上 下
10 / 13
第一章 宴のあと

09.行く末の事も

しおりを挟む

 弱音を、晒す方ではなかった……、と真雪は思う。

 自分の邸内では、余計に、そういう心で居たのかも知れない。

「殿下の篳篥ひちりきも、私は、好きですが……」

 慰めにもならないことを口にしただろうか。そうは思ったが、うまい言葉も出てこなかった。

「琵琶ほどには出来ぬからね。だがそうだな……そなたが好いているのであれば、悪い気はしないな」

 関白の顔が少し明るくなったので、真雪はほっとした。

 しか、篳篥の音などで、関白を笑おうなどという不届きなものが、この場所にいるということが、恐ろしい。位人臣くらいじんしんを極めたはずの関白である。あざ笑おうものならば、首が飛んでもおかしなことではないだろうに。

「あの」

「なんだ?」

「今日の、管絃というのは……どういう方がおいでになるのでしょう?」

「ああ……そうだな、主上おかみがおいでになるよ。琵琶は、主上の楽器だからね」

「けれど、主上は、殿下と仲が良かったと思っていましたが……」

 篳篥の音を笑うような関係ではないだろう、と思うが、真雪にはよく解らない。

「ああ、他にも、宿直とのいの方が何人か居てね。兵部卿ひょうぶきょうの宮などおいでになるものだから」

「兵部卿の宮様……」

 兵部省の長官が兵部卿と呼ばれる方になる。官職としてはさほど高い身分ではないが、今の兵部卿の宮と呼ばれる方は、先々帝の皇子であったはずだ。この官職は、慣例で皇族が就任した場合は『兵部卿の宮』と呼ばれる。

 そして、現在の兵部卿の宮といえば、京《みやこ》で一番の美男子ということでも評判だった。色好みの方で、あちこちで浮名を流しているとも聞くし、京で名の知れた美女ならば、この兵部卿の宮と付き合いがあるというほど、あなたこなたで浮名を流していることでも有名な方だった。

「この方が、愛宕あたごの方の側近だ」

 あっ、と真雪は声を上げてしまった。今上帝の腹違いの弟にして、先帝が格別な寵愛を寄せた、愛宕の方とよばれる宮の、側近といえば、関白とは敵対する関係だ。

「そういう方であっても、殿下を笑うような意地の悪いことをなさるのは……私は、好きません」

 嫌悪感に、つい口調が刺々しくなる。それに和んだのか、関白は、ふ、と笑った。

「まあ、私の失態でもさかなにして、愛宕で宴席でも持つのだろうよ……なれど、気分の良いものではないね」

 当たり前だろう。真雪などは、心底腹立たしい気持ちになっている。

「まあ……主上があちらで酒の肴になるよりは、良いのだから、よしとするか」

「わかりましたけれど……存外、その兵部卿の宮様というのは、悪い方なのですね。それより、殿下……、篳篥ではなく、龍笛であれば如何でしょう」

 関白の龍笛の腕前は、琵琶に勝るとも劣らないものである。

「まあ、そなたも、今日はここへ泊まって行きなさい。……兵部卿の宮様は、当代きっての龍笛の名手なのだよ。兵部卿の宮様の父君であらせられる、宇治の帝から、秘蔵の笛を賜ったほどだ」

 琵琶の得意な主上。そして龍笛の得意な兵部卿の宮とくれば、その二人よりは身分の劣る関白は、別の楽器を選ばなければならない。

「龍笛の名手……」

 龍笛という楽器は、小さいので、懐に忍ばせることが出来る。その上、単独で演奏してもそれなりに様になる。なので、あなたこなたの女性のつぼね(部屋)の前にいき、龍笛をさらりと奏でて、口説くのだろうと、なんとなく真雪は直感した。

「まあ、私も、刻限までは、少々悪あがきでもしてみるか」

 関白は、腹を決めたようで、篳篥の練習をし始めた。人の祈りの声―――に例えられる篳篥だが、関白の篳篥は、本人のこえよりも、ずっと暖かなものに感じた。





 真雪が聞く分には、関白の篳篥の腕前も、琵琶に遜色ないほどだと思うが、名人にしか解らない域で、不満があるのだろう。少し練習しては、眉を顰めて溜息を漏らすというのを繰り返す姿は、存外可愛らしく思える。

「お前もなかなか、可愛げがなくなったものだね。私が苦労をしているのをみて、笑うだなんて」

 少し拗ねたようにいう関白の言い方が、また。子供っぽくて可愛い。

「この世のことなら何でも意のままになる方が、こんな可愛らしいことをおっしゃるのですから、私も楽しくなります」

 真雪の声は弾んでいる。

「可愛らしいとは……」

 苦虫を噛み潰したような顔をしながらいう関白に、真雪は「他所ではお見せにならない姿でしょうから、私は嬉しくおもいますが」と付け加えると、関白の表情がとたんに和らぐ。

「おや、お前も可愛いことを言うね」

「そうでしょうか?」

「ああ、そうだとも。まあ、今宵の管絃は、なんとか乗り切れそうだ。お前もついておいで」

「わ、私もですか?」

「ああ、そうだ。そろそろ、お前の行く末の事も考えねばならぬ頃合いだ。出仕するにしてもそうでなくとも、見聞きしておいたほうが良いことはたくさんあるだろう」

 出仕、行く末……という言葉に、真雪は一瞬、怯んでしまう。今、家は真雪の父親が守っているが、その役割が真雪に回ってくるということだ。

 関白との付き合い方も変わるだろうし、身の回りのことも考えねばならなくなるだろう。家を継ぐ、そして関白に生涯仕え、関白の家司として働かなければならない。

 はたして、そんな役目が務まるのか、真雪には、まるで想像が付かない。それでも、父の子供の中で、大人になるまで育った男は、真雪だけだった。いずれ、その役割は、真雪のものとなるだろう。

 管絃は楽しみだったが、将来のことを思えば、気鬱になる。溜息を堪えながら、真雪は「ありがとうございます」とだけ答えておいた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

そばにいてほしい。

15
BL
僕の恋人には、幼馴染がいる。 そんな幼馴染が彼はよっぽど大切らしい。 ──だけど、今日だけは僕のそばにいて欲しかった。 幼馴染を優先する攻め×口に出せない受け 安心してください、ハピエンです。

その部屋に残るのは、甘い香りだけ。

ロウバイ
BL
愛を思い出した攻めと愛を諦めた受けです。 同じ大学に通う、ひょんなことから言葉を交わすようになったハジメとシュウ。 仲はどんどん深まり、シュウからの告白を皮切りに同棲するほどにまで関係は進展するが、男女の恋愛とは違い明確な「ゴール」のない二人の関係は、失速していく。 一人家で二人の関係を見つめ悩み続けるシュウとは対照的に、ハジメは毎晩夜の街に出かけ二人の関係から目を背けてしまう…。

美形な幼馴染のヤンデレ過ぎる執着愛

月夜の晩に
BL
愛が過ぎてヤンデレになった攻めくんの話。 ※ホラーです

火傷の跡と見えない孤独

リコ井
BL
顔に火傷の跡があるユナは人目を避けて、山奥でひとり暮らしていた。ある日、崖下で遭難者のヤナギを見つける。ヤナギは怪我のショックで一時的に目が見なくなっていた。ユナはヤナギを献身的に看病するが、二人の距離が近づくにつれ、もしヤナギが目が見えるようになり顔の火傷の跡を忌み嫌われたらどうしようとユナは怯えていた。

美人に告白されたがまたいつもの嫌がらせかと思ったので適当にOKした

亜桜黄身
BL
俺の学校では俺に付き合ってほしいと言う罰ゲームが流行ってる。 カースト底辺の卑屈くんがカースト頂点の強気ド美人敬語攻めと付き合う話。 (悪役モブ♀が出てきます) (他サイトに2021年〜掲載済)

だから愛した

佐治尚実
BL
大学生の礼嗣は恋人の由比に嫉妬させようと、せっせと飲み会に顔を出す毎日を送っている。浮気ではなく社交と言いつくろい、今日も一杯の酒で時間を潰す。帰り道に、礼嗣と隣り合わせた女性が声をかけてきて……。 ※がっつり女性が出てきます。 浮気性の攻めが飲み会で隣り合わせた女性に説教されて受けの元に戻る話です。 今作は個人サイト、各投稿サイトにて掲載しています。

振られた腹いせに別の男と付き合ったらそいつに本気になってしまった話

雨宮里玖
BL
「好きな人が出来たから別れたい」と恋人の翔に突然言われてしまった諒平。  諒平は別れたくないと引き止めようとするが翔は諒平に最初で最後のキスをした後、去ってしまった。  実は翔には諒平に隠している事実があり——。 諒平(20)攻め。大学生。 翔(20) 受け。大学生。 慶介(21)翔と同じサークルの友人。

別れの夜に

大島Q太
BL
不義理な恋人を待つことに疲れた青年が、その恋人との別れを決意する。しかし、その別れは思わぬ方向へ。

処理中です...