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序章 花の宴
01.
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月に―――届くのではないかと思って、欄干に手を掛け、思い切り手を伸ばしたところに、突風が吹いてきた。
今が盛りと咲く桜の葩を舞い上がらせ、吹雪のように真雪の身体に叩き付ける。甘酸っぱい桜の香りに包まれた。
「わぁっ……っ」
思い掛けない突風に慌てた真雪は、床に尻餅をついてしまった。その弾みに傍らに置いていた酒器が転がる。あたりに、酒の強い香りが漂った。
「ああ……」
情けない、と思いながら真雪は欄干に、もたれかかる。寝殿からは、高らかな笑い声が聞こえてきた。寝殿は夜だというのに、半蔀をあげ、御簾も上げている。今の突風は、寝殿にも吹き込んできただろうが、誰も気にも留めていないのだろう。
―――私が、ここにいるのも、どなたも気付かないだろうな。
いや、もしかしたら気付いている者が居るかも知れないが、だとしたら、その者は、真雪が宴席を離れて、一人で杯を傾けているのを、ほくそ笑んでいるに違いなかった。
宴は、つつがなく進んでいるのだろう。
やがて、春の夜にふさわしい、高雅な琵琶の音が響いた。
「あっ」
この琵琶の音には、聞き覚えがあった。邸の主である関白のものだ。
―――久しぶりに、聞く……。
かつては、毎夜のごとく聞いたものだった。関白の臥所に召され、よくそこで聞いたものだった。
びぃ……ん、と物語るように夜に響く、低い琵琶の音に聞き惚れていると、別の誰かが、空を行く龍の嘶くような、龍笛を加える。やがて祈りの歌声のような篳篥に、天下る光で出来た羅の帳のような、笙の音が加わって俄に管絃となった。
天上の伶人たちが奏でる楽《がく》の如き麗しい響きだった。常の真雪であればうっとりと聞き惚れるが、今日は、耳を塞ぎたいような衝動に駆られている。関白の琵琶の音に、戯れるように相和する龍笛の音に、覚えがあった。腹の底に溜まった澱が、モヤモヤと、胸を焦がすようで、真雪は胸を押さえる。
―――明殿……。
半年ほど前から、真雪の代わりに関白の褥《しとね》にお仕えすることになったその人の、龍笛の音だった。琵琶の音に絡みつき、離れようとしない見苦しい音―――に聞こえるのが、嫉妬のせいだとは知っていた。けれど、そこは、半年前まで自分の場所であったことを思えば、狂おしくて、宴に同席することも出来ず、一人で、母屋たる寝殿を離れ、池に突き出した格好の釣殿で、やけになって杯を干していたのだった。
今宵は、月と満開の桜を愛でる為という名目で集められた宴であった。
けれど月は朧に霞み、その姿を見せてはくれず、あたりは暗闇に閉ざされている。その中、昼の如き明るさで、寝殿だけが浮かび上がっていた。大殿油を惜しげもなくたいて邸の至る所で灯りをともしているのだ。
幻のような光景であった。
今までならば、真雪もその宴席の中心に座していた。関白の傍らに侍っていたはずだった。
けれど、今は―――。
もはや、半年も夜離れ、関白の寵は、真雪には向いていないことを、知っている。
真雪は唇を噛みしめた。まなじりから、涙がこぼれ落ちる。無様に床に這いつくばって、嗚咽を堪えた。
関白の寝所に仕えることはなくなったが、変わらず関白は良くしてくれている。それで、十分ではないか。そう言い聞かせて、涙を拭う。その時、桜の、甘酸っぱい香りに混じって、沈香を感じた。沈香だけではない。丁子、白檀、甲香、麝香、薫陸香、それに、なにか、別の香りを感じる。この調合であれば、『黒方』という薫物になるはずだが、なにか、別の香が潜んでいるような……。
「おや、先客でしたか」
まろく響く声がした。声のほうを見やるが、人影は闇に紛れて解らない。声にも覚えはなかった。
「……どなた、ですか?」
おずおずと、真雪は問う。客人であれば、相応の礼が必要なはずであった。枕を交わすことはなくなったが、関白に仕えることには変わりない。
「このような、立派な宴の席を外れて、風に戯れるのですから、私が誰であるか……は、無粋なことでしょう」
くすくすと、忍び笑いを漏らしながら、声が近付いてくる。香の感じから言えば、相当、身分の高い方であるのは間違いない。
今宵は、関白邸の私的な宴である。けれど、あたかも朝議のごとく、月卿雲客が集っているはずであった。その中のどなたかが、宴の席を中座されたのだろう。
「迷われたのでしたら、あちらまでご案内いたしますが」
真雪の問いかけに、男の笑いが濃くなる。
「いや、抜け出してきた。……どうにも、あそこは、腹の探り合いばかりで疲れることこの上ない」
その人は、真雪の真横に座った。
「あ、そこは……酒をこぼしていたはず……」
「余計に都合が良い。酒をこぼしてしまって、関白殿の御前に失礼な姿をさらすわけには行かないと言えば、言い訳が立つ」
はは、と彼は笑った。間近にいる。気配は感じる。ほんの少し、彼の身体から発せられる熱、も感じている。だが、顔は、解らなかった。もっとも、真雪のように無位無冠の若輩は、顔を見ても、それがどなたであるか、判別が付くか、あやしい。貴なる方の前で、卑賤の身であれば、直接顔を見ることは甚だ無礼であった。
「潮の香りがする」
彼の方は、そう呟いて、真雪の頬に手を伸ばす。暗闇の中、真雪がどこにいるか、解っているかのように、確信めいた手つきであった。
「あっ」
思わず声を上げてしまった真雪の戸惑いなど、まるで気にしたふうもなく、彼は続ける。
「どうして泣いていたの?」
甘い声音が、耳元をくすぐる。気が付いたら、黒方の香に抱かれていた。
「あ」
「どうして?」
ふたたび甘く問われて、腰が、甘く震えた。半年……肌寂しく孤閨を温めていたのだった。人肌のぬくもりは、存外甘く、真雪の胸をざわめかせる。
「……恋人が……、捨てられたんです」
事実は、口に出すと胸を抉る。その痛みをやり過ごすように、真雪は、彼の胸に頭を預けた。
「おや。こんなに可愛らしい方を手放すなんて、愚かな方もいたものだ」
くすくす、と彼は笑った。そっと、腰に手が回って、引き寄せられる。花冷えの風にさらされた身体は、存外冷えていた。
―――暖かい……。
じんわりと、彼の熱が広がっていく。その心地よさに、目を細めて彼の体温を味わっていると、不意に、唇にふんわりとした感触が降りた。桜の花びら、かと思えば、それは彼の唇だった。
「あっ」
驚いて小さな声を上げてしまったが、彼に手を取られて、身体が密着する。
気が付いたら、背中に冷たい床の感触がした。朧の月は、吐息が混じるほど近くても、顔さえ解らなかった。
口づけが深くなっていく。眩暈がした。
彼方から、関白の奏でる琵琶の音が聞こえてくる。ほんの少しだけ、夜離れてしまった恋人のことを思ったが、
―――どうせ。
と、彼のことを考えることはやめた。もう、召されることはない。心は離れてしまったのだ。それならば、今、こうして、戯れに、一晩だけ恋を味わっても良いはずだ。
真雪は、恋人にしていたように、朧月夜の彼の首に腕を回した。
慣れた体温とは違う温度に、慣れた肌とは違う肌に戸惑いながら、真雪は、彼と熱を貪りあった。
今が盛りと咲く桜の葩を舞い上がらせ、吹雪のように真雪の身体に叩き付ける。甘酸っぱい桜の香りに包まれた。
「わぁっ……っ」
思い掛けない突風に慌てた真雪は、床に尻餅をついてしまった。その弾みに傍らに置いていた酒器が転がる。あたりに、酒の強い香りが漂った。
「ああ……」
情けない、と思いながら真雪は欄干に、もたれかかる。寝殿からは、高らかな笑い声が聞こえてきた。寝殿は夜だというのに、半蔀をあげ、御簾も上げている。今の突風は、寝殿にも吹き込んできただろうが、誰も気にも留めていないのだろう。
―――私が、ここにいるのも、どなたも気付かないだろうな。
いや、もしかしたら気付いている者が居るかも知れないが、だとしたら、その者は、真雪が宴席を離れて、一人で杯を傾けているのを、ほくそ笑んでいるに違いなかった。
宴は、つつがなく進んでいるのだろう。
やがて、春の夜にふさわしい、高雅な琵琶の音が響いた。
「あっ」
この琵琶の音には、聞き覚えがあった。邸の主である関白のものだ。
―――久しぶりに、聞く……。
かつては、毎夜のごとく聞いたものだった。関白の臥所に召され、よくそこで聞いたものだった。
びぃ……ん、と物語るように夜に響く、低い琵琶の音に聞き惚れていると、別の誰かが、空を行く龍の嘶くような、龍笛を加える。やがて祈りの歌声のような篳篥に、天下る光で出来た羅の帳のような、笙の音が加わって俄に管絃となった。
天上の伶人たちが奏でる楽《がく》の如き麗しい響きだった。常の真雪であればうっとりと聞き惚れるが、今日は、耳を塞ぎたいような衝動に駆られている。関白の琵琶の音に、戯れるように相和する龍笛の音に、覚えがあった。腹の底に溜まった澱が、モヤモヤと、胸を焦がすようで、真雪は胸を押さえる。
―――明殿……。
半年ほど前から、真雪の代わりに関白の褥《しとね》にお仕えすることになったその人の、龍笛の音だった。琵琶の音に絡みつき、離れようとしない見苦しい音―――に聞こえるのが、嫉妬のせいだとは知っていた。けれど、そこは、半年前まで自分の場所であったことを思えば、狂おしくて、宴に同席することも出来ず、一人で、母屋たる寝殿を離れ、池に突き出した格好の釣殿で、やけになって杯を干していたのだった。
今宵は、月と満開の桜を愛でる為という名目で集められた宴であった。
けれど月は朧に霞み、その姿を見せてはくれず、あたりは暗闇に閉ざされている。その中、昼の如き明るさで、寝殿だけが浮かび上がっていた。大殿油を惜しげもなくたいて邸の至る所で灯りをともしているのだ。
幻のような光景であった。
今までならば、真雪もその宴席の中心に座していた。関白の傍らに侍っていたはずだった。
けれど、今は―――。
もはや、半年も夜離れ、関白の寵は、真雪には向いていないことを、知っている。
真雪は唇を噛みしめた。まなじりから、涙がこぼれ落ちる。無様に床に這いつくばって、嗚咽を堪えた。
関白の寝所に仕えることはなくなったが、変わらず関白は良くしてくれている。それで、十分ではないか。そう言い聞かせて、涙を拭う。その時、桜の、甘酸っぱい香りに混じって、沈香を感じた。沈香だけではない。丁子、白檀、甲香、麝香、薫陸香、それに、なにか、別の香りを感じる。この調合であれば、『黒方』という薫物になるはずだが、なにか、別の香が潜んでいるような……。
「おや、先客でしたか」
まろく響く声がした。声のほうを見やるが、人影は闇に紛れて解らない。声にも覚えはなかった。
「……どなた、ですか?」
おずおずと、真雪は問う。客人であれば、相応の礼が必要なはずであった。枕を交わすことはなくなったが、関白に仕えることには変わりない。
「このような、立派な宴の席を外れて、風に戯れるのですから、私が誰であるか……は、無粋なことでしょう」
くすくすと、忍び笑いを漏らしながら、声が近付いてくる。香の感じから言えば、相当、身分の高い方であるのは間違いない。
今宵は、関白邸の私的な宴である。けれど、あたかも朝議のごとく、月卿雲客が集っているはずであった。その中のどなたかが、宴の席を中座されたのだろう。
「迷われたのでしたら、あちらまでご案内いたしますが」
真雪の問いかけに、男の笑いが濃くなる。
「いや、抜け出してきた。……どうにも、あそこは、腹の探り合いばかりで疲れることこの上ない」
その人は、真雪の真横に座った。
「あ、そこは……酒をこぼしていたはず……」
「余計に都合が良い。酒をこぼしてしまって、関白殿の御前に失礼な姿をさらすわけには行かないと言えば、言い訳が立つ」
はは、と彼は笑った。間近にいる。気配は感じる。ほんの少し、彼の身体から発せられる熱、も感じている。だが、顔は、解らなかった。もっとも、真雪のように無位無冠の若輩は、顔を見ても、それがどなたであるか、判別が付くか、あやしい。貴なる方の前で、卑賤の身であれば、直接顔を見ることは甚だ無礼であった。
「潮の香りがする」
彼の方は、そう呟いて、真雪の頬に手を伸ばす。暗闇の中、真雪がどこにいるか、解っているかのように、確信めいた手つきであった。
「あっ」
思わず声を上げてしまった真雪の戸惑いなど、まるで気にしたふうもなく、彼は続ける。
「どうして泣いていたの?」
甘い声音が、耳元をくすぐる。気が付いたら、黒方の香に抱かれていた。
「あ」
「どうして?」
ふたたび甘く問われて、腰が、甘く震えた。半年……肌寂しく孤閨を温めていたのだった。人肌のぬくもりは、存外甘く、真雪の胸をざわめかせる。
「……恋人が……、捨てられたんです」
事実は、口に出すと胸を抉る。その痛みをやり過ごすように、真雪は、彼の胸に頭を預けた。
「おや。こんなに可愛らしい方を手放すなんて、愚かな方もいたものだ」
くすくす、と彼は笑った。そっと、腰に手が回って、引き寄せられる。花冷えの風にさらされた身体は、存外冷えていた。
―――暖かい……。
じんわりと、彼の熱が広がっていく。その心地よさに、目を細めて彼の体温を味わっていると、不意に、唇にふんわりとした感触が降りた。桜の花びら、かと思えば、それは彼の唇だった。
「あっ」
驚いて小さな声を上げてしまったが、彼に手を取られて、身体が密着する。
気が付いたら、背中に冷たい床の感触がした。朧の月は、吐息が混じるほど近くても、顔さえ解らなかった。
口づけが深くなっていく。眩暈がした。
彼方から、関白の奏でる琵琶の音が聞こえてくる。ほんの少しだけ、夜離れてしまった恋人のことを思ったが、
―――どうせ。
と、彼のことを考えることはやめた。もう、召されることはない。心は離れてしまったのだ。それならば、今、こうして、戯れに、一晩だけ恋を味わっても良いはずだ。
真雪は、恋人にしていたように、朧月夜の彼の首に腕を回した。
慣れた体温とは違う温度に、慣れた肌とは違う肌に戸惑いながら、真雪は、彼と熱を貪りあった。
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