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名前を呼んで

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「秋水さま、これから油で揚げると、本当に危ないのでせめてテーブルでお待ちください」

 いい感じに調味料に漬けられたので、揚げていきたい。本当は一晩寝かせておきたいのだが、慧はもう明日からここに来るのは止めようと、思い始めていた。だから、今日作れるのは作っておかないと、と思ってさっそく唐揚げに取り掛かったのだ。
 危ない、と言っても目の前の男は動く気配が無い。
 油の温度を確認し、再度、龍士郎を見ると、驚いた事に少しだけむすっとしていた。なんだ、と思っていると。

「……母さんの事は、名前で呼ぶのに、オレは秋水さま、なんだ」
「はあ」

 言われている事が、理解できない。慧は、危うく菜箸を取り落しそうになっていた。

「オレの事は、龍士郎って呼んでよ」
「えっ」

 油の適温を示すように、菜箸からのジュウジュウ音が鳴っている。
 正直、意味がわからなかった。慧としては、今目の前に居る雇用主と、依頼人の区別をする為にそうしただけなのだが、目の前の男は何やらそれが不満らしい。
 そうこうしている内にも、時間は過ぎるし油は過熱してしまう。もう、どうにでもなれと慧は口を開いた。

「しゅ……龍士郎、さま。本当に危ないので」

 domに逆らって、良い事は無い。それはノーマルでも、subであれば尚更よくない。domへはお願い事も、慎重を期す。
 一生懸命考えながら慧が言うと、ふふっ、と鼻で笑う音が聞こえて、

「わかったよ」

 と少しだけ楽しそうな返事が返ってきた。ますます意味がわからなかったが、とりあえずはどうにかなったようだ。慧が胸をなでおろしていると、

「慧くん、君、本当に欲求薄いみたいだね」

 龍士郎はテーブルに腰かけながら、こちらを見る体勢に入ったようだった。
 いちいち、意味がわからない。こちらの欲求が薄いのがなんだというのだ。
 もしかしたら、先ほどのやり取りも弱い命令《コマンド》だったのだろうか。それにしては、お願い、ぐらいにしか聞こえなかったし、それに応えても心臓は特に跳ねなかったが。……特定のパートナーが居なかったせいで、慧は信頼関係のあるコマンドやプレイ、というのを知らない。それで良いと思って生きてきた。それを、見抜かれたようで少しだけ嫌だったが、少しだ。
 慧は無言で料理を作っていた。



 それからは、龍士郎からの視線を感じはするが、特に無体な事もなく予定通り料理を作り終わった。作り置きの分をとりわけ、冷蔵庫に直し、再びパックのご飯をレンジで温め、深めの器によそう。器は、使われもせず綺麗に置かれていた。
 宣言通り唐揚げを乗せた丼と、簡単な卵スープ、付け合わせのサラダを龍士郎の前に並べた。

「明日の朝食と昼食は、冷蔵庫に入れてますので、好きに召しあがって下さい。それでは……」
「あっ、ねえ、慧くん」
「はい?」

 事務的に説明し、さっさと部屋から出ようと思ったのだが、慧は龍士郎に呼び止められた。少しだけ恥ずかしそうに龍士郎が、

「君の作ったご飯美味しかったからさ、また、作ってよ」

 そう言って慧の目を見た。一瞬、眩暈のようなものを慧は感じた。
 まさか、明日から担当変わってもらおうと思ったのを、気づかれたのだろうか。いや、気づかれたからなんだというのだ。こちらの都合で変わると言えば良いだけだ。たかが、一日知り合っただけのdomとsubだ。これぐらいの簡単な ”お願い” なら、断れるはずだ。
 ーーよし。そう慧が決意して口を開いた所、

「わかりました」

 口から出たのは、肯定だった。えっ、と驚き龍士郎を見ると、前髪の下から見える瞳が、ニンマリと三日月になっていた。それは、おもちゃを見つけた猫のようで。

「えっ、あ、いや、これは、ちがっ」
「じゃあ、明日からも、よろしくね。楽しみにしてる」

 言質を取られたも同然だった。今までにない事に呆然としていると時間を示すスマホのアラームがなり、ハッと我にかえった。慌てて、

「あの、それじゃ、また来ますっ」

 それだけ龍士郎に挨拶し、バタバタと荷物をまとめて慧は玄関を飛び出して行った。
 その後ろ姿を見ながら、楽しそうに笑う龍士郎。自身の前髪に手を伸ばし、何やら思案しているようであった。





 一方、仕事場である龍士郎の部屋を飛び出した慧は、その勢いのまま、会社に戻ってきていた。

「あら、慧くん。お帰り。どうだった、昨日言ってた、気難しい依頼人」

 出迎えてくれたのは、同じ会社に所属するベテランのおばちゃん達だった。みんな仕事場から戻り、めいめいにお菓子を頬張ったりお茶を飲んでいた。
 慧は、この中では最年少である。しかも男性なので、おばちゃんたちからはまるで息子のように扱われていた。それにいつもは感謝を感じるのだが、今日だけは、何とも言えない顔になってしまった。
 今日は、色々ありすぎた。

「あ、うん、まあ、何とかなったよ」
「あら~、どうしたの。嫌なら、おばちゃんが変わってあげようか」
「いやっ、それは大丈夫っ」

 おばちゃんの言葉に、驚いた事に慧の口からは咄嗟に否定が出て来た。
 おばちゃんは、きょとんとしていたが、嫌な事あったらすぐに言うのよ、と言ってまた仲間たちとの談笑に戻っていた。

 慧は、自分の心臓がトクトクと早くなっていくのを感じていた。
 はじめての感覚だ。
 だが、嫌ではなかった。
 そんな気持ちに蓋をしつつ、慧は帰り支度をして帰路についた。
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