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文ちゃんの恋
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文ちゃんに好きな人ができた。
またか、とあたしはおもうだけ。深刻には受けとめない。文ちゃんは恋多き男なのだ。
文ちゃんの初恋はお天気お姉さんだった。毎朝、お天気お姉さんのコーナーが始まるとテレビの前にへばりついて、お姉さんがにこやかに笑いながら伝える全国の天気予報をおしまいまで見て二年間もれなく幼稚園に遅刻した。そして小学校に上がる直前、彼女の結婚報道とともに文ちゃんの初恋は終わった。
文ちゃんが四歳のときだから、そのときあたしはまだ生まれていない。お母さんから聞いた話。文ちゃんはあたしより五つ年上で、同じ団地の隣の部屋に住んでいる。
あたしはあたしの両親と文ちゃんの両親がいつ仲よくなったのかもしらないし、文ちゃんが生まれた日のことも、あたしが生まれた日のこともしらない。気づいたらあたしはこんな感じでここにいて、文ちゃんはそんな感じでそこにいた。
文ちゃんの恋の相手はさまざまだ。芸能人。クラスメイト。美人。髪が短い人。メガネをかけている人。声が大きい人。猫が好きな人。かぼちゃが苦手な人。ジャンケンが強い人。
誰かを好きになったときの文ちゃんは敏速だ。後回しにすることができない。すぐさま行動開始。で、たいてい空回りする。
たとえば小学校一年のとき。相手は担任の若い女の先生だった。毎日ラブレターを書いて教室でわたし、そのしつこさに異常を感じた先生が心配して家庭訪問した日に玄関先でプロポーズして、経験の浅い先生を本気で困惑させてしまった。
たとえば小学校五年のとき。隣のクラスのマンガ好きだという女の子。気を引こうとして自分でマンガを描きはじめたら男子に馬鹿ウケで、続きをせがまれるくらいの人気になったものの、熱血スポ根ギャグマンガは女の子にはさっぱりうけず、目あての彼女にも読んでもらえなかった。
さらに中学二年のとき。ひとつ年上の転校生の女の子。料理が上手な男性が理想のタイプだとしって毎朝あやしい出来のキャラクター弁当を作って家まで届け、キャラ弁があまりに不気味だったせいかどうかはしらないけれどストーカー扱いされて警察に通報されそうになった。
恋多き文ちゃんは失恋の数も半端ない。
というか、文ちゃんの恋はいちども実ったことがない。
女の子にふられると、文ちゃんはかわいそうなほど落ちこんで家に引きこもる。食欲をなくし、ぼんやりして、それまでとは別人のように無気力になってしまう。そして一週間くらいで明るく立ち直り、つぎの恋に突進する。
学校の帰りに、本屋に入っていく文ちゃんを見かけた。
黒いつめえりの制服を着た文ちゃんは、どこにでもいる平凡な男子高校生だった。あたしはこっそりあとをつけた。文ちゃんは入り口付近の雑誌や新刊が並ぶ台には見向きもせず、すたすた本棚の間を抜けて奥のほうへ歩いていく。
本屋の中は冷房が効いていて涼しいけれど、この場所がつくる匂いは新しくて落ち着かない。あたしのしらないものが世の中にたくさんあることはわかるけれど、しろうと思えばいつでもしることができるくらい近くにあるということをしりたくない。あたしがいる場所とは別のところ、まだとうぶん行く予定のない遠いところであってほしい。
登山、カメラ、囲碁、バイク、陶芸、フラワーアレンジメント、それらの本が大ざっぱにつめこまれた本棚の前で、文ちゃんは立ち止まった。真剣な目をして文ちゃんが手に取ったのは「今日からはじめるペン字練習帳」だった。ぱらぱらっと一度中身を見ただけで、たいして迷いもせずレジに持ちこみ、支払いをすませて外に出た。あたしも本屋を出た。
文ちゃんの歩き方には特徴がある。微妙にスキップを踏むような、一見ふざけているような、つま先で軽く弾む歩き方。文ちゃんの体全体がふわふわふわふわ、海の中を泳ぐくらげみたいだ。
何かいいことでもあったのかなと思うけれど、ちがうのだ。文ちゃんはいつでもこの歩き方をするのだ。ひょこひょこと浮いたり沈んだりする文ちゃんの頭を見ていると、急にムカッときた。
「おいっ」
あたしは文ちゃんに近づいていって声をかけた。ほえ?とでもいいそうな間の抜けた顔で、文ちゃんがふり向く。
「なんや、実果子か」
「今度は誰なん」
「何が?」
「また誰か好きになったんやろ」
文ちゃんはたははと笑って、「なんでわかったん?」なんて聞く。あたしは文ちゃんの手から本屋のレジ袋を奪い、中身を取り出した。
「ペン字て。こんなん、むだやで。文ちゃんめっちゃ字汚いやん。修復不可能レベルやん」
「失礼やな君は。見てろや、一週間で美文字になったる」
「来週から期末テストやゆうてなかったっけ」
「まあ、これも勉強のうちやし」
「はあ? 何ゆうてんの、あかんやん」
「ええねん。俺は本気なんや。中学生は黙っとき」
その本気があかんねん、それくらい中学生でもわかるわ、とあたしはいい返しそうになったけれどがまんした。文ちゃんが恋をしているときは誰が何をいってもむだだからだ。
たぶん、今度の相手の人は字がきれいな人か、字がきれいな人を好きな人か、どちらかだろう。いつも同じパターンだ。
デートに誘うとか告白するとか、そっちのほうが先だと思う。字がうまくなることより。なんでそうせえへんのって聞いたら、文ちゃんはきょとんとして「そうなん?」というかもしれない。
「相手がいちばん大事にしてるものをわかる努力もせえへんで? そんなん、おかしいやんか」
とか、いいそう。めっちゃいいそう。
そやけど文ちゃん、楽しんでるやんか。お弁当作ったりマンガ描いたり字の練習したりするの、本気で楽しんでるやん。それやから伝われへんねん。あたしやったら嫌やもん、そんな遊び半分みたいなん。
文ちゃんが本気になればなるほど、女の子は文ちゃんの本気を疑う。そういうふうになっている。でも、あたしはいわない。
信号が赤に変わった。文ちゃんが立ち止まり、あたしは文ちゃんの左側で立ち止まる。ただ立っているだけでまぶしくて、夏なんだなと思う。
「文ちゃん、その人のどういうとこが好きなん?」
「そやから字がきれいなとことか」
「それ以外は?」
「ノートを貸してくれる、やさしいところとか」
どうせまた失恋するのに、文ちゃんは楽しそうだった。
「ほかには?」
「まだ、ようしらん。席替えするまでしゃべったことなかったし」
「そういうもんなん?」
「何が」
「好きになるのって」
「さあ」
「さあて、なんなん。そんなもんなん? 適当なん?」
あたしは文ちゃんの横顔をじっと見た。文ちゃんは赤信号を見つめたまま悩んでいて、左耳の後ろのところで白髪が一本光っていた。たかが白髪一本が、腹立たしい。
「そやけど、ほんまにわからんし」
あきらめたように文ちゃんがいった。
「ほんまにわからんの?」
「わからんよ。なんかしらんけど気になって気になって、離れてても顔が見えるくらいの位置にいつでもいたくて、そのうちひとことでもいいからしゃべらんと気がすまんくなって、ずーっと一緒におりたくなって、もうほかのことはどうでもよくなるねんけど、なんでそんなことになったんか自分でもようわからんねん。ノートの字がきれいやなあとか、そう思ってるのはたしかやねんけど、それもなんか後付けっていうか、しらんまにめっちゃ好きになっててん」
文ちゃんは一気にまくしたてた。聞いているうちにあたしは心からうんざりした。
「好きになるの、なんとかしてがまんできへんの?」
「できへんなあ」
「ようわからんのやったら、できるやん」
「いやあかん、無理や」
「じゃあ気のせいってことにしといたら?」
「それも無理やと思うで」
「そやけど」
いいかけて、あたしは口ごもった。
ふられるねんで。どうせまたふられるねん。がまんしたらええのに。あほや。
「実果子はそういうこと、ないん」
「ない。あってもゆわへん」
「なんで。隠さんでもええやん」
「あたしは文ちゃんとは違うねん。硬派やねん」
文ちゃんは、たははと笑って前を向いた。
夏休みに入る直前、文ちゃんに恋人ができた。
借りたノートの最後のページに文ちゃんが「好きです」と書いて返したら、数日後、その下に「私も好きです」と書いたノートが文ちゃんの机の中に入っていたという。その話を聞いたときはまさかと思ってわらいそうになったけれど、文ちゃん自身信じられなくて何度もノートを見てさらに本人にも直接聞いてしつこいくらいたしかめたらしい。
あのとき買ったペン字練習帳を最後までやりとげたかどうかは、聞いていない。
八月は嫌いだ。夕暮れは早くなっていくのに、いつまでもうじうじと暑いところが嫌だ。夏休みももうすぐ終わるから、急いで宿題の残りを片付けなきゃいけない。
あたしはお母さんにいいつけられて、ベランダで自分の運動靴を洗っていた。蝉がうるさく鳴いていた。裸足になると水が冷たくて気持ちがよかった。
洗った靴を物干し竿の先に引っかけているとき、文ちゃんが下を通るのか見えた。いつものようにひょこひょこ浮かれた足どりで、いつもよりちょっとだけかっこよくして、駅のほうへ歩いていく。たぶんデートやなあ、と思った。
文ちゃんを好きだという、やさしくて字がきれいな女の人の顔を想像してみたけれど、何も浮かんでこなかった。なので別のことを想像した。
文ちゃんが高校の教室でひとりの女の子と出会い、恋に落ちる瞬間。背景がぼやっとなって、ほかの生徒の輪郭がとけてうやむやになり、たくさんの生徒がいるなかでその女の子だけがはっきりしていて春の匂いをふくんで笑っている。シャーペンがカチカチ鳴る。国語のノートを開いて、まだ何も書かれていない白いページに下手くそな字で好きですって書く文ちゃん。チャイムの音が聞こえ、机の上のハートの落書きがちらりと見え、チョークの粉の匂いがしてくる。ふたりはキラキラする光の中にいて、心細げな歌声のラブソングが遠くから流れてくる。
あかんなあ。もう。あかんわ。
洗ったばかりの運動靴から、ぽたぽた水が滴っている。履き古して何度も洗っている運動靴は、力をこめてごしごし洗ってもあんまりきれいにならない。
こめかみから汗がひとつぶ流れた。ひりひりする青い空の下で、濡れた運動靴がしょぼくれていた。だけど夏だし、今日も暑くなるみたいだし、きっとすぐに乾くはず。
「文ちゃーん!」
あたしはベランダから身を乗り出して、大声を出した。
文ちゃんが立ち止まり、きょろきょろして、四階のベランダにいるあたしに気づいた。あたしは頭の上で大きく手を振った。
「がんばってなー!」
文ちゃんがたははと笑って手を振り返してくれる。離れていく文ちゃんの背中に、あかんなあ、とあたしはまたつぶやいた。
またか、とあたしはおもうだけ。深刻には受けとめない。文ちゃんは恋多き男なのだ。
文ちゃんの初恋はお天気お姉さんだった。毎朝、お天気お姉さんのコーナーが始まるとテレビの前にへばりついて、お姉さんがにこやかに笑いながら伝える全国の天気予報をおしまいまで見て二年間もれなく幼稚園に遅刻した。そして小学校に上がる直前、彼女の結婚報道とともに文ちゃんの初恋は終わった。
文ちゃんが四歳のときだから、そのときあたしはまだ生まれていない。お母さんから聞いた話。文ちゃんはあたしより五つ年上で、同じ団地の隣の部屋に住んでいる。
あたしはあたしの両親と文ちゃんの両親がいつ仲よくなったのかもしらないし、文ちゃんが生まれた日のことも、あたしが生まれた日のこともしらない。気づいたらあたしはこんな感じでここにいて、文ちゃんはそんな感じでそこにいた。
文ちゃんの恋の相手はさまざまだ。芸能人。クラスメイト。美人。髪が短い人。メガネをかけている人。声が大きい人。猫が好きな人。かぼちゃが苦手な人。ジャンケンが強い人。
誰かを好きになったときの文ちゃんは敏速だ。後回しにすることができない。すぐさま行動開始。で、たいてい空回りする。
たとえば小学校一年のとき。相手は担任の若い女の先生だった。毎日ラブレターを書いて教室でわたし、そのしつこさに異常を感じた先生が心配して家庭訪問した日に玄関先でプロポーズして、経験の浅い先生を本気で困惑させてしまった。
たとえば小学校五年のとき。隣のクラスのマンガ好きだという女の子。気を引こうとして自分でマンガを描きはじめたら男子に馬鹿ウケで、続きをせがまれるくらいの人気になったものの、熱血スポ根ギャグマンガは女の子にはさっぱりうけず、目あての彼女にも読んでもらえなかった。
さらに中学二年のとき。ひとつ年上の転校生の女の子。料理が上手な男性が理想のタイプだとしって毎朝あやしい出来のキャラクター弁当を作って家まで届け、キャラ弁があまりに不気味だったせいかどうかはしらないけれどストーカー扱いされて警察に通報されそうになった。
恋多き文ちゃんは失恋の数も半端ない。
というか、文ちゃんの恋はいちども実ったことがない。
女の子にふられると、文ちゃんはかわいそうなほど落ちこんで家に引きこもる。食欲をなくし、ぼんやりして、それまでとは別人のように無気力になってしまう。そして一週間くらいで明るく立ち直り、つぎの恋に突進する。
学校の帰りに、本屋に入っていく文ちゃんを見かけた。
黒いつめえりの制服を着た文ちゃんは、どこにでもいる平凡な男子高校生だった。あたしはこっそりあとをつけた。文ちゃんは入り口付近の雑誌や新刊が並ぶ台には見向きもせず、すたすた本棚の間を抜けて奥のほうへ歩いていく。
本屋の中は冷房が効いていて涼しいけれど、この場所がつくる匂いは新しくて落ち着かない。あたしのしらないものが世の中にたくさんあることはわかるけれど、しろうと思えばいつでもしることができるくらい近くにあるということをしりたくない。あたしがいる場所とは別のところ、まだとうぶん行く予定のない遠いところであってほしい。
登山、カメラ、囲碁、バイク、陶芸、フラワーアレンジメント、それらの本が大ざっぱにつめこまれた本棚の前で、文ちゃんは立ち止まった。真剣な目をして文ちゃんが手に取ったのは「今日からはじめるペン字練習帳」だった。ぱらぱらっと一度中身を見ただけで、たいして迷いもせずレジに持ちこみ、支払いをすませて外に出た。あたしも本屋を出た。
文ちゃんの歩き方には特徴がある。微妙にスキップを踏むような、一見ふざけているような、つま先で軽く弾む歩き方。文ちゃんの体全体がふわふわふわふわ、海の中を泳ぐくらげみたいだ。
何かいいことでもあったのかなと思うけれど、ちがうのだ。文ちゃんはいつでもこの歩き方をするのだ。ひょこひょこと浮いたり沈んだりする文ちゃんの頭を見ていると、急にムカッときた。
「おいっ」
あたしは文ちゃんに近づいていって声をかけた。ほえ?とでもいいそうな間の抜けた顔で、文ちゃんがふり向く。
「なんや、実果子か」
「今度は誰なん」
「何が?」
「また誰か好きになったんやろ」
文ちゃんはたははと笑って、「なんでわかったん?」なんて聞く。あたしは文ちゃんの手から本屋のレジ袋を奪い、中身を取り出した。
「ペン字て。こんなん、むだやで。文ちゃんめっちゃ字汚いやん。修復不可能レベルやん」
「失礼やな君は。見てろや、一週間で美文字になったる」
「来週から期末テストやゆうてなかったっけ」
「まあ、これも勉強のうちやし」
「はあ? 何ゆうてんの、あかんやん」
「ええねん。俺は本気なんや。中学生は黙っとき」
その本気があかんねん、それくらい中学生でもわかるわ、とあたしはいい返しそうになったけれどがまんした。文ちゃんが恋をしているときは誰が何をいってもむだだからだ。
たぶん、今度の相手の人は字がきれいな人か、字がきれいな人を好きな人か、どちらかだろう。いつも同じパターンだ。
デートに誘うとか告白するとか、そっちのほうが先だと思う。字がうまくなることより。なんでそうせえへんのって聞いたら、文ちゃんはきょとんとして「そうなん?」というかもしれない。
「相手がいちばん大事にしてるものをわかる努力もせえへんで? そんなん、おかしいやんか」
とか、いいそう。めっちゃいいそう。
そやけど文ちゃん、楽しんでるやんか。お弁当作ったりマンガ描いたり字の練習したりするの、本気で楽しんでるやん。それやから伝われへんねん。あたしやったら嫌やもん、そんな遊び半分みたいなん。
文ちゃんが本気になればなるほど、女の子は文ちゃんの本気を疑う。そういうふうになっている。でも、あたしはいわない。
信号が赤に変わった。文ちゃんが立ち止まり、あたしは文ちゃんの左側で立ち止まる。ただ立っているだけでまぶしくて、夏なんだなと思う。
「文ちゃん、その人のどういうとこが好きなん?」
「そやから字がきれいなとことか」
「それ以外は?」
「ノートを貸してくれる、やさしいところとか」
どうせまた失恋するのに、文ちゃんは楽しそうだった。
「ほかには?」
「まだ、ようしらん。席替えするまでしゃべったことなかったし」
「そういうもんなん?」
「何が」
「好きになるのって」
「さあ」
「さあて、なんなん。そんなもんなん? 適当なん?」
あたしは文ちゃんの横顔をじっと見た。文ちゃんは赤信号を見つめたまま悩んでいて、左耳の後ろのところで白髪が一本光っていた。たかが白髪一本が、腹立たしい。
「そやけど、ほんまにわからんし」
あきらめたように文ちゃんがいった。
「ほんまにわからんの?」
「わからんよ。なんかしらんけど気になって気になって、離れてても顔が見えるくらいの位置にいつでもいたくて、そのうちひとことでもいいからしゃべらんと気がすまんくなって、ずーっと一緒におりたくなって、もうほかのことはどうでもよくなるねんけど、なんでそんなことになったんか自分でもようわからんねん。ノートの字がきれいやなあとか、そう思ってるのはたしかやねんけど、それもなんか後付けっていうか、しらんまにめっちゃ好きになっててん」
文ちゃんは一気にまくしたてた。聞いているうちにあたしは心からうんざりした。
「好きになるの、なんとかしてがまんできへんの?」
「できへんなあ」
「ようわからんのやったら、できるやん」
「いやあかん、無理や」
「じゃあ気のせいってことにしといたら?」
「それも無理やと思うで」
「そやけど」
いいかけて、あたしは口ごもった。
ふられるねんで。どうせまたふられるねん。がまんしたらええのに。あほや。
「実果子はそういうこと、ないん」
「ない。あってもゆわへん」
「なんで。隠さんでもええやん」
「あたしは文ちゃんとは違うねん。硬派やねん」
文ちゃんは、たははと笑って前を向いた。
夏休みに入る直前、文ちゃんに恋人ができた。
借りたノートの最後のページに文ちゃんが「好きです」と書いて返したら、数日後、その下に「私も好きです」と書いたノートが文ちゃんの机の中に入っていたという。その話を聞いたときはまさかと思ってわらいそうになったけれど、文ちゃん自身信じられなくて何度もノートを見てさらに本人にも直接聞いてしつこいくらいたしかめたらしい。
あのとき買ったペン字練習帳を最後までやりとげたかどうかは、聞いていない。
八月は嫌いだ。夕暮れは早くなっていくのに、いつまでもうじうじと暑いところが嫌だ。夏休みももうすぐ終わるから、急いで宿題の残りを片付けなきゃいけない。
あたしはお母さんにいいつけられて、ベランダで自分の運動靴を洗っていた。蝉がうるさく鳴いていた。裸足になると水が冷たくて気持ちがよかった。
洗った靴を物干し竿の先に引っかけているとき、文ちゃんが下を通るのか見えた。いつものようにひょこひょこ浮かれた足どりで、いつもよりちょっとだけかっこよくして、駅のほうへ歩いていく。たぶんデートやなあ、と思った。
文ちゃんを好きだという、やさしくて字がきれいな女の人の顔を想像してみたけれど、何も浮かんでこなかった。なので別のことを想像した。
文ちゃんが高校の教室でひとりの女の子と出会い、恋に落ちる瞬間。背景がぼやっとなって、ほかの生徒の輪郭がとけてうやむやになり、たくさんの生徒がいるなかでその女の子だけがはっきりしていて春の匂いをふくんで笑っている。シャーペンがカチカチ鳴る。国語のノートを開いて、まだ何も書かれていない白いページに下手くそな字で好きですって書く文ちゃん。チャイムの音が聞こえ、机の上のハートの落書きがちらりと見え、チョークの粉の匂いがしてくる。ふたりはキラキラする光の中にいて、心細げな歌声のラブソングが遠くから流れてくる。
あかんなあ。もう。あかんわ。
洗ったばかりの運動靴から、ぽたぽた水が滴っている。履き古して何度も洗っている運動靴は、力をこめてごしごし洗ってもあんまりきれいにならない。
こめかみから汗がひとつぶ流れた。ひりひりする青い空の下で、濡れた運動靴がしょぼくれていた。だけど夏だし、今日も暑くなるみたいだし、きっとすぐに乾くはず。
「文ちゃーん!」
あたしはベランダから身を乗り出して、大声を出した。
文ちゃんが立ち止まり、きょろきょろして、四階のベランダにいるあたしに気づいた。あたしは頭の上で大きく手を振った。
「がんばってなー!」
文ちゃんがたははと笑って手を振り返してくれる。離れていく文ちゃんの背中に、あかんなあ、とあたしはまたつぶやいた。
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