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36.無価値な奇跡
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◇
エルウィンがルイーゼを連れて応接室を出ると、そこにはジェヒューの妻であるヘルタ夫人が静かに佇んでいた。一見、無防備に佇んでいるようにも見えるが、四方八方に意識を張り巡らせているのがエルウィンには分かった。
「ヘルタ様?!」
驚きの声を上げたのはエルヴィンの後ろにいたルイーゼだ。ヘルタはエルウィンの背後に元気なルイーゼの姿を見つけると、ほっとしたように息を吐いた。
「よかったご無事のようですね」
「えっと……その言いようはもしかして?」
「詳しい話は客間で……今は、この場を離れることにしましょう」
ルイーゼの問いにその場で答えることなく、ヘルタ夫人は穏やかな口調で、しかし周囲を徹底的に警戒しながら、エルウィン達を先へ促す。
「分かりました」
エルウィンは短く言葉を返すとルイーゼの手を引いて、ヘルタ夫人に案内されるまま客間へと足を踏み入れた。
客間へ入ると、ヘルタ夫人はクローゼットから一枚のガウンを取り出しルイーゼに手渡した。こげ茶色の上等なビロード地のガウンを。
「ありがとうございます」
ルイーゼは笑顔でそれを受け取り、ドレスの上に羽織る。
「ソフィアお嬢様は今はシュティーフェル邸に赴いているようですが、エルウィン様がいないと分かればすぐにメーベルト邸へ戻ってくるでしょう」
ヘルタ夫人は物憂げな様子で、エルウィンとルイーゼを気遣った。
「ソフィアいなかったのね……」
ルイーゼは得心がいったように頷く。ソフィアがいたらルイーゼの救出は更に遅れていただろう――万が一のことを思うと、エルウィンはヘルタ夫人の采配に感謝をしてもしきれなかった。
「ですが、いつ戻ってくるか分かりません。本邸へお連れした方がルイーゼ様もご安心いただけるとは思うのですが……」
「いいえ! こちらこそ……あなたたちのお屋敷で面倒を起こしてしまってごめんなさい」
ルイーゼは申し訳なさげに、ヘルタ夫人へ頭を下げる。ルイーゼの謝罪を受けてヘルタ夫人の方が慌てる始末だ。
「それにしても……エルウィンはどうして……その……」
気丈に振る舞ってはいても、ルイーゼは先ほどの蛮行でかなりの心理的外傷を受けている。なんということはないふりをしながら言おうとしているが、指先が震えているのを、エルウィンは見逃さなかった。
「ジェヒュー様から話を聞いていたんだ。ただ……詳細はやっぱり分からなくて……ごめん」
自分が情けなかった。収まりようのない自分への怒りが消えない。本当はこんな事態になるより、もっと早くに割って入りたかった。 未だに体を震わせる彼女に対して、何もできない自分が嫌だった。これほどそばにいるのに……彼女はいつだって自分を一番に想い、自分に力を与えてくれているのに……。
自己嫌悪に浸っていると、腕の中に温もりが飛び込んできた。
「……ありがとね、エルウィン」
腕の中で、ルイーゼが恥ずかしげに微笑んでいる。泣きたくなるほど、ただただ愛しい温もりだ。
彼女から向けられる愛情は、まるで無償の愛のようだ。
血の繋がった実の母は、自分を産んで直ぐに死んだ。生まれついたスラム街は、その日を生きるのに精一杯な場所だった。そんな場所でも、仲間を作り、時には愛する者を抱き、幸福を謳歌していた……自分以外は。
エルウィンにとっては奇跡だった。彼女に出会えたこと、あの場で彼女に必要とされたこと。これだけが価値ある奇跡だった。
だから――龍神の奇跡なんて、少しも欲しくなかった……。
エルウィンがルイーゼを連れて応接室を出ると、そこにはジェヒューの妻であるヘルタ夫人が静かに佇んでいた。一見、無防備に佇んでいるようにも見えるが、四方八方に意識を張り巡らせているのがエルウィンには分かった。
「ヘルタ様?!」
驚きの声を上げたのはエルヴィンの後ろにいたルイーゼだ。ヘルタはエルウィンの背後に元気なルイーゼの姿を見つけると、ほっとしたように息を吐いた。
「よかったご無事のようですね」
「えっと……その言いようはもしかして?」
「詳しい話は客間で……今は、この場を離れることにしましょう」
ルイーゼの問いにその場で答えることなく、ヘルタ夫人は穏やかな口調で、しかし周囲を徹底的に警戒しながら、エルウィン達を先へ促す。
「分かりました」
エルウィンは短く言葉を返すとルイーゼの手を引いて、ヘルタ夫人に案内されるまま客間へと足を踏み入れた。
客間へ入ると、ヘルタ夫人はクローゼットから一枚のガウンを取り出しルイーゼに手渡した。こげ茶色の上等なビロード地のガウンを。
「ありがとうございます」
ルイーゼは笑顔でそれを受け取り、ドレスの上に羽織る。
「ソフィアお嬢様は今はシュティーフェル邸に赴いているようですが、エルウィン様がいないと分かればすぐにメーベルト邸へ戻ってくるでしょう」
ヘルタ夫人は物憂げな様子で、エルウィンとルイーゼを気遣った。
「ソフィアいなかったのね……」
ルイーゼは得心がいったように頷く。ソフィアがいたらルイーゼの救出は更に遅れていただろう――万が一のことを思うと、エルウィンはヘルタ夫人の采配に感謝をしてもしきれなかった。
「ですが、いつ戻ってくるか分かりません。本邸へお連れした方がルイーゼ様もご安心いただけるとは思うのですが……」
「いいえ! こちらこそ……あなたたちのお屋敷で面倒を起こしてしまってごめんなさい」
ルイーゼは申し訳なさげに、ヘルタ夫人へ頭を下げる。ルイーゼの謝罪を受けてヘルタ夫人の方が慌てる始末だ。
「それにしても……エルウィンはどうして……その……」
気丈に振る舞ってはいても、ルイーゼは先ほどの蛮行でかなりの心理的外傷を受けている。なんということはないふりをしながら言おうとしているが、指先が震えているのを、エルウィンは見逃さなかった。
「ジェヒュー様から話を聞いていたんだ。ただ……詳細はやっぱり分からなくて……ごめん」
自分が情けなかった。収まりようのない自分への怒りが消えない。本当はこんな事態になるより、もっと早くに割って入りたかった。 未だに体を震わせる彼女に対して、何もできない自分が嫌だった。これほどそばにいるのに……彼女はいつだって自分を一番に想い、自分に力を与えてくれているのに……。
自己嫌悪に浸っていると、腕の中に温もりが飛び込んできた。
「……ありがとね、エルウィン」
腕の中で、ルイーゼが恥ずかしげに微笑んでいる。泣きたくなるほど、ただただ愛しい温もりだ。
彼女から向けられる愛情は、まるで無償の愛のようだ。
血の繋がった実の母は、自分を産んで直ぐに死んだ。生まれついたスラム街は、その日を生きるのに精一杯な場所だった。そんな場所でも、仲間を作り、時には愛する者を抱き、幸福を謳歌していた……自分以外は。
エルウィンにとっては奇跡だった。彼女に出会えたこと、あの場で彼女に必要とされたこと。これだけが価値ある奇跡だった。
だから――龍神の奇跡なんて、少しも欲しくなかった……。
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