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第一章 宴のあと
02.星回り
しおりを挟む着替えを終えた関白は、日課である日記を付ける。それから、出仕するのが常であった。
「宴の時は、下がっていたようだが、どこへ行っていた?」
筆を運びながら、真雪の方を見ることもなく、関白は問う。正直に、釣殿に居たといっても良かったが、何となくはばかられるのは、昨夜の朧月夜の方のことがあるからだ。
「その……急に虫気(腹痛)がして、それで、房へ戻っておりまして」
歯切れが悪くいう真雪の後ろめたさに、関白は気づいていないようだった。それに、胸をなでおろす。
今まで真雪は、関白という人を、執着しない方と思っていた。おそらく、世間の人のいう、冷酷なという評も、似たようなものだと思う。けれど、真雪の嫉妬をあおる為に、明を召し上げるという、意外なことをなさる方でもあった。それが、真雪には、うす恐ろしく感じる。
「なんだ、虫気か。なんぞ薬でも飲んだのか?」
「いいえ、寝ていれば、虫気などは」
それに薬は大変に高価なものだ。真雪のような身分では、贖うことは難しい。特に、高熱で苦しんでいたり、瘧になったりすれば別だが、虫気は良くあることだ。
「思わぬことで体を悪くするゆえ、大事にせねば」
ふいに、関白に身体を引き寄せられた。ぐい、と手を引かれて、関白の腕の中に倒れこむ形になった。慣れた、久しぶりの感触に、胸がじんわりと熱くなる。
「明殿は」
関白の腕を逃れようと藻掻くと、愉快そうに彼は笑った。
「またそのような、つまらぬ事を申す」
「つまらぬなど……私は、悲しかったのに」
おもわず、ぽろりとこぼれ出た本音に、慌てて口元を抑える。寂しかった。嫉妬をした。狂おしかった。それは、事実だった。ただ――真雪が、関白に告げることが出来ない、『秘密』を持っただけで……。
「ほぅ、これは愛いことを」
関白の声が嬉しそうに弾んでいる。「かようなかわいらしいことを申すのであれば、もっと早くに、あれを召しだしておれば良かったな」
意地の悪いことを、と真雪は思ったが上機嫌の主に、水を差すようなことを言わないのも、務めの一つだ。
「私が、苦しんでいるのが、そんなに楽しいのですか?」
意地悪なことです、と唇を尖らせると、ますます関白の機嫌は良くなっていく。
「ああ、当たり前だろう」
関白の双眸が、すぅっと引き締まった。そのまなざしの奥に、剣吞な炎が、ゆうらりと揺れているように見えた。ぞくり、と、肌が、粟立つ。
「そなたが、嫉妬に苦しむというならば、その間、私のことだけを思っているということではないか」
冗談には聞こえない口調で言う関白に、どう返答して良いか迷ったが「そろそろ、お出になりませんと」と出仕するよう告げる。それが、関白には、また、可愛げのある仕草に映ったのだろう。笑みを深めると、
「ああ、そうだ、今日の星周りを見るのを忘れていた。千草や」
と傍らにいた女房を呼びつける。装束の衣擦れる音を立てながら、御簾の近くまで寄った千草に、関白は「今日の、私の星周りはどうだったかな」と聞く。朝、自分の星周りを確認するのは日課ではあったが、どうも、妙だった。普段は、陰陽師の作ってくれた暦を確認しながら静かに星周りを確認するものだったが……。
「あら、殿。本日は外へお出ましになってはなりませんわ。御所へ向かうには東へ行かねばなりませんけれど、そちらの方角は、今日は足を向けてはなりません」
「なら、南の御門から出れば」
真雪がいうと、「あら、今朝がた、猫の子の産穢がありましたの。春は、こういうことが良く起きますからね」ところころと千草は笑う。おそらく、嘘だ。確かに春は猫たちが恋を求めてうるさいほどではあるが、子が生まれるのは、もっと後のことだ。桜の季節では、早すぎる。おおかた、主の意を得た、千草の嘘だろう。
「それでは、出仕は出来ぬな。残念なことに」
声が笑っている。爪の先ほども、残念だと思っていないことは、聞かずともわかる。
「ああ、本日は心穏やかに、名残の桜でも愛でるとしようか。昨夜急に吹いた疾風のせいで、殆どが散ってしまったが……まだ、残った花もあることだろう。それはそれで風情もあろう」
関白は出仕を辞め、邸で過ごすことにしたようだった。
「ああ、そうとなれば装束は、重々しいな。着替えさせておくれ」
今着たばかりの装束を、再び脱がせることになるのは気鬱だったが、出仕しないのであれば主の装束は好きに選ぶことが出来る。桜の色に合わせた、淡い色味の直衣などがよいだろう。漆黒の束帯姿も良いものだったが、淡い色も良く映える。関白の身分であれば、狩衣や直衣で出仕することも許されている。一度くらい、明るい色合いの装束で出仕しても良いのではないかと、真雪は思う。
長身で顔だちも整っており、体躯も鍛えられている関白である。美々しさがいや増して、そこかしこから秋波が寄せられ、嘆息が漏れるだろう。それは、なかなか、良い光景だ。主が羨望や賞賛を集めるのを見るのは、悪い心地ではない。
浮きたつ気分とは裏腹に、胸の奥がざらつくような、妙な心地を味わっていることも、また確かだった。
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