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第一章 宴のあと

04.白露の君

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 関白が、主上に文を書くと決めてから、半刻ほどは経っただろう。その為に、使いの支度まで済ませていたものの、関白は、文机の前に座ったまま、じっと、紙を見つめて思案している。

「真雪や」

 関白に呼ばれて、「はいっ!」と答えたものの、急に声を掛けられて、声がひっくり返ってしまった。恥ずかしいことこの上ない。関白も、身を少しだけ曲げて笑っている。

 それをみて、良かった、と思ってしまった。

 先ほどまで、紙に向かっている間、真雪は、関白の顔を見ていないが、おそらく、無表情のままで、眉間に深く縦皺を浮かべて、じっと、身じろぎもせずに居たのだろう。そういう思案をしているとき、この関白は、大抵心を閉ざして、一人になりたがる。

 いつでも誰かが側に居るような暮らしである関白にとって、一人になる時間というのも必要な時間なのだろう。

「そなたならば、主上の無聊をお慰めするのに、何をしてみる?」

「わ、私が、ですか?」

「ああ……妙案が一つも思い浮かばない……なにか、胸が躍るような慶事でもあれば良いものだが、あいにくと、何も思いつかぬ」

 困ったことだ、と関白は深々と溜息を吐く。

「慶事、でございますか?」

「ああ。とびきりの慶事などがあれば。例えば……瑞鳥でも飛んでいれば良いのだが、さすがに、私でも鳳凰を呼びつけることなどできぬからな」

「一度鳳凰を、見てみたいものですけれど……どこにいるか解らぬものを呼びつけるのは無理ですね」

 関白にもできないことがあるというのは、少し、面白ろかった。

「それほど、主上の御心に適うものはないのだよ」

 深々と、関白が、溜息を吐く。

「ああ、それならば、宴は如何でしょう? 宮中ではなく、別のところで宴を行うとか……」

「ふ……む。宮中でなければ、臣邸行幸《しんていぎょうこう》となるか、まあ、それならば」

 こちらにも利はあるな、と関白が小さく呟く。

「利、でございますか?」

 どういうことか解らずに真雪が問うと、関白は、ふむ、と思案してから答えた。

「臣邸に主上の行幸みゆきがあれば、主上からの格別のお引き立てがあることの明かしともなる……中宮様の御為《おんため》にもなるだろうし、我が家にとっても良いことばかりだ。とくに、この所、愛宕《あたご》のほうに、どうにも人が集まっているだとか、嫌な話も聞くものだからな」

 愛宕、と言われて真雪は、その人に思いを馳せる。現在、愛宕、と呼ばれる方はただ一人で、主上の弟宮であった。先帝が一心に愛された方で、主上とは皇位を争っていたが後ろ盾が弱く、皇位を逃した。当今《とうきん》は、関白の一族の後ろ盾を得て高御座《たかみくら》に上られた経緯もあって、関白の家を無碍にはできない。臣邸行幸というのも、主上との親密さを示すには適しているだろう。

「ふむ、ちょうど、愛宕の方で、そろそろ産気づきそうな方がおられてな。であれば、産養《うぶやしない》に合わせて宴を張るか」

 くっくっ、と関白は喉を鳴らして笑う。

 産養は子の誕生を祝するために催される。親戚などが集まり、管絃を伴った盛大な宴が張られるのだが、その日程にわざわざ合わせるという。

 ――つまり、愛宕のかたを取るか、こちらをとるか、選ばせるということだ……。

 そのくらいのことは、真雪にも理解出来た。帝にとっても実弟の子であるから、親戚になるだろう。だが、親戚の誕生など祝うことはできないということだろう。

 身分の高い方たちの、殺伐とした関係を思うだけで、憂鬱な気分になる。

「あちらに御子が産まれれば、報せが来るだろう。おそらく十日ほどで産まれるだろうからな。こちらの宴も、そのくらいの時期になろうな。主上も、楽しまれるだろう」

 弟に慶事があったことを喜ぶより、それを差し置いて自身の宴に集う貴族たちが居並ぶのが楽しいのだ。その、薄暗い悦びに、真雪は多少の嫌悪感があった。眉を寄せそうになって、気を引き締める。

 真雪が感じたささやかな不快感などは、表に出したところで一つも良いことはない。

「宴の支度をしなければなりませんね」

 やんわりと微笑んで、真雪は関白に言う。

「そうだな。それはそうと、次の宴では、そなたはずっとそばにおるのだぞ? よいな? 昨日のように、抜け出してはならぬぞ」

 そうと決まれば、美々しい装いなど用意しようか、などと楽しげに思案する主を見て、嬉しさはあったが、幾らかの息苦しさを、真雪は感じていた。




 宴は社交の場であると同時に、政《まつりごと》の場でもある。

 それは理解していたつもりだったが、体感出来ていなかった甘さを噛みしめながら、真雪は家へ戻る。当主である父は、出仕していて、帰りは午《ひる》過ぎになるだろう。

 関白と、真雪の家は、同じ藤原の一門ではあったが、関白の家司《けいし》という身分に甘んじている。関白の一族は、何人もの国母を排出した名門で、朝廷の中、うまくやり過ごすためには、関白の家の家来になっているほかなかった。

「あら、若様。お帰りになったのでしたら、姫様がお探しでしたよ」

 姫様、と、この邸で呼ばれるのは、真雪の妹だけだ。妹は、関白の妾《めかけ》となっていた。家の中では、白露《しらつゆ》の君と呼んでいる。家の結びつきを深めるには必要なことだったが、兄妹で関白の寝所に仕えているという、恥ずかしさもあって、あまり近付きたくはない方だった。

「白露が?」

「ええ、ええ。関白様のお邸で催された宴についてお伺いしたいのだとか」

 白露付の老女の言葉をきいて、真雪はうんざりした気持ちになった。根掘り葉掘り聞かれるのだろう。

「私は、虫気で休んでいたから宴には出ていないのだけれど」

「あら、それは大変ですこと」

「だから、私は部屋へ戻るよ」

 と言って、部屋に戻ろうとはしたものの、相手は主人である関白の妾だ。しかも、関白は大分気に掛けてくださって、こまめに通ってくださる。そのことを思えば、妹姫のところにも立ち寄るべきだと考え直して、妹姫の住まう、北の対へと向かった。

 母屋である寝殿以外では、最も良い場所に住んでいるのが、この妹であった。一家の浮沈《ふちん》もこの妹姫に掛かっているので、仕方のないことだろう。

 北の対に近付くと、箏《そう》の琴の音が聞こえてきた。妹姫の演奏である。頼りなく危なげな琴の音であった。

「練習に精がでるね」

 廊下に座って、御簾越しに話しかける。兄妹であっても、こうして隔てるのが普通のことだった。真雪の声に気付いたらしく、「お兄様」と弾んだ声がして、琴が止まった。

「おや、私はあなたの演奏を聴いていたのに」

「お耳汚しですわ……ああ、それより、お帰りなさいまし。殿下の宴のお支度はさぞ、気疲れなさったことでしょうから」

「気疲れがすぎて、虫気《むしけ》になってしまったから、宴には出ていなくてね」

 先に話をしてしまえば、余計な詮索はされないだろうと、真雪は苦笑しながら言う。

「あら、大変。虫気と侮ってはなりませんわ。……それにしては、遅いおかえりでしたのね」

「殿下と話すこともあったからね」

 真雪の言葉をきいて、白露は、察したらしい。

「まあ……それはよろしゅうございました。しばらく、明《あかる》殿がお仕えしていたと窺いましたから……」

 白露が、ころころと鈴を鳴らしたように笑う。なんとも、気まずい心地になった。
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