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転章
転章 第二部
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夜明け前だった。
朝焼けと入れ替わるように、ザーニーイは要塞の玄関石畳から雹砂へと踏み出した。悔踏区域外輪を往復するだけで雹砂にやられて穴が開きそうな、見てくれだけの薄っぺらい革靴は頼りない―――それでも、一歩は一歩だった。
普段と異なるのは、靴だけではない。服装もまた、純白に準じた正装の上下に一糸の乱れなく整えて、格式ばった上っ張りまで着込んでいた。国賓級の国儀に参加するのに相応しい、正統極まる出で立ちである。武器は、寸鉄どころか鉛鋲ひとつ帯びていない。ターバンはせず頭巾を被り、肩口まで垂らしたそれを留めるために頭帯を巻いている。そして、真紅の襟巻き―――旗司誓の心臓を擬った象徴。敢えて言うなら……この扮装こそが、今回限定の武装だった。
ほぼ同じ服装をしたゼラが、背後に連れ立っていた。ザーニーイが振り返れば、その人がまず目に入り―――その更に三歩ほど奥まった要塞廊下壁際に、シゾーがいる。彼は通常通りの旗司誓らしい装備と普段着で……ただしそのことこそが最たる事変であると、捩った眉宇にありありと語らせながら。
口火を切ったのは、ゼラだった。長袖の影から二重手袋を覗かせて、キルルのチェストと戦端旗を、【血肉の約定】の当日と同じように抱えている。ただし頭巾の下の髪型だけは、しっかりオールバックにして後頭に纏めていた。これもまた正装に誂えたのだろうが。
「いきましょう」
応えるべく、ザーニーイもまた、後ろへと声を振る。
「いってくる」
―――シゾーも、時間をかけて、それを口にした。
「いってらっしゃい」
そこに、キルルが加わった。ここに来た時の高価な服装に戻り、……ザーニーイたちならびに旗司誓およそ二十名あまり、そのずらりと正装した頭巾姿の集団に、違和感なく溶け込みながら。
さようなら、と呟いているのが背後から聞こえてきたが、彼女に振り向くわけには行かない。自分はリーダーだ。リードする。ならば先導を。それだけだ。
ザーニーイを先頭に、部隊を連れて、正門へとグラウンドを進む。保守のために残される、その他大勢の旗司誓が、両サイドに道を開けていた……その中央を、進んでいく。
群衆の中には、エニイージーもいた。周囲よりも格別の熱誠を膿ませて、食い入るような凝視をこちらに繋いでいる。
(……人選に、稟請を申し立てるかもと思っていたけどな)
エニイージーは、保守側に回されていた。ゼラを連れていく以上、練成魔士に次いで戦闘力がある騎獣系統一式は、分散させず残していく必要がある。よって作戦の投了まで、ゾラージャ率いる第五部隊は、基本的にここに駐屯となる見込みだが―――それ以前に、今回の行動メンバーは、ゼラ以外は赤い体毛をした者から選抜すると前提条件に示していた。目には目を、ではないが……それでも、張り合える要素は整えておくに越したことはない。
(それに―――これなら、残される奴らも、贔屓されたとか差別だとか騒ぎやしねえだろう。生まれついての向き・不向きだ)
ザーニーイは、吐きかけた息を隠した。ため息だったから。
そして、用意されていた馬車に―――馬に牽かせた、幌のない馬車二台に、二班に分かれて乗り込む。十名前後ずつ、ザーニーイとキルルとゼラが固まった前班と、それの背面を固める後班と。どちらの御者役の旗司誓もまた正装しており、その頭髪の色彩を隠しての頭巾姿である。馬車は、乗り合い馬車のように壁沿いに座席が設けられている仕様ではなく、全列が前を向いた造作をしていた。車体や車輪の形状なども、街路以外で、街路以上の速度を出すことを念頭に置いてある。訓練が行き届いた軍馬と護衛犬までは調達できなかったが、背に腹は代えられない。
合図を受けて、その二台が動き出した。昂然と、ゼラが戦端旗を構える。
翩翻とたなびいた青い鴉の翼が、その双頭三肢を、神蛇デューバンザンガイツへ向けた―――悔踏区域外輪から吶喊した、その瞬間だった。
「背の二十重ある祝福に、背に二十重ある祝福を!」
機鋒を表敬する声も、敬礼の仕草も、遠ざかる。
一刻。こく一刻。刻限を終えて悔踏区域外輪を抜けてからも、声援が名残惜しく思えるようなトラブルもなく―――ある程度の武装犯罪者は徽章を示すことによる恐嚇が可能で、それすら感じない程度の鈍磨な徒党ならゼラの魔術で一蹴できようが、むしろこんな時はプレッシャーから腹を下したりといった例が地味にダメージだ―――、警戒環に到着した。
そこで予定通り、棒から外した旗幟を、外套のようにザーニーイが羽織って佇立する。そして、全員で頭巾を取った。
東雲のもと。乾燥と荒廃に蚕食された、白っぽいだけの野原にて。それは、ただ赤いと十把一絡げにするだけでは済まされない―――絶景だった。
赭。朱華。
柘榴。水柿。梅重。
臙脂・紅・鼠。紅八塩。
薄く蘇芳香。濃く鴇浅葱。
朝日を捏ねた猩々緋。夕日を寝かせた宗伝唐茶。
個人差こそあれ、これだけの人数が正装のうえ在野にて一斉に暖色系の頭髪をひけらかすなど、これ前代未聞である。しかも全員が全員、体格がいい若者とくれば、否が応でも目を引いた。絶景かな絶景かな、その効力効能たるや凄まじく、水も滴るいい男や着飾った貴族など見慣れているであろうキルルでさえ、驚天動地にドタマをはたかれ、しばらく あんぐりと見とれてしまっていたのが横目で確認できる。その旗司誓たち当人らと言えば、常日頃から悪目立ちを避けて自発的に覆い隠していた者がほとんどの中、方々で ほっとしたような息を吐いたり、ほっとしたことを後悔するように吐息を噛み殺している。抑圧され、根深く積んできた葛藤や因縁も人それぞれで、だからこそ一入の感慨もまた一握し切れるような一概で済まないのだ。
(直前まで武装して、門外にてそれを解除する案も出ていたが、割愛して正解だったな)
ゼラに一瞥を往復させて、ザーニーイは頭帯―――研磨石のこともあり、これだけは外すわけにはいかない―――を締め直した。
(なによりもスピードを第一に取った方が、万が一も万が二も振り切ることができる……か。有能すぎるのも玉に瑕だぜ。相も変わらず、実感してから真に迫る例え話をしてくれやがって)
武装の重量で車速が落ちることにより武装犯罪者に目をつけられやすくなるというのが万が一ならば、スタートから時間が掛かれば掛かるほど連帯がばらけやすくなるというのが、万が二……そんなところか。目的地も目標も同じであれ、持ち前の心構えや持久力などのパーソナルな差異から、どうしても集団としてのまとまりは経時的に劣化する。それを見計らいながら全体としての牽引を維持するのがザーニーイの役目でもあるのだが、抜本的にそれらを解決するのが、到達までの時間短縮だ。要は、精神力も体力も余裕があるうちに終わらせること。
(そうだな。それも併せて……これからも、うまくいく。この人が付いてるんだ。だから、きっとだ)
襟巻きを口許まで引き上げて、その真紅へ吹き込むように、ザーニーイは独白した。
首都外壁の門番は、まずはキルルらを最先に貴族然と正装を固めた赤毛頭の集団が現れたことに ぎょっと息を呑んで、更にはザーニーイの背で闡明にされた旌旗に、呑んでいたそれを ぶはごほ吐呑した。旗司誓であるにもかかわらず一切の武器を携帯していないことを咎められて留保措置を取られる場合も想定していたのだが、所詮は司右翼の末端である……関わり合いになるのを避けて、職分と我が身可愛さに忠実に、壁内へと通してくれる。
壁外へと農耕に向かう者、壁内にて朝支度に取り掛かっていた者、あるいは昨夜の痛飲覚めやらぬ中で路傍に車座を組んでいた飲んだくれ三人組までもが、馬車二台にわたる孤狼の凱旋に両目を釘付けにされて、大口を開けていた。
「なんだありゃ。青錦の……御旗? あんなもん背負い込んでからに。てこたぁ、旗司誓?」
「見ろよ。野郎の背中。ご大層な お化け鴉が、でっけえ翼を広げてらあ」
「ああ。しかもあの鴉、二股頭にゃ月と太陽、三本脚にゃあ両刃の長剣。いやはや、まっさらな白づくめ、赤毛に青い旗……こいつは天晴れだぁな」
「知ってるぞ。あの紋章は<彼に凝立する聖杯>だ。間違えるもんか。俺ぁ昔、<風青烏>を通じて依頼を上げたことがあるんだ」
「はっ。騙されてろよ、おたんこなすのスットコドッコイめ。どうせまた、お貴族サマの新手の酔狂さ。見やがれっての。ぴかぴか おべべに、ふてぶてしい態度を詰め込んで、真っ赤っ々のお毛毛をトサカみてぇに おっ立てて。大方これから夜討ち朝駆けで、砂臭ぇお遊戯でもするんだろうさ」
「じゃあ、なんで上に行くんだよ? 三戒域は下だろ」
「はっ。そいつが分かりさえすりゃあ、俺っちだって今時分、赤い毛生やして伊達男。贅沢三昧してらぁな」
「はは! そいつは謹聴・謹聴」
「なんか知らんが―――ほとほと、壮観だな」
王裾街から、王襟街へ。更に……上へ。
往来からの軒並みの衆目を堂々と魅了しながら、ただひたすらに王冠城を目指して行く。上等住宅街路から更に上っていく道のりは、収集済みだった情報をキルルが裏付けてくれた。そして、王城の門扉の前まで―――至る。
こちらを視認した時から門の前に出てきていた数人の番人が、肝を潰された顔を揃い踏みさせていた。
「……後継第二階梯」
「まさか……本当に……」
驚波されること、半秒足らず。
彼らは、機構を操作し、門を開けた。人間だけが出入り可能な側門ではなく、ばたんと倒れようものなら通行人を三十余名は圧殺しかねないほどに巨大な、正門の方を。
「お通りください」
言われるまでもないのだが。
進攻を再開した馬車上で顔を顰め、ザーニーイは頭帯に触れた。研磨石からシゾーの声がしたのではなく―――事前の打ち合わせで、彼には行動中『受信』状態のみにしておくよう言い含めてあるので、叩打音すらしない―――、し慣れない頭巾の着脱などしたせいで、うまいこと締まっていない気がする。
「いくらキルルがいたにせよ、王城の門番相手に顔パスだと? ……すんなり行くのも、気味悪ぃもんだな」
「おそらくは、司右翼に入団したという箔付けのためだけに持参金を収めたような子息子弟の、成長版でしょう。それなら、この一団に威圧負けされるのも頷けます」
「……まあオーケイだろ。最高だ。ジュサプブロスのクソガキにこじ開けてもらう諸々の手管より、一等物騒じゃなく済んだ。最低でも軍が出張ってくる前に、このまま謁見までこぎつけるぞ」
わきから妥当な納得要素をくれてくるゼラから目を逸らして、行く先を思い描く。
(そこからが勝負だ。俺たちは、出し抜けとは言え、旗司誓として王権側に謁見を求めた―――それだけに過ぎない。しかもキルルが、こちらに協力的な態度で加わっている。となれば、いきなり飛び道具を射かけられたり、真逆に最初から閉じ込められて兵糧攻めを受けるなんてこたぁねえだろう。籠城は最短で済ませ、キルルを引き渡すのを皮切りに……アーギルシャイアの臍帯について、申し渡す)
黙考は長引かなかった。
看過できない変化に気付いたからだ。
正確に言うなら、看過しておく予定だった変化が起こらなかった。
「おかしい。どうしてあの門番は、今もってしても呼び子の警笛さえ鳴らさねえ?」
「丸腰を武器にした、正装してのテロリズムですよ? 天下の奇観に、膠着が延長したとして不思議ではありません」
「にしたって、幾らなんでも……―――」
その時だった。
曲線を調和させた王冠城の敷地では、そこを行く路地の作りもまたうねっている。その、見通しが利かない先へと、馬車が急カーブの角を曲がった直後。
急に、大きく広がった広場に出た。一面が一色刷りの石造りで殺風景だが、キルルの解説に基づくなら、前庭のひとつである。中央には噴水。それを越えて向こう側には白亜のデューバンザンガイツ本殿が、まさしく神の冠のように嶄然と聳え立っている。
それらを背負う構図で、噴水の前に長髪の青年がいた。そして、その両腕をどこまでも広げたかのように―――両脇からずらりと居並んだ、緋色の軍服を着込んだ泰然たる連隊が。
「―――……!?」
突っ切れ、と命令しようとして―――
この高度からでさえ透視できる司左翼の布陣の厚さと、単に躾けられただけの駄馬では突破など不毛だろうことと、遁走できるような余裕の無い左右の建築構造と、引き返すにも遅すぎることと―――その一から十のすべてを、その瞬時でザーニーイは取りこぼした。
正面中央の青年は、用意された椅子に細身を委ねていた。優雅に足を組み、馬車もろとも雪崩込んできた颶風に瞬きひとつせず、ただただ掻き鳴らされる頭頂からの長い羽……その天然たる至高の四重奏のただ中から、下界を睥睨する瞥見を、黄緑色の瞳に風然と溶かして。
しゃきり。しゃきり。しゃきり。緋と橙に彩られた艶美たる音色が耳底より失われる頃には、急制動を掛けるしかなくなった馬車もまた静止する。多少のどよめきはあったものの、落下するような不運に見舞われた乗員はいなかったようだ。だからこそ―――その声ばかりが、響き渡る。
「イヅェン!?」
「いかにも。小姉君。ご無事でなにより」
馬車から身を乗り出して悲鳴を上げたキルルに、その青年―――イヅェンは、富貴たる高慢そのものの応答をした。しかも厭味なく。つまりは、美挙。それが彼の素地なのだろう。
六、七メートルほどか。会話するには遠い距離だが、それでも実のきょうだい―――容貌の相似に言及するまでもなく当人同士が自認しているのだから疑うべくもなかろう―――が、見誤る間合いではない。なにより、現前にて司左翼を従えた、膝丈まであろうかという翼の頭衣の持ち主が、それ以外の者であろうはずもない。
「後継第三階梯……本人、だと?」
ザーニーイは、雪だるま式に連発していく動転を押し殺して、襟巻きの奥でひくりと笑いかけた。おいキルル、まさかこいつは、寝起き覚ましがてらの品行よろしいお散歩ってやつかい? 司左翼に、お輿を担がせての。
現実的に咽喉をすり減らしてくれたのは、えも言えぬ―――それこそ、ぞっとしない冗談のような、不穏だったが。
「これは……どうなっている? 事前に計画が漏洩して、ここまで誘い込まれたのなら―――なぜ今になっても司左翼は、曲者めがけて捕縛なり撃破なりの動きを取らない? しかも後継第三階梯を現場に立ち会わせて」
「分かりません。が、」
声をひそめて、ゼラが吹聴してくる。
「とりあえず、出来ることをしましょう。これが罠だったとしたら、一気呵成を断念させられたことに拘泥している隙に、張られていた二重目三重目がやってくるに違いありません。せめて馬車から降りて、身動きに有利なようにしておかなければ。大丈夫……魔神も魔術も万全です。わたしから離れないで」
我を折らぬ部隊長第一席と眼差しで黙契を交わして、ザーニーイは下車した。座位から立位へ、そして車体から地面へ……その程度の動作ですら随時突っ張らせてくる、余裕のない作りをした正服に、つい気色ばみそうになるのを抑えながら。
ついてくるゼラとキルルに続いて、旗司誓全員がそれに従う。御者役だけは、馬車馬をいなしてくれていた。よって、ザーニーイを突端として、そのやや後ろのゼラとキルルで三角形の底辺を作り、その後ろに残り全員で縦隊する構図となる。その陣形で……王宮と、対峙する。
研磨石を介してシゾーにも状況は伝わっているのだろうが、『受信』に専念しているらしく、混乱まみれの支離滅裂な助言をくれてきたりはしなかった。もとより、これによって伝播するのは、使用者の主観的な思念の一部でしかない。ザーニーイの焦る危惧だけでは、口先だけでも一丁前の援兵になれるような見通しなど、一向に立たないだろう。
(狂瀾を既倒に回らせる、そのための一瞬を……はかれ。練成魔士の、その時のために)
冷静に自身へと言い聞かせながら、一心不乱に前方へ観察眼を縒る。司左翼は動かない。……が。
ふわりと―――まさしく風に吹かれた羽毛のように。イヅェンが、甚だ雅に極まる所作で、玉座から音もなく立ち上がった。そして、なんの儀礼か、心臓の真上からやや左を、左手の薬指と中指の付け根で押さえるような手つきをしながら、
「お初お目にかかる。キフォーの義烈の後継者、すなわち旗司誓<彼に凝立する聖杯>。わたしはア族ルーゼ家ヴェリザハーが第三子、名をイヅェン。後継第三階梯である」
頭から零れ落ちる豪奢な彩りを冷ますような涼しげな朗吟は、声色からして熱を失くしている。だがそれが、こちらを囲繞しているがゆえの高飛車でないことは、見るだに知れた。その顔貌には、糾弾の意も、排斥の念もない。しかも注視してみれば、司左翼の誰も彼もが、大掛かりな戦闘に赴く装備ではなかった。とは言え、砂臭い兇漢を軽侮しての趣きとも思えなかった。さしずめ、そういった軍事に関係した式典に端粛然として臨む程度、といったところか。式典?
(なんだと)
背筋を走ったインスピレーションが、怖気を帯びて肺腑を縛る。
まるで、探知に縛錠されたザーニーイを見計らったかのような間の良さで、イヅェンが僅かばかりの隙間を唇に開かせた。
「<彼に凝立する聖杯>、此度の【血肉の約定】の履行、大儀であった。だがしかし、こうして一方的極まる内約通りに踰ゆりたるからには、報知の悉皆精細まで詳らかにしていただけるのであろうな?」
(一方的な内約?)
立て続けに つま先を挫いてくる疑念に、腹立たしさは募る一方だったが。知ったことではないらしく、あっさりと奇問が補足される。
「内密に、後継第二階梯返還を、斯様に―――日時の前倒しのみならず、王冠城デューバンザンガイツへの直参へと変更せられるべし。そうでなくば、真の【血肉の約定】は反故となり、秘め通した霹靂の逝去が無駄になるとは、これ如何様なことであるか? 高慮せしめん。其の卑見を開陳せよ」
―――刹那。
感じたのは、痛感ではなく、冷感だった。片顎から四横指ほど下、頸動脈の根元……ちくりと、霜のひと粒を、そこの生肌に触れさせたような。ありふれた痛痒。
どうしようもなく脱力して頽れる最中にいてもなお、それを疑えずに。
四肢、体幹、内臓、眉目、睫毛まで、夥しい重量へと化けゆく全ての自重に、なすすべなく引きずり倒される途中にも。信じられず。
ザーニーイは、問いかけていた。
「ゼラ?」
「はい。そうですよ。まだ」
簡明に弁じて。
ゼラは、ザーニーイの肩甲骨の合間から襟首に手を掛けて襟巻きごと握り込み、胸倉を掴み上げる要領で支えた。もう片手で頭帯から頭蓋を鷲掴みにして、呼吸に障らぬよう固定する。前のめりに倒れ掛かったザーニーイの背後に回り、ゼラ自身に凭れ掛けさせる姿勢を取って、バランスを整えたかたちだ。
よって真裏にいるその人から、前方……王宮へ向けられた宣言を聞く。
「数々の無礼、ならびに拝趨への申し開きを御宥恕くだされたく候―――後継第三階梯。わたしはゼラ……ゼラ・イェスカザ」
「返書の署名の綴りは、其の方であったな。主客と見做し、聴許する」
「は」
イヅェンに恐悦した一拍分、ゼラの横隔膜の震えが伝わってきた。粛々と口述していく。
「旗司誓<彼に凝立する聖杯>、ここに真の【血肉の約定】までも履行しに参上つかまつりました。まずは、後継第二階梯をお返しいたします……こちら、右手に。そして、こちら、手元にて―――」
「ゼラさん?」
キルルの疑問符が、やっとこさ、やってきた。
(駄目だ。キルル)
思う。のだが、
(駄目だ。シゾー、お前も)
声も出ない。弛緩しきった舌は、根元から膨れているくせに、息の根すら詰まらせない。
底力も出ない。指一本どころか、半眼に弛む眼瞼を上に退かすことすら儘ならない。
手も足も出ない。剣や手斧などと言う以前に、肘鉄すら満足に発揮できないような布地に押し込められている。
竜ではないので、頭帯の留め具を外そうと触れられた喉元に逆鱗も無く。だからだろう。涙も出ない。
「八味猫の赤毛針です。自律神経系以外は微動だに出来ないでしょうけれど、麻痺が解けてからも舌を噛み切ろうなどと、努々考えませんよう。その冥途に、<彼に凝立する聖杯>全員が連れ立つことになる―――諾否かまわず、汚辱と濡れ衣を着せられた上でね」
言い残されたあと。
頭帯を、その下にあった金髪じみた髪毛の かつらごと、ゼラに剥ぎ取られながら。
あらわとなった紅蓮色の羽の地毛が舞い落ちる影から、彼女は その声を聴く。しゃきり。しゃきり。しゃきり。しゃきり。
呪われたのか。
言祝がれたのか。
分かりはしない。ただし、分からなかったところで、……ただ手向けられたがゆえに、そのように語られた。心から、贈る―――言葉。
「さようなら。永遠に。シヴツェイア・ザーニーイ」
そして、彼女の楽園は崩壊した。言うなれば、……いまだに語られし現世、奉呈されることのない その終末の到来のように。
あたかもそれは<楽園崩壊>。
□ ■ □ ■ □
「キルルちゃん。覚えていますか? あの宴会の夜に、君はこう言った。男の子だから痩せ我慢してる―――そんな一言ぽっちの理由で死んじゃったら馬鹿みたい、と」
あらわである紅蓮色の羽の地毛の影から、彼女もまた、その声を聴く。
呪われたにせよ。
言祝がれたにせよ。
それを疑わぬうちは。
それを信じぬまでは。
賢くあれど。
愚かしくなれど。
分かりはしない。ただし、分からなかったところで、……ただ心向くまま、そのように語られた。心ない、送る―――言葉。
「わたしも大いに同感です」
そして、彼女の世界は崩落した。言うなれば、……かつて語られし楽園、奉呈された その終末の到来のように。
それ ありうるなら<楽園崩落>。
□ ■ □ ■ □
楽園は失われた。
世界は すげ替わる。
それは摂理。ザライザン・ロワナンと命ぜられた。声高ざりとて永久に雄叫ぶ、欲するは許諾すなわち録視書。
欲されたところで。断わる能わず、勅。
許されることもない。理ゆえの、詔。
命則り―――生赴くまま生きるなら―――、それは繁栄の根源たる滅びの結果。
尊規り―――であらば これも当然―――、それは禁忌と等価たる。
三言法り―――なら須らく―――、それは、ここに在る三言。
一に曰く、それは同質。
二に曰く、それは同一。
三に曰く、それは正逆。
なればこそ、きっと、これは恋と愛の話。
だからこそ、これは、愛でも恋でもない話。
いざ知らず。それでも なお。
誰が為なるや、されどこれは続く。
朝焼けと入れ替わるように、ザーニーイは要塞の玄関石畳から雹砂へと踏み出した。悔踏区域外輪を往復するだけで雹砂にやられて穴が開きそうな、見てくれだけの薄っぺらい革靴は頼りない―――それでも、一歩は一歩だった。
普段と異なるのは、靴だけではない。服装もまた、純白に準じた正装の上下に一糸の乱れなく整えて、格式ばった上っ張りまで着込んでいた。国賓級の国儀に参加するのに相応しい、正統極まる出で立ちである。武器は、寸鉄どころか鉛鋲ひとつ帯びていない。ターバンはせず頭巾を被り、肩口まで垂らしたそれを留めるために頭帯を巻いている。そして、真紅の襟巻き―――旗司誓の心臓を擬った象徴。敢えて言うなら……この扮装こそが、今回限定の武装だった。
ほぼ同じ服装をしたゼラが、背後に連れ立っていた。ザーニーイが振り返れば、その人がまず目に入り―――その更に三歩ほど奥まった要塞廊下壁際に、シゾーがいる。彼は通常通りの旗司誓らしい装備と普段着で……ただしそのことこそが最たる事変であると、捩った眉宇にありありと語らせながら。
口火を切ったのは、ゼラだった。長袖の影から二重手袋を覗かせて、キルルのチェストと戦端旗を、【血肉の約定】の当日と同じように抱えている。ただし頭巾の下の髪型だけは、しっかりオールバックにして後頭に纏めていた。これもまた正装に誂えたのだろうが。
「いきましょう」
応えるべく、ザーニーイもまた、後ろへと声を振る。
「いってくる」
―――シゾーも、時間をかけて、それを口にした。
「いってらっしゃい」
そこに、キルルが加わった。ここに来た時の高価な服装に戻り、……ザーニーイたちならびに旗司誓およそ二十名あまり、そのずらりと正装した頭巾姿の集団に、違和感なく溶け込みながら。
さようなら、と呟いているのが背後から聞こえてきたが、彼女に振り向くわけには行かない。自分はリーダーだ。リードする。ならば先導を。それだけだ。
ザーニーイを先頭に、部隊を連れて、正門へとグラウンドを進む。保守のために残される、その他大勢の旗司誓が、両サイドに道を開けていた……その中央を、進んでいく。
群衆の中には、エニイージーもいた。周囲よりも格別の熱誠を膿ませて、食い入るような凝視をこちらに繋いでいる。
(……人選に、稟請を申し立てるかもと思っていたけどな)
エニイージーは、保守側に回されていた。ゼラを連れていく以上、練成魔士に次いで戦闘力がある騎獣系統一式は、分散させず残していく必要がある。よって作戦の投了まで、ゾラージャ率いる第五部隊は、基本的にここに駐屯となる見込みだが―――それ以前に、今回の行動メンバーは、ゼラ以外は赤い体毛をした者から選抜すると前提条件に示していた。目には目を、ではないが……それでも、張り合える要素は整えておくに越したことはない。
(それに―――これなら、残される奴らも、贔屓されたとか差別だとか騒ぎやしねえだろう。生まれついての向き・不向きだ)
ザーニーイは、吐きかけた息を隠した。ため息だったから。
そして、用意されていた馬車に―――馬に牽かせた、幌のない馬車二台に、二班に分かれて乗り込む。十名前後ずつ、ザーニーイとキルルとゼラが固まった前班と、それの背面を固める後班と。どちらの御者役の旗司誓もまた正装しており、その頭髪の色彩を隠しての頭巾姿である。馬車は、乗り合い馬車のように壁沿いに座席が設けられている仕様ではなく、全列が前を向いた造作をしていた。車体や車輪の形状なども、街路以外で、街路以上の速度を出すことを念頭に置いてある。訓練が行き届いた軍馬と護衛犬までは調達できなかったが、背に腹は代えられない。
合図を受けて、その二台が動き出した。昂然と、ゼラが戦端旗を構える。
翩翻とたなびいた青い鴉の翼が、その双頭三肢を、神蛇デューバンザンガイツへ向けた―――悔踏区域外輪から吶喊した、その瞬間だった。
「背の二十重ある祝福に、背に二十重ある祝福を!」
機鋒を表敬する声も、敬礼の仕草も、遠ざかる。
一刻。こく一刻。刻限を終えて悔踏区域外輪を抜けてからも、声援が名残惜しく思えるようなトラブルもなく―――ある程度の武装犯罪者は徽章を示すことによる恐嚇が可能で、それすら感じない程度の鈍磨な徒党ならゼラの魔術で一蹴できようが、むしろこんな時はプレッシャーから腹を下したりといった例が地味にダメージだ―――、警戒環に到着した。
そこで予定通り、棒から外した旗幟を、外套のようにザーニーイが羽織って佇立する。そして、全員で頭巾を取った。
東雲のもと。乾燥と荒廃に蚕食された、白っぽいだけの野原にて。それは、ただ赤いと十把一絡げにするだけでは済まされない―――絶景だった。
赭。朱華。
柘榴。水柿。梅重。
臙脂・紅・鼠。紅八塩。
薄く蘇芳香。濃く鴇浅葱。
朝日を捏ねた猩々緋。夕日を寝かせた宗伝唐茶。
個人差こそあれ、これだけの人数が正装のうえ在野にて一斉に暖色系の頭髪をひけらかすなど、これ前代未聞である。しかも全員が全員、体格がいい若者とくれば、否が応でも目を引いた。絶景かな絶景かな、その効力効能たるや凄まじく、水も滴るいい男や着飾った貴族など見慣れているであろうキルルでさえ、驚天動地にドタマをはたかれ、しばらく あんぐりと見とれてしまっていたのが横目で確認できる。その旗司誓たち当人らと言えば、常日頃から悪目立ちを避けて自発的に覆い隠していた者がほとんどの中、方々で ほっとしたような息を吐いたり、ほっとしたことを後悔するように吐息を噛み殺している。抑圧され、根深く積んできた葛藤や因縁も人それぞれで、だからこそ一入の感慨もまた一握し切れるような一概で済まないのだ。
(直前まで武装して、門外にてそれを解除する案も出ていたが、割愛して正解だったな)
ゼラに一瞥を往復させて、ザーニーイは頭帯―――研磨石のこともあり、これだけは外すわけにはいかない―――を締め直した。
(なによりもスピードを第一に取った方が、万が一も万が二も振り切ることができる……か。有能すぎるのも玉に瑕だぜ。相も変わらず、実感してから真に迫る例え話をしてくれやがって)
武装の重量で車速が落ちることにより武装犯罪者に目をつけられやすくなるというのが万が一ならば、スタートから時間が掛かれば掛かるほど連帯がばらけやすくなるというのが、万が二……そんなところか。目的地も目標も同じであれ、持ち前の心構えや持久力などのパーソナルな差異から、どうしても集団としてのまとまりは経時的に劣化する。それを見計らいながら全体としての牽引を維持するのがザーニーイの役目でもあるのだが、抜本的にそれらを解決するのが、到達までの時間短縮だ。要は、精神力も体力も余裕があるうちに終わらせること。
(そうだな。それも併せて……これからも、うまくいく。この人が付いてるんだ。だから、きっとだ)
襟巻きを口許まで引き上げて、その真紅へ吹き込むように、ザーニーイは独白した。
首都外壁の門番は、まずはキルルらを最先に貴族然と正装を固めた赤毛頭の集団が現れたことに ぎょっと息を呑んで、更にはザーニーイの背で闡明にされた旌旗に、呑んでいたそれを ぶはごほ吐呑した。旗司誓であるにもかかわらず一切の武器を携帯していないことを咎められて留保措置を取られる場合も想定していたのだが、所詮は司右翼の末端である……関わり合いになるのを避けて、職分と我が身可愛さに忠実に、壁内へと通してくれる。
壁外へと農耕に向かう者、壁内にて朝支度に取り掛かっていた者、あるいは昨夜の痛飲覚めやらぬ中で路傍に車座を組んでいた飲んだくれ三人組までもが、馬車二台にわたる孤狼の凱旋に両目を釘付けにされて、大口を開けていた。
「なんだありゃ。青錦の……御旗? あんなもん背負い込んでからに。てこたぁ、旗司誓?」
「見ろよ。野郎の背中。ご大層な お化け鴉が、でっけえ翼を広げてらあ」
「ああ。しかもあの鴉、二股頭にゃ月と太陽、三本脚にゃあ両刃の長剣。いやはや、まっさらな白づくめ、赤毛に青い旗……こいつは天晴れだぁな」
「知ってるぞ。あの紋章は<彼に凝立する聖杯>だ。間違えるもんか。俺ぁ昔、<風青烏>を通じて依頼を上げたことがあるんだ」
「はっ。騙されてろよ、おたんこなすのスットコドッコイめ。どうせまた、お貴族サマの新手の酔狂さ。見やがれっての。ぴかぴか おべべに、ふてぶてしい態度を詰め込んで、真っ赤っ々のお毛毛をトサカみてぇに おっ立てて。大方これから夜討ち朝駆けで、砂臭ぇお遊戯でもするんだろうさ」
「じゃあ、なんで上に行くんだよ? 三戒域は下だろ」
「はっ。そいつが分かりさえすりゃあ、俺っちだって今時分、赤い毛生やして伊達男。贅沢三昧してらぁな」
「はは! そいつは謹聴・謹聴」
「なんか知らんが―――ほとほと、壮観だな」
王裾街から、王襟街へ。更に……上へ。
往来からの軒並みの衆目を堂々と魅了しながら、ただひたすらに王冠城を目指して行く。上等住宅街路から更に上っていく道のりは、収集済みだった情報をキルルが裏付けてくれた。そして、王城の門扉の前まで―――至る。
こちらを視認した時から門の前に出てきていた数人の番人が、肝を潰された顔を揃い踏みさせていた。
「……後継第二階梯」
「まさか……本当に……」
驚波されること、半秒足らず。
彼らは、機構を操作し、門を開けた。人間だけが出入り可能な側門ではなく、ばたんと倒れようものなら通行人を三十余名は圧殺しかねないほどに巨大な、正門の方を。
「お通りください」
言われるまでもないのだが。
進攻を再開した馬車上で顔を顰め、ザーニーイは頭帯に触れた。研磨石からシゾーの声がしたのではなく―――事前の打ち合わせで、彼には行動中『受信』状態のみにしておくよう言い含めてあるので、叩打音すらしない―――、し慣れない頭巾の着脱などしたせいで、うまいこと締まっていない気がする。
「いくらキルルがいたにせよ、王城の門番相手に顔パスだと? ……すんなり行くのも、気味悪ぃもんだな」
「おそらくは、司右翼に入団したという箔付けのためだけに持参金を収めたような子息子弟の、成長版でしょう。それなら、この一団に威圧負けされるのも頷けます」
「……まあオーケイだろ。最高だ。ジュサプブロスのクソガキにこじ開けてもらう諸々の手管より、一等物騒じゃなく済んだ。最低でも軍が出張ってくる前に、このまま謁見までこぎつけるぞ」
わきから妥当な納得要素をくれてくるゼラから目を逸らして、行く先を思い描く。
(そこからが勝負だ。俺たちは、出し抜けとは言え、旗司誓として王権側に謁見を求めた―――それだけに過ぎない。しかもキルルが、こちらに協力的な態度で加わっている。となれば、いきなり飛び道具を射かけられたり、真逆に最初から閉じ込められて兵糧攻めを受けるなんてこたぁねえだろう。籠城は最短で済ませ、キルルを引き渡すのを皮切りに……アーギルシャイアの臍帯について、申し渡す)
黙考は長引かなかった。
看過できない変化に気付いたからだ。
正確に言うなら、看過しておく予定だった変化が起こらなかった。
「おかしい。どうしてあの門番は、今もってしても呼び子の警笛さえ鳴らさねえ?」
「丸腰を武器にした、正装してのテロリズムですよ? 天下の奇観に、膠着が延長したとして不思議ではありません」
「にしたって、幾らなんでも……―――」
その時だった。
曲線を調和させた王冠城の敷地では、そこを行く路地の作りもまたうねっている。その、見通しが利かない先へと、馬車が急カーブの角を曲がった直後。
急に、大きく広がった広場に出た。一面が一色刷りの石造りで殺風景だが、キルルの解説に基づくなら、前庭のひとつである。中央には噴水。それを越えて向こう側には白亜のデューバンザンガイツ本殿が、まさしく神の冠のように嶄然と聳え立っている。
それらを背負う構図で、噴水の前に長髪の青年がいた。そして、その両腕をどこまでも広げたかのように―――両脇からずらりと居並んだ、緋色の軍服を着込んだ泰然たる連隊が。
「―――……!?」
突っ切れ、と命令しようとして―――
この高度からでさえ透視できる司左翼の布陣の厚さと、単に躾けられただけの駄馬では突破など不毛だろうことと、遁走できるような余裕の無い左右の建築構造と、引き返すにも遅すぎることと―――その一から十のすべてを、その瞬時でザーニーイは取りこぼした。
正面中央の青年は、用意された椅子に細身を委ねていた。優雅に足を組み、馬車もろとも雪崩込んできた颶風に瞬きひとつせず、ただただ掻き鳴らされる頭頂からの長い羽……その天然たる至高の四重奏のただ中から、下界を睥睨する瞥見を、黄緑色の瞳に風然と溶かして。
しゃきり。しゃきり。しゃきり。緋と橙に彩られた艶美たる音色が耳底より失われる頃には、急制動を掛けるしかなくなった馬車もまた静止する。多少のどよめきはあったものの、落下するような不運に見舞われた乗員はいなかったようだ。だからこそ―――その声ばかりが、響き渡る。
「イヅェン!?」
「いかにも。小姉君。ご無事でなにより」
馬車から身を乗り出して悲鳴を上げたキルルに、その青年―――イヅェンは、富貴たる高慢そのものの応答をした。しかも厭味なく。つまりは、美挙。それが彼の素地なのだろう。
六、七メートルほどか。会話するには遠い距離だが、それでも実のきょうだい―――容貌の相似に言及するまでもなく当人同士が自認しているのだから疑うべくもなかろう―――が、見誤る間合いではない。なにより、現前にて司左翼を従えた、膝丈まであろうかという翼の頭衣の持ち主が、それ以外の者であろうはずもない。
「後継第三階梯……本人、だと?」
ザーニーイは、雪だるま式に連発していく動転を押し殺して、襟巻きの奥でひくりと笑いかけた。おいキルル、まさかこいつは、寝起き覚ましがてらの品行よろしいお散歩ってやつかい? 司左翼に、お輿を担がせての。
現実的に咽喉をすり減らしてくれたのは、えも言えぬ―――それこそ、ぞっとしない冗談のような、不穏だったが。
「これは……どうなっている? 事前に計画が漏洩して、ここまで誘い込まれたのなら―――なぜ今になっても司左翼は、曲者めがけて捕縛なり撃破なりの動きを取らない? しかも後継第三階梯を現場に立ち会わせて」
「分かりません。が、」
声をひそめて、ゼラが吹聴してくる。
「とりあえず、出来ることをしましょう。これが罠だったとしたら、一気呵成を断念させられたことに拘泥している隙に、張られていた二重目三重目がやってくるに違いありません。せめて馬車から降りて、身動きに有利なようにしておかなければ。大丈夫……魔神も魔術も万全です。わたしから離れないで」
我を折らぬ部隊長第一席と眼差しで黙契を交わして、ザーニーイは下車した。座位から立位へ、そして車体から地面へ……その程度の動作ですら随時突っ張らせてくる、余裕のない作りをした正服に、つい気色ばみそうになるのを抑えながら。
ついてくるゼラとキルルに続いて、旗司誓全員がそれに従う。御者役だけは、馬車馬をいなしてくれていた。よって、ザーニーイを突端として、そのやや後ろのゼラとキルルで三角形の底辺を作り、その後ろに残り全員で縦隊する構図となる。その陣形で……王宮と、対峙する。
研磨石を介してシゾーにも状況は伝わっているのだろうが、『受信』に専念しているらしく、混乱まみれの支離滅裂な助言をくれてきたりはしなかった。もとより、これによって伝播するのは、使用者の主観的な思念の一部でしかない。ザーニーイの焦る危惧だけでは、口先だけでも一丁前の援兵になれるような見通しなど、一向に立たないだろう。
(狂瀾を既倒に回らせる、そのための一瞬を……はかれ。練成魔士の、その時のために)
冷静に自身へと言い聞かせながら、一心不乱に前方へ観察眼を縒る。司左翼は動かない。……が。
ふわりと―――まさしく風に吹かれた羽毛のように。イヅェンが、甚だ雅に極まる所作で、玉座から音もなく立ち上がった。そして、なんの儀礼か、心臓の真上からやや左を、左手の薬指と中指の付け根で押さえるような手つきをしながら、
「お初お目にかかる。キフォーの義烈の後継者、すなわち旗司誓<彼に凝立する聖杯>。わたしはア族ルーゼ家ヴェリザハーが第三子、名をイヅェン。後継第三階梯である」
頭から零れ落ちる豪奢な彩りを冷ますような涼しげな朗吟は、声色からして熱を失くしている。だがそれが、こちらを囲繞しているがゆえの高飛車でないことは、見るだに知れた。その顔貌には、糾弾の意も、排斥の念もない。しかも注視してみれば、司左翼の誰も彼もが、大掛かりな戦闘に赴く装備ではなかった。とは言え、砂臭い兇漢を軽侮しての趣きとも思えなかった。さしずめ、そういった軍事に関係した式典に端粛然として臨む程度、といったところか。式典?
(なんだと)
背筋を走ったインスピレーションが、怖気を帯びて肺腑を縛る。
まるで、探知に縛錠されたザーニーイを見計らったかのような間の良さで、イヅェンが僅かばかりの隙間を唇に開かせた。
「<彼に凝立する聖杯>、此度の【血肉の約定】の履行、大儀であった。だがしかし、こうして一方的極まる内約通りに踰ゆりたるからには、報知の悉皆精細まで詳らかにしていただけるのであろうな?」
(一方的な内約?)
立て続けに つま先を挫いてくる疑念に、腹立たしさは募る一方だったが。知ったことではないらしく、あっさりと奇問が補足される。
「内密に、後継第二階梯返還を、斯様に―――日時の前倒しのみならず、王冠城デューバンザンガイツへの直参へと変更せられるべし。そうでなくば、真の【血肉の約定】は反故となり、秘め通した霹靂の逝去が無駄になるとは、これ如何様なことであるか? 高慮せしめん。其の卑見を開陳せよ」
―――刹那。
感じたのは、痛感ではなく、冷感だった。片顎から四横指ほど下、頸動脈の根元……ちくりと、霜のひと粒を、そこの生肌に触れさせたような。ありふれた痛痒。
どうしようもなく脱力して頽れる最中にいてもなお、それを疑えずに。
四肢、体幹、内臓、眉目、睫毛まで、夥しい重量へと化けゆく全ての自重に、なすすべなく引きずり倒される途中にも。信じられず。
ザーニーイは、問いかけていた。
「ゼラ?」
「はい。そうですよ。まだ」
簡明に弁じて。
ゼラは、ザーニーイの肩甲骨の合間から襟首に手を掛けて襟巻きごと握り込み、胸倉を掴み上げる要領で支えた。もう片手で頭帯から頭蓋を鷲掴みにして、呼吸に障らぬよう固定する。前のめりに倒れ掛かったザーニーイの背後に回り、ゼラ自身に凭れ掛けさせる姿勢を取って、バランスを整えたかたちだ。
よって真裏にいるその人から、前方……王宮へ向けられた宣言を聞く。
「数々の無礼、ならびに拝趨への申し開きを御宥恕くだされたく候―――後継第三階梯。わたしはゼラ……ゼラ・イェスカザ」
「返書の署名の綴りは、其の方であったな。主客と見做し、聴許する」
「は」
イヅェンに恐悦した一拍分、ゼラの横隔膜の震えが伝わってきた。粛々と口述していく。
「旗司誓<彼に凝立する聖杯>、ここに真の【血肉の約定】までも履行しに参上つかまつりました。まずは、後継第二階梯をお返しいたします……こちら、右手に。そして、こちら、手元にて―――」
「ゼラさん?」
キルルの疑問符が、やっとこさ、やってきた。
(駄目だ。キルル)
思う。のだが、
(駄目だ。シゾー、お前も)
声も出ない。弛緩しきった舌は、根元から膨れているくせに、息の根すら詰まらせない。
底力も出ない。指一本どころか、半眼に弛む眼瞼を上に退かすことすら儘ならない。
手も足も出ない。剣や手斧などと言う以前に、肘鉄すら満足に発揮できないような布地に押し込められている。
竜ではないので、頭帯の留め具を外そうと触れられた喉元に逆鱗も無く。だからだろう。涙も出ない。
「八味猫の赤毛針です。自律神経系以外は微動だに出来ないでしょうけれど、麻痺が解けてからも舌を噛み切ろうなどと、努々考えませんよう。その冥途に、<彼に凝立する聖杯>全員が連れ立つことになる―――諾否かまわず、汚辱と濡れ衣を着せられた上でね」
言い残されたあと。
頭帯を、その下にあった金髪じみた髪毛の かつらごと、ゼラに剥ぎ取られながら。
あらわとなった紅蓮色の羽の地毛が舞い落ちる影から、彼女は その声を聴く。しゃきり。しゃきり。しゃきり。しゃきり。
呪われたのか。
言祝がれたのか。
分かりはしない。ただし、分からなかったところで、……ただ手向けられたがゆえに、そのように語られた。心から、贈る―――言葉。
「さようなら。永遠に。シヴツェイア・ザーニーイ」
そして、彼女の楽園は崩壊した。言うなれば、……いまだに語られし現世、奉呈されることのない その終末の到来のように。
あたかもそれは<楽園崩壊>。
□ ■ □ ■ □
「キルルちゃん。覚えていますか? あの宴会の夜に、君はこう言った。男の子だから痩せ我慢してる―――そんな一言ぽっちの理由で死んじゃったら馬鹿みたい、と」
あらわである紅蓮色の羽の地毛の影から、彼女もまた、その声を聴く。
呪われたにせよ。
言祝がれたにせよ。
それを疑わぬうちは。
それを信じぬまでは。
賢くあれど。
愚かしくなれど。
分かりはしない。ただし、分からなかったところで、……ただ心向くまま、そのように語られた。心ない、送る―――言葉。
「わたしも大いに同感です」
そして、彼女の世界は崩落した。言うなれば、……かつて語られし楽園、奉呈された その終末の到来のように。
それ ありうるなら<楽園崩落>。
□ ■ □ ■ □
楽園は失われた。
世界は すげ替わる。
それは摂理。ザライザン・ロワナンと命ぜられた。声高ざりとて永久に雄叫ぶ、欲するは許諾すなわち録視書。
欲されたところで。断わる能わず、勅。
許されることもない。理ゆえの、詔。
命則り―――生赴くまま生きるなら―――、それは繁栄の根源たる滅びの結果。
尊規り―――であらば これも当然―――、それは禁忌と等価たる。
三言法り―――なら須らく―――、それは、ここに在る三言。
一に曰く、それは同質。
二に曰く、それは同一。
三に曰く、それは正逆。
なればこそ、きっと、これは恋と愛の話。
だからこそ、これは、愛でも恋でもない話。
いざ知らず。それでも なお。
誰が為なるや、されどこれは続く。
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