけではない。丁子、白檀、甲香、麝香、薫陸香……そこに、なにか、別の薫りが潜んでいる……。
どきり、と真雪の胸が跳ねた。
―――この薫りは……。
あの、朧月夜の方の薫りではなかろうか……。
胸の鼓動が、早くなる。息が、苦しい。関白の顔を確かめたかったが、見ることは出来なかった。ただ、その薫りのほうへ、顔をやることも出来ずに、石になったように、身体が動かない。
「皆様、お早かったのですね。私は、田舎から出て参りましたので、遅れてしまいました」
声は、柔らかくて、甘い。聞き覚えがあった。あの夜に聞いたのより、大分、艶っぽい響きはなかったものの間違いない。
どなただろう。
ここへ来ると言うことは、かなり身分の高い方だ。そして、このように気安げな物言いを許されている方……。
思い当たる名前はただ一つだったが、なんとなく、それを否定したかった。
「おや、遅かったね。兵部卿の宮……我が弟は、最近見かけないけれど、息災でいるのかな?」
主上の言葉を聞いて、真雪は、全身から血の気が引いて行くような、緩やかな眩暈を感じた。
間違いない。
この香は、あの晩―――真雪が、戯れに身を委ねてしまった相手の薫りだった。
兵部卿の宮。
京きっての色好み。あちこちで浮名を流す、美麗極まりない貴公子。
そして。
―――主、関白の政敵と言える方だった。
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