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第一章 宴のあと
09.行く末の事も
しおりを挟む弱音を、晒す方ではなかった……、と真雪は思う。
自分の邸内では、余計に、そういう心で居たのかも知れない。
「殿下の篳篥も、私は、好きですが……」
慰めにもならないことを口にしただろうか。そうは思ったが、うまい言葉も出てこなかった。
「琵琶ほどには出来ぬからね。だがそうだな……そなたが好いているのであれば、悪い気はしないな」
関白の顔が少し明るくなったので、真雪はほっとした。
しか、篳篥の音などで、関白を笑おうなどという不届きなものが、この場所にいるということが、恐ろしい。位人臣を極めたはずの関白である。あざ笑おうものならば、首が飛んでもおかしなことではないだろうに。
「あの」
「なんだ?」
「今日の、管絃というのは……どういう方がおいでになるのでしょう?」
「ああ……そうだな、主上がおいでになるよ。琵琶は、主上の楽器だからね」
「けれど、主上は、殿下と仲が良かったと思っていましたが……」
篳篥の音を笑うような関係ではないだろう、と思うが、真雪にはよく解らない。
「ああ、他にも、宿直の方が何人か居てね。兵部卿の宮などおいでになるものだから」
「兵部卿の宮様……」
兵部省の長官が兵部卿と呼ばれる方になる。官職としてはさほど高い身分ではないが、今の兵部卿の宮と呼ばれる方は、先々帝の皇子であったはずだ。この官職は、慣例で皇族が就任した場合は『兵部卿の宮』と呼ばれる。
そして、現在の兵部卿の宮といえば、京《みやこ》で一番の美男子ということでも評判だった。色好みの方で、あちこちで浮名を流しているとも聞くし、京で名の知れた美女ならば、この兵部卿の宮と付き合いがあるというほど、あなたこなたで浮名を流していることでも有名な方だった。
「この方が、愛宕の方の側近だ」
あっ、と真雪は声を上げてしまった。今上帝の腹違いの弟にして、先帝が格別な寵愛を寄せた、愛宕の方とよばれる宮の、側近といえば、関白とは敵対する関係だ。
「そういう方であっても、殿下を笑うような意地の悪いことをなさるのは……私は、好きません」
嫌悪感に、つい口調が刺々しくなる。それに和んだのか、関白は、ふ、と笑った。
「まあ、私の失態でも肴にして、愛宕で宴席でも持つのだろうよ……なれど、気分の良いものではないね」
当たり前だろう。真雪などは、心底腹立たしい気持ちになっている。
「まあ……主上があちらで酒の肴になるよりは、良いのだから、よしとするか」
「わかりましたけれど……存外、その兵部卿の宮様というのは、悪い方なのですね。それより、殿下……、篳篥ではなく、龍笛であれば如何でしょう」
関白の龍笛の腕前は、琵琶に勝るとも劣らないものである。
「まあ、そなたも、今日はここへ泊まって行きなさい。……兵部卿の宮様は、当代きっての龍笛の名手なのだよ。兵部卿の宮様の父君であらせられる、宇治の帝から、秘蔵の笛を賜ったほどだ」
琵琶の得意な主上。そして龍笛の得意な兵部卿の宮とくれば、その二人よりは身分の劣る関白は、別の楽器を選ばなければならない。
「龍笛の名手……」
龍笛という楽器は、小さいので、懐に忍ばせることが出来る。その上、単独で演奏してもそれなりに様になる。なので、あなたこなたの女性の局(部屋)の前にいき、龍笛をさらりと奏でて、口説くのだろうと、なんとなく真雪は直感した。
「まあ、私も、刻限までは、少々悪あがきでもしてみるか」
関白は、腹を決めたようで、篳篥の練習をし始めた。人の祈りの声―――に例えられる篳篥だが、関白の篳篥は、本人のこえよりも、ずっと暖かなものに感じた。
真雪が聞く分には、関白の篳篥の腕前も、琵琶に遜色ないほどだと思うが、名人にしか解らない域で、不満があるのだろう。少し練習しては、眉を顰めて溜息を漏らすというのを繰り返す姿は、存外可愛らしく思える。
「お前もなかなか、可愛げがなくなったものだね。私が苦労をしているのをみて、笑うだなんて」
少し拗ねたようにいう関白の言い方が、また。子供っぽくて可愛い。
「この世のことなら何でも意のままになる方が、こんな可愛らしいことをおっしゃるのですから、私も楽しくなります」
真雪の声は弾んでいる。
「可愛らしいとは……」
苦虫を噛み潰したような顔をしながらいう関白に、真雪は「他所ではお見せにならない姿でしょうから、私は嬉しくおもいますが」と付け加えると、関白の表情がとたんに和らぐ。
「おや、お前も可愛いことを言うね」
「そうでしょうか?」
「ああ、そうだとも。まあ、今宵の管絃は、なんとか乗り切れそうだ。お前もついておいで」
「わ、私もですか?」
「ああ、そうだ。そろそろ、お前の行く末の事も考えねばならぬ頃合いだ。出仕するにしてもそうでなくとも、見聞きしておいたほうが良いことはたくさんあるだろう」
出仕、行く末……という言葉に、真雪は一瞬、怯んでしまう。今、家は真雪の父親が守っているが、その役割が真雪に回ってくるということだ。
関白との付き合い方も変わるだろうし、身の回りのことも考えねばならなくなるだろう。家を継ぐ、そして関白に生涯仕え、関白の家司として働かなければならない。
はたして、そんな役目が務まるのか、真雪には、まるで想像が付かない。それでも、父の子供の中で、大人になるまで育った男は、真雪だけだった。いずれ、その役割は、真雪のものとなるだろう。
管絃は楽しみだったが、将来のことを思えば、気鬱になる。溜息を堪えながら、真雪は「ありがとうございます」とだけ答えておいた。
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