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転章

転章 第二部

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 夜明け前だった。

 朝焼けと入れ替わるように、ザーニーイは要塞ようさいの玄関石畳いしだたみから雹砂ひょうさへとみ出した。悔踏区域外輪かいとうくいきがいりんを往復するだけで雹砂にやられて穴が開きそうな、見てくれだけの薄っぺらい革靴は頼りない―――それでも、一歩は一歩だった。

 普段と異なるのは、靴だけではない。服装もまた、純白に準じた正装の上下に一糸いっしの乱れなく整えて、格式ばったうわりまで着込んでいた。国賓級こくひんきゅうの国儀に参加するのに相応ふさわしい、正統極まるで立ちである。武器は、寸鉄すんてつどころか鉛鋲なまりびょうひとつ帯びていない。ターバンはせず頭巾ずきんかぶり、肩口まで垂らしたそれをめるために頭帯とうたいを巻いている。そして、真紅しんく襟巻えりまき―――旗司誓きしせいの心臓をなぞらった象徴しょうちょうえて言うなら……この扮装こそが、今回限定の武装だった。

 ほぼ同じ服装をしたゼラが、背後に連れ立っていた。ザーニーイが振り返れば、その人がまず目に入り―――その更に三歩ほど奥まった要塞廊下ろうか壁際に、シゾーがいる。彼は通常通りの旗司誓きしせいらしい装備と普段着で……ただしそのことこそが最たる事変であると、よじった眉宇びうにありありと語らせながら。

 口火を切ったのは、ゼラだった。長袖ながそでの影から二重手袋をのぞかせて、キルルのチェストと戦端旗せんたんきを、【血肉の約定】の当日と同じように抱えている。ただし頭巾ずきんの下の髪型だけは、しっかりオールバックにして後頭にまとめていた。これもまた正装にあつらえたのだろうが。

「いきましょう」

 こたえるべく、ザーニーイもまた、後ろへと声を振る。

「いってくる」

 ―――シゾーも、時間をかけて、それを口にした。

「いってらっしゃい」

 そこに、キルルが加わった。ここに来た時の高価な服装に戻り、……ザーニーイたちならびに旗司誓およそ二十名あまり、そのずらりと正装した頭巾姿の集団に、違和感なく溶け込みながら。

 さようなら、とつぶやいているのが背後から聞こえてきたが、彼女に振り向くわけには行かない。自分はリーダーだ。リードする。ならば先導を。それだけだ。

 ザーニーイを先頭に、部隊を連れて、正門へとグラウンドを進む。保守のために残される、その他大勢の旗司誓が、両サイドに道を開けていた……その中央を、進んでいく。

 群衆の中には、エニイージーもいた。周囲よりも格別の熱誠ねっせいませて、食い入るような凝視ぎょうしをこちらにつないでいる。

(……人選に、稟請りんせいを申し立てるかもと思っていたけどな)

 エニイージーは、保守側に回されていた。ゼラを連れていく以上、練成魔士れんせいましに次いで戦闘力がある騎獣きじゅう系統一式は、分散させず残していく必要がある。よって作戦の投了まで、ゾラージャ率いる第五部隊は、基本的にここに駐屯ちゅうとんとなる見込みだが―――それ以前に、今回の行動メンバーは、ゼラ以外は赤い体毛をした者から選抜すると前提条件に示していた。目には目を、ではないが……それでも、張り合える要素は整えておくに越したことはない。

(それに―――これなら、残される奴らも、贔屓ひいきされたとか差別だとか騒ぎやしねえだろう。生まれついての向き・不向きだ)

 ザーニーイは、きかけた息を隠した。ため息だったから。

 そして、用意されていた馬車に―――馬にかせた、ほろのない馬車二台に、二班に分かれて乗り込む。十名前後ずつ、ザーニーイとキルルとゼラが固まった前班と、それの背面はいめんを固める後班と。どちらの御者ぎょしゃ役の旗司誓もまた正装しており、その頭髪の色彩を隠しての頭巾姿である。馬車は、乗り合い馬車のように壁沿いに座席がもうけられている仕様ではなく、全列が前を向いた造作ぞうさくをしていた。車体や車輪の形状なども、街路以外で、街路以上の速度を出すことを念頭に置いてある。訓練が行き届いた軍馬と護衛犬までは調達できなかったが、背に腹は代えられない。

 合図を受けて、その二台が動き出した。昂然こうぜんと、ゼラが戦端旗せんたんきを構える。

 翩翻へんぽんとたなびいた青いからすの翼が、その双頭三肢そうとうさんしを、神蛇しんだデューバンザンガイツへ向けた―――悔踏区域外輪かいとうくいきがいりんから吶喊とっかんした、その瞬間だった。

二十重はたえある祝福しゅくふくに、背に二十重ある祝福を!」

 機鋒きほうを表敬する声も、敬礼の仕草も、遠ざかる。

 一刻。こく一刻。刻限を終えて悔踏区域外輪かいとうくいきがいりんを抜けてからも、声援が名残なごり惜しく思えるようなトラブルもなく―――ある程度の武装犯罪者は徽章きしょうを示すことによる恐嚇きょうかくが可能で、それすら感じない程度の鈍磨どんまな徒党ならゼラの魔術で一蹴いっしゅうできようが、むしろこんな時はプレッシャーから腹をくだしたりといった例が地味にダメージだ―――、警戒環けいかいかんに到着した。

 そこで予定通り、棒から外した旗幟きしを、外套がいとうのようにザーニーイが羽織はおって佇立ちょりつする。そして、全員で頭巾を取った。

 東雲しののめのもと。乾燥と荒廃こうはい蚕食さんしょくされた、白っぽいだけの野原にて。それは、ただ赤いと十把一絡じっぱひとからげにするだけでは済まされない―――絶景だった。

 そほ朱華はねず

 柘榴ざくろ水柿みずがき梅重うめがさね

 臙脂えんじべにねずくれない八塩やしお

 薄く蘇芳香すおうこう。濃く鴇浅葱ときあさぎ

 朝日をねた猩々緋しょうじょうひ。夕日を寝かせた宗伝唐茶そうでんからちゃ

 個人差こそあれ、これだけの人数が正装のうえ在野にて一斉に暖色系の頭髪をひけらかすなど、これ前代未聞である。しかも全員が全員、体格がいい若者とくれば、否が応でも目を引いた。絶景かな絶景かな、その効力効能こうりきこうのうたるやすさまじく、水もしたたるいい男や着飾った貴族など見慣れているであろうキルルでさえ、驚天動地にドタマをはたかれ、しばらく あんぐりと見とれてしまっていたのが横目で確認できる。その旗司誓たち当人らと言えば、常日頃から悪目立ちを避けて自発的に覆い隠していた者がほとんどの中、方々で ほっとしたような息を吐いたり、ほっとしたことを後悔するように吐息を噛み殺している。抑圧され、根深く積んできた葛藤かっとうや因縁も人それぞれで、だからこそ一入ひとしおの感慨もまた一握いちあくし切れるような一概いちがいで済まないのだ。

(直前まで武装して、門外にてそれを解除する案も出ていたが、割愛かつあいして正解だったな)

 ゼラに一瞥いちべつを往復させて、ザーニーイは頭帯とうたい―――研磨けんま石のこともあり、これだけは外すわけにはいかない―――を締め直した。

(なによりもスピードを第一に取った方が、万が一も万が二も・・・・振り切ることができる……か。有能すぎるのも玉にきずだぜ。相も変わらず、実感してから真に迫る例え話をしてくれやがって)

 武装の重量で車速が落ちることにより武装ぶそう犯罪者はんざいしゃに目をつけられやすくなるというのが万が一ならば、スタートから時間が掛かれば掛かるほど連帯がばらけやすくなるというのが、万が二……そんなところか。目的地も目標も同じであれ、持ち前の心構えや持久力などのパーソナルな差異から、どうしても集団としてのまとまりは経時的に劣化する。それを見計らいながら全体としての牽引けんいんを維持するのがザーニーイの役目でもあるのだが、抜本的にそれらを解決するのが、到達までの時間短縮だ。要は、精神力も体力も余裕があるうちに終わらせること。

(そうだな。それもあわせて……これからも、うまくいく。この人が付いてるんだ。だから、きっとだ)

 襟巻えりまきを口許くちもとまで引き上げて、その真紅しんくへ吹き込むように、ザーニーイは独白した。

 首都外壁の門番は、まずはキルルらを最先さいさきに貴族然と正装を固めた赤毛頭の集団が現れたことに ぎょっと息をんで、更にはザーニーイの背で闡明せんめいにされた旌旗せいきに、呑んでいたそれを ぶはごほ吐呑とどんした。旗司誓であるにもかかわらず一切の武器を携帯していないことをとがめられて留保措置を取られる場合も想定していたのだが、所詮しょせん司右翼しうよくの末端である……関わり合いになるのを避けて、職分と我が身可愛かわいさに忠実に、壁内へと通してくれる。

 壁外へと農耕に向かう者、壁内にて朝支度に取り掛かっていた者、あるいは昨夜の痛飲つういん覚めやらぬ中で路傍ろぼう車座くるまざを組んでいた飲んだくれ三人組までもが、馬車二台にわたる孤狼ころう凱旋がいせんに両目を釘付くぎづけにされて、大口を開けていた。

「なんだありゃ。青錦あおにしきの……御旗みはた? あんなもん背負しょい込んでからに。てこたぁ、旗司誓?」

「見ろよ。野郎の背中。ご大層な お化けからすが、でっけえ翼を広げてらあ」

「ああ。しかもあのからす二股頭ふたまたあたまにゃ月と太陽、三本あしにゃあ両刃の長剣。いやはや、まっさらな白づくめ、赤毛に青い旗……こいつは天晴あっぱれだぁな」

「知ってるぞ。あの紋章は<彼に凝立する聖杯アブフ・ヒルビリ>だ。間違えるもんか。俺ぁ昔、<風青烏ロゾ>を通じて依頼を上げたことがあるんだ」

「はっ。だまされてろよ、おたんこなすのスットコドッコイめ。どうせまた、お貴族サマの新手あらて酔狂すいきょうさ。見やがれっての。ぴかぴか おべべに、ふてぶてしい態度を詰め込んで、真っのお毛毛けけをトサカみてぇに おっ立てて。大方おおかたこれから夜討ち朝駆けで、砂臭すなくせぇお遊戯ゆうぎでもするんだろうさ」

「じゃあ、なんで上に行くんだよ? 三戒域かいいきは下だろ」

「はっ。そいつが分かりさえすりゃあ、俺っちだって今時分、赤い毛やして伊達だておとこ贅沢三昧ぜいたくざんまいしてらぁな」

「はは! そいつは謹聴きんちょう・謹聴」

「なんか知らんが―――ほとほと、壮観だな」

 王裾街おうきょがいから、王襟街おうきんがいへ。更に……上へ。

 往来おうらいからの軒並みの衆目を堂々と魅了しながら、ただひたすらに王冠城おうかんじょうを目指して行く。上等住宅街路から更に上っていく道のりは、収集済みだった情報をキルルが裏付けてくれた。そして、王城の門扉の前まで―――至る。

 こちらを視認した時から門の前に出てきていた数人の番人が、きもを潰された顔をそろみさせていた。

「……後継こうけい第二階梯かいてい

「まさか……本当に……」

 驚波きょうはされること、半秒足らず。

 彼らは、機構を操作し、門を開けた。人間だけが出入り可能な側門ではなく、ばたんと倒れようものなら通行人を三十余名は圧殺しかねないほどに巨大な、正門の方を。

「お通りください」

 言われるまでもないのだが。

 進攻を再開した馬車上で顔をしかめ、ザーニーイは頭帯とうたいに触れた。研磨石けんませきからシゾーの声がしたのではなく―――事前の打ち合わせで、彼には行動中『受信』状態のみにしておくよう言い含めてあるので、叩打こうだ音すらしない―――、し慣れない頭巾ずきんの着脱などしたせいで、うまいこと締まっていない気がする。

「いくらキルルがいたにせよ、王城の門番相手に顔パスだと? ……すんなり行くのも、気味悪ぃもんだな」

「おそらくは、司右翼しうよくに入団したというはく付けのためだけに持参金を収めたような子息子弟しそくしていの、成長版でしょう。それなら、この一団に威圧負けされるのもうなずけます」

「……まあオーケイだろ。最高だ。ジュサプブロスのクソガキにこじ開けてもらう諸々もろもろ手管てくだより、一等物騒ぶっそうじゃなく済んだ。最低でも軍が出張ってくる前に、このまま謁見えっけんまでこぎつけるぞ」

 わきから妥当な納得要素をくれてくるゼラから目をらして、行く先を思い描く。

(そこからが勝負だ。俺たちは、出し抜けとは言え、旗司誓として王権側に謁見を求めた―――それだけに過ぎない。しかもキルルが、こちらに協力的な態度で加わっている。となれば、いきなり飛び道具を射かけられたり、真逆に最初から閉じ込められて兵糧ひょうろう攻めを受けるなんてこたぁねえだろう。籠城は最短で済ませ、キルルを引き渡すのを皮切りに……アーギルシャイアの臍帯さいたいについて、申し渡す)

 黙考は長引かなかった。

 看過できない変化に気付いたからだ。

 正確に言うなら、看過しておく予定だった変化が起こらなかった。

「おかしい。どうしてあの門番は、今もってしても呼び子の警笛けいてきさえ鳴らさねえ?」

「丸腰を武器にした、正装してのテロリズムですよ? 天下の奇観きかんに、膠着こうちゃくが延長したとして不思議ではありません」

「にしたって、いくらなんでも……―――」

 その時だった。

 曲線を調和させた王冠おうかん城の敷地では、そこを行く路地の作りもまたうねっている。その、見通しが利かない先へと、馬車が急カーブの角を曲がった直後。

 急に、大きく広がった広場に出た。一面が一色刷りの石造りで殺風景だが、キルルの解説に基づくなら、前庭のひとつである。中央には噴水。それを越えて向こう側には白亜のデューバンザンガイツ本殿が、まさしく神のかんむりのように嶄然ざんぜんそびえ立っている。

 それらを背負う構図で、噴水の前に長髪ちょうはつの青年がいた。そして、その両腕をどこまでも広げたかのように―――両脇からずらりと居並んだ、色の軍服を着込んだ泰然たいぜんたる連隊が。

「―――……!?」

 突っ切れ、と命令しようとして―――

 この高度からでさえ透視できる司左翼しさよくの布陣の厚さと、単にしつけられただけの駄馬だばでは突破とっぱなど不毛ふもうだろうことと、遁走とんそうできるような余裕の無い左右の建築構造と、引き返すにも遅すぎることと―――その一から十のすべてを、その瞬時でザーニーイは取りこぼした。

 正面中央の青年は、用意された椅子に細身をゆだねていた。優雅に足を組み、馬車もろとも雪崩込なだれこんできた颶風ぐふうまばたきひとつせず、ただただき鳴らされる頭頂とうちょうからの長い羽……その天然たる至高の四重奏しじゅうそうのただ中から、下界を睥睨へいげいする瞥見べっけんを、黄緑色の瞳に風然ふうぜんかして。

 しゃきり。しゃきり。しゃきり。だいだいに彩られた艶美えんびたる音色ねいろ耳底じていより失われる頃には、急制動を掛けるしかなくなった馬車もまた静止する。多少のどよめきはあったものの、落下するような不運に見舞われた乗員はいなかったようだ。だからこそ―――その声ばかりが、ひびき渡る。

「イヅェン!?」

「いかにも。小姉君ちいあねぎみ。ご無事でなにより」

 馬車から身を乗り出して悲鳴を上げたキルルに、その青年―――イヅェンは、富貴ふうきたる高慢こうまんそのものの応答をした。しかも厭味いやみなく。つまりは、美挙びきょ。それが彼の素地なのだろう。

 六、七メートルほどか。会話するには遠い距離だが、それでも実のきょうだい―――容貌ようぼう相似そうじに言及するまでもなく当人同士が自認しているのだから疑うべくもなかろう―――が、見誤る間合いではない。なにより、現前にて司左翼を従えた、膝丈ひざたけまであろうかというつばさ頭衣とういの持ち主が、それ以外の者であろうはずもない。

後継こうけい第三階梯かいてい……本人、だと?」

 ザーニーイは、雪だるま式に連発していく動転を押し殺して、襟巻えりまきの奥でひくりと笑いかけた。おいキルル、まさかこいつは、寝起き覚ましがてらの品行よろしいお散歩ってやつかい? 司左翼に、お輿こしかつがせての。

 現実的に咽喉いんこうをすり減らしてくれたのは、えも言えぬ―――それこそ、ぞっとしない冗談のような、不穏だったが。

「これは……どうなっている? 事前に計画が漏洩ろうえいして、ここまで誘い込まれたのなら―――なぜ今になっても司左翼は、曲者くせものめがけて捕縛ほばくなり撃破げきはなりの動きを取らない? しかも後継第三階梯を現場に立ち会わせて」

「分かりません。が、」

 声をひそめて、ゼラが吹聴ふいちょうしてくる。

「とりあえず、出来ることをしましょう。これが罠だったとしたら、一気呵成いっきかせいを断念させられたことに拘泥こうでいしている隙に、張られていた二重目三重目がやってくるに違いありません。せめて馬車から降りて、身動きに有利なようにしておかなければ。大丈夫……魔神も魔術も万全です。わたしから離れないで」

 を折らぬ部隊長第一席と眼差まなざしで黙契もっけいを交わして、ザーニーイは下車した。座位から立位へ、そして車体から地面へ……その程度の動作ですら随時ずいじ突っ張らせてくる、余裕のない作りをした正服せいふくに、つい気色ばみそうになるのを抑えながら。

 ついてくるゼラとキルルに続いて、旗司誓全員がそれに従う。御者ぎょしゃ役だけは、馬車うまをいなしてくれていた。よって、ザーニーイを突端として、そのやや後ろのゼラとキルルで三角形の底辺を作り、その後ろに残り全員で縦隊じゅうたいする構図となる。その陣形で……王宮と、対峙たいじする。

 研磨石を介してシゾーにも状況は伝わっているのだろうが、『受信』に専念しているらしく、混乱まみれの支離滅裂な助言をくれてきたりはしなかった。もとより、これによって伝播でんぱするのは、使用者の主観的な思念の一部でしかない。ザーニーイのあせ危惧きぐだけでは、口先だけでも一丁前の援兵えんぺいになれるような見通しなど、一向に立たないだろう。

狂瀾きょうらん既倒きとうめぐらせる、そのための一瞬を……はかれ。練成魔士れんせいましの、その時のために)

 冷静に自身へと言い聞かせながら、一心不乱に前方へ観察眼をる。司左翼は動かない。……が。

 ふわりと―――まさしく風に吹かれた羽毛のように。イヅェンが、はなはに極まる所作で、玉座から音もなく立ち上がった。そして、なんの儀礼か、心臓の真上からやや左を、左手の薬指と中指の付け根で押さえるような手つきをしながら、

「おはつお目にかかる。キフォーの義烈ぎれつの後継者、すなわち旗司誓きしせい彼に凝立する聖杯アブフ・ヒルビリ>。わたしはア族ルーゼ家ヴェリザハーが第三子、名をイヅェン。後継第三階梯である」

 頭からこぼれ落ちる豪奢ごうしゃいろどりを冷ますようなすずしげな朗吟ろうぎんは、声色からして熱を失くしている。だがそれが、こちらを囲繞いにょうしているがゆえの高飛車たかびしゃでないことは、見るだに知れた。その顔貌がんぼうには、糾弾きゅうだんの意も、排斥はいせきの念もない。しかも注視してみれば、司左翼の誰も彼もが、大掛かりな戦闘におもむく装備ではなかった。とは言え、砂臭すなくさ兇漢きょうかん軽侮けいぶしてのおもむきとも思えなかった。さしずめ、そういった軍事に関係した式典に端粛然たんしゅくぜんとしてのぞむ程度、といったところか。式典?

(なんだと)

 背筋せすじを走ったインスピレーションが、怖気おぞけを帯びて肺腑はいふを縛る。

 まるで、探知たんち縛錠ばくじょうされたザーニーイを見計らったかのような間の良さで、イヅェンがわずかばかりの隙間すきまくちびるに開かせた。

「<彼に凝立する聖杯アブフ・ヒルビリ>、此度こたびの【血肉の約定】の履行りこう大儀たいぎであった。だがしかし、こうして一方的きわまる内約通りにゆりたるからには、報知ほうち悉皆精細しっかいせいさいまでつまびらかにしていただけるのであろうな?」

(一方的な内約?)

 立て続けに つま先をくじいてくる疑念に、腹立たしさはつのる一方だったが。知ったことではないらしく、あっさりと奇問きもんが補足される。

「内密に、後継第二階梯返還を、斯様かように―――日時の前倒しのみならず、王冠城デューバンザンガイツへの直参じきさんへと変更せられるべし。そうでなくば、しんの【血肉の約定】は反故ほごとなり、秘め通した霹靂へきれき逝去せいきょが無駄になるとは、これ如何様いかようなことであるか? 高慮こうりょせしめん。卑見ひけん開陳かいちんせよ」

 ―――刹那せつな

 感じたのは、痛感ではなく、冷感だった。片顎かたあごから四横指おうしほど下、けい動脈の根元……ちくりと、しものひと粒を、そこの生肌なまはだに触れさせたような。ありふれた痛痒つうよう

 どうしようもなく脱力してくずおれる最中さなかにいてもなお、それを疑えずに。

 四肢しし体幹たいかん、内臓、眉目びもく睫毛まつげまで、おびただしい重量へと化けゆくすべての自重じじゅうに、なすすべなく引きずり倒される途中にも。信じられず。

 ザーニーイは、問いかけていた。

「ゼラ?」

「はい。そうですよ。まだ」

 簡明かんめいべんじて。

 ゼラは、ザーニーイの肩甲骨けんこうこつの合間から襟首えりくびに手を掛けて襟巻きごと握り込み、胸倉むなぐらつかみ上げる要領で支えた。もう片手で頭帯とうたいから頭蓋ずがい鷲掴わしづかみにして、呼吸にさわらぬよう固定する。前のめりに倒れ掛かったザーニーイの背後に回り、ゼラ自身にもたれ掛けさせる姿勢を取って、バランスを整えたかたちだ。

 よって真裏まうらにいるその人から、前方……王宮へ向けられた宣言を聞く。

「数々の無礼、ならびに拝趨はいすうへの申し開きを御宥恕ごゆうじょくだされたくそうろう―――後継第三階梯。わたしはゼラ……ゼラ・イェスカザ」

「返書の署名のつづりは、の方であったな。主客しゅかく見做みなし、聴許ちょうきょする」

「は」

 イヅェンに恐悦きょうえつした一拍分、ゼラの横隔膜の震えが伝わってきた。粛々しゅくしゅく口述こうじゅつしていく。

「旗司誓<彼に凝立する聖杯アブフ・ヒルビリ>、ここにしんの【血肉の約定】までも履行りこうしに参上つかまつりました。まずは、後継第二階梯をお返しいたします……こちら、右手に。そして、こちら、手元にて―――」

「ゼラさん?」

 キルルの疑問符が、やっとこさ、やってきた。

(駄目だ。キルル)

 思う。のだが、

(駄目だ。シゾー、お前も)

 声も出ない。弛緩しかんしきった舌は、根元からふくれているくせに、息の根すら詰まらせない。

 底力そこぢからも出ない。指一本どころか、半眼はんがんたる眼瞼がんけんを上に退かすことすらままならない。

 手も足も出ない。けん手斧ちょうななどと言う以前に、肘鉄ひじてつすら満足に発揮できないような布地に押し込められている。

 竜ではないので、頭帯とうたいめ具を外そうと触れられた喉元のどもと逆鱗げきりんも無く。だからだろう。涙も出ない。

八味はちみねこあか毛針けばりです。自律神経系以外は微動びどうだに出来ないでしょうけれど、麻痺まひが解けてからも舌をみ切ろうなどと、努々ゆめゆめ考えませんよう。その冥途めいどに、<彼に凝立する聖杯アブフ・ヒルビリ>全員が連れ立つことになる―――諾否だくひかまわず、汚辱おじょくぎぬを着せられた上でね」

 言い残されたあと。

 頭帯とうたいを、その下にあった金髪じみた髪毛かみげの かつらごと、ゼラにぎ取られながら。

 あらわとなった紅蓮ぐれん色のはね地毛じげが舞い落ちる影から、彼女は その声を聴く。しゃきり。しゃきり。しゃきり。しゃきり。

 のろわれたのか。

 言祝ことほがれたのか。

 分かりはしない。ただし、分からなかったところで、……ただ手向たむけられたがゆえに、そのように語られた。心から、おくる―――言葉。

「さようなら。永遠えいえんに。シヴツェイア・ザーニーイ」

 そして、彼女の楽園は崩壊ほうかいした。言うなれば、……いまだに語られし現世うつしよ奉呈ほうていされることのない その終末の到来のように。

 あたかもそれは<楽園崩壊ロワイエゲシア>。



     □ ■ □ ■ □



「キルルちゃん。覚えていますか? あの宴会の夜に、君はこう言った。男の子だからせ我慢してる―――そんな一言ひとことぽっちの理由で死んじゃったら馬鹿みたい、と」

 あらわである紅蓮ぐれん色のはね地毛じげの影から、彼女もまた、その声を聴く。

 のろわれたにせよ。

 言祝ことほがれたにせよ。

 それを疑わぬうちは。

 それを信じぬまでは。

 賢くあれど。

 愚かしくなれど。

 分かりはしない。ただし、分からなかったところで、……ただ心向こころむくまま、そのように語られた。心ない、送る―――言葉。

「わたしも大いに同感です」

 そして、彼女の世界は崩落ほうらくした。言うなれば、……かつて語られし楽園カオロワイズ奉呈ほうていされた その終末の到来のように。

 それ ありうるなら<楽園崩落ロワイエゲゾス>。



     □ ■ □ ■ □



 楽園は失われた。

 世界は すげ替わる。

 それは摂理。ザライザン・ロワナンと命ぜられた。声高こわだかざりとて永久とこしえ雄叫おたけぶ、欲するは許諾きょだくすなわち録視書ろくししょ

 欲されたところで。ことわるあたわず、みことのり

 許されることもない。ことわりゆえの、みことのり

 みことり―――せいおもむくまま生きるなら―――、それは繁栄はんえい根源こんげんたるほろびの結果。

 みことり―――であらば これも当然―――、それは禁忌きんきと等価たる。

 三言みことり―――ならすべからく―――、それは、ここに三言みこと

 いついわく、それは同質。

 いわく、それは同一。

 いわく、それは正逆せいぎゃく

 なればこそ、きっと、これは恋と愛の話。

 だからこそ、これは、愛でも恋でもない話。

 

 

 

 

 

 いざ知らず。それでも なお。

 ためなるや、されどこれは続く。
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浮気ばかりする恋人を振ってから俺の憂鬱は始まった…。 ――――――‥ ――… もう、うんざりしていた。 俺は所謂、"平凡"ってヤツで、付き合っていた恋人はまるで王子様。向こうから告ってきたとは言え、外見上 釣り合わないとは思ってたけど… こうも、 堂々と恋人の前で浮気ばかり繰り返されたら、いい加減 百年の恋も冷めるというもの- 『別れてください』 だから、俺から別れを切り出した。 それから、 俺の憂鬱な日常は始まった――…。

異世界へ誤召喚されちゃいました~女神の加護でほのぼのスローライフ送ります~

モーリー
ファンタジー
⭐︎第4回次世代ファンタジーカップ16位⭐︎ 飛行機事故で両親が他界してしまい、社会人の長男、高校生の長女、幼稚園児の次女で生きることになった御剣家。 保険金目当てで寄ってくる奴らに嫌気がさしながらも、3人で支え合いながら生活を送る日々。 そんな矢先に、3人揃って異世界に召喚されてしまった。 召喚特典として女神たちが加護やチート能力を与え、異世界でも生き抜けるようにしてくれた。 強制的に放り込まれた異世界。 知らない土地、知らない人、知らない世界。 不安をはねのけながら、時に怖い目に遭いながら、3人で異世界を生き抜き、平穏なスローライフを送る。 そんなほのぼのとした物語。

転生テイマー、異世界生活を楽しむ

さっちさん
ファンタジー
題名変更しました。 内容がどんどんかけ離れていくので… ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓ ありきたりな転生ものの予定です。 主人公は30代後半で病死した、天涯孤独の女性が幼女になって冒険する。 一応、転生特典でスキルは貰ったけど、大丈夫か。私。 まっ、なんとかなるっしょ。

司書ですが、何か?

みつまめ つぼみ
ファンタジー
 16歳の小さな司書ヴィルマが、王侯貴族が通う王立魔導学院付属図書館で仲間と一緒に仕事を頑張るお話です。  ほのぼの日常系と思わせつつ、ちょこちょこドラマティックなことも起こります。ロマンスはふんわり。

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