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転章

転章 第一部 第二節

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「いよいよ……か」

 その午後、ザーニーイは、独りごちていた。

 執務室である。いつもの執務机で、常ながらの椅子いすがありながら、そこに掛けずに窓辺に立っている。一服を終えた呼気が紫煙しえんを混じらせて、眼前をけぶらせた。香一炷こういっしゅ。慣れたその刺激に、結膜のふちと睫毛まつげを、片手の親指でいた。ただただ、いつもの通りに。だからそれが契機けいきとなったとも思えないが、―――それでも、ふと脳裏に言葉がよぎったのは、そのタイミングだった。

 口唇こうしんから取り上げた煙管きせるを、窓枠に置いていた煙草盆たばこぼんへと添える。

司左翼しさよくは、引き渡しの時と同じようなかたちでのキルルの受け渡しをと打診してきた。承諾しょうだくするとの返書を預けたが、俺たちは計画通り、その日時の二日前から行動を開始する)

 室内には、自分しかいなかった。ゆらりふわりとたなびく愛煙を天井まで目で追ううちに、追思ついしまでが まろび出てくる。ひとまずは―――キルルのそれが。

 あの少女と面と向かい合うのは、あの夜で最後だと信じて疑っていなかったのだが。彼女は後日、ザーニーイら上層部へと詰め寄ってきたのである。そして決然と背を伸ばし、断言した。協力すると。

「情報提供でも、人質として身柄を預けるのでも、なんでもするわ。けれどね。それは、アーギルシャイアの臍帯さいたいに係る一連を主導したのが国家側だなんて、あたしが信じていないから。しかも旗幟きしを知る旗司誓きしせい本懐ほんかいとして、あなたたちがあくまで上告するだけだと言うから、その際にどうしても手荒になってしまう部分の被害を、最小限にしたいだけ。その上、その行いが【血肉の義】に基づいての義侠ぎきょうだと言うのなら、忠実に血統を守ってきたア族ルーゼ家こそ【血肉の忠】の体現者なんだから、これは【血肉の約定】に基づくなら必定ひつじょうの身の振りであるはずよ。ザーニーイ、あの日にそれを言ったのは、他ならぬあなたでしょう? ―――どのようにせよ、【血肉の約定】はくつがえらない」

 ついでに密会した件がイェスカザ家に露見ろけんし、途端に発禁まであとコンマ一秒の空気に包まれたが。それはともかく。

(参ったね。毒殺されかけたかも分からねえとこに戻るっつーのによ。なにより、元々やべえとは知っちゃいたにしたって……この伝令は、のっぴきならねえくらいに親父おやじがくたばりかけてるって意味でもあるのに、よくもまあ気骨きこつが折れねえもんだ)

「そいつは、俺は―――無理だったよ」

 口走る。

「だけれど。親父」

 それを、続ける。断固として。こうなっては。

「別のことを、俺はやりげるから。<彼に凝立する聖杯アブフ・ヒルビリ>の頭領として。俺が霹靂へきれきだ。見ていてくれ。シザジアフおう。俺は、ジンジルデッデを、イェンラズハを、……ヴァエンジフを―――える。ザーニーイが冥府めいふへの墓銘ぼめいせんされようとも……おうとしてなら、望むところだ」

 ザーニーイは、思考を詰めた。再び煙管きせるを手に取り、煙草盆たばこぼんに灰を落としてから、火の失せたそれをくわえる。

(確かに、ぎりぎりなのは明々白々だ。【血肉の約定】初日の急襲の件にしたって交逸こういつ警察以降の足取りを追跡しきれちゃいねえし、イーニア・ルブ・ゲインニャの毒殺疑惑については家系を洗ったくらいで、ほぼ全く手が回らずとくる。が、それでも……この僥倖ぎょうこういっせやしない。二度と無いぞ。【血肉の約定】の履行―――しかも、後継階梯こうけいかいてい階位保有者が身体からだひとつでここにいるなんて、うってつけ過ぎるシチュエーションは)

 そもそも、本当に【血肉の約定】がキルルを避難させる口実でしかなかったとしたら、こういった捜査そのものが無意味なのである。となると、この引き渡し要求は、王宮の方では陰謀いんぼうが解けたからキルルを引き取りたいという意図があるとも勘繰かんぐれるが、実際に国王が薨去こうきょしかかっていることも事実なので、そのあたりの実情は局外者きょくがいものにははかるしかない。極論でよければ、とうにヴェリザハーは身罷みまかっており、階梯かいてい上位者であるキルルの帰還を待って口頭戒厳令こうとうかいげんれいが解かれ、国葬こくそうおよび国喪こくそうになるというケースさえ予測が立つ。今回の計画は結局のところ、急がば回れを取るか、巧遅こうち拙速せっそくかずを取るか、二者択一の問題なのだ。キルルが手中にある千載一遇せんざいいちぐうに手をこまねいた挙句、前者を選ぶ理由は無い。

 ぽつり、独語どくごふける。

「キルル。キルル―――ア・ルーゼ。ヴェリザハー・ア・ルーゼの娘っ子で……その片親分だけ、妹か。シヴツェイアの」

 そこで両者を思い描いてみるものの、数秒とたなかった。連想より不愉快さが先走るため、どうにも公平に比較できそうもない。

「似てねえなあ。どこもかしこも。なんもかんも。それもそうか。腹違いだし。年恰好としかっこうは……いくつ違いだ? ななつやっつか?」

 八節やつふしモドキのいぶより苦い息をついて、しばし。

 かち、と煙管きせるかねに犬歯を立てて、地道に鬱憤うっぷんを晴らす。

「いや。どうだか。実のところ、意外でもなんでもないほど、ななつやっつなんてぇもんじゃなく―――うりふたつでしかないのかね。あいつもそいつも」

 そこでやはり、無くて七癖ななくせの通りに、剣の鍔飾つばかざりである青い羽に触れてしまっていた指先を見下ろして。ザーニーイは、そこにでも頼るような心地でうめいた。

「なあ。聞いてくれるかい。……恋をしてるんだとさ? どいつもこいつも。俺にさえ」

 返事はない。当たり前だが。

 回答は、とっくに心嚢しんのうにあったところで。

 それが、なによりの禍根かこんを生んでくれた。

(シゾーは計画の当初から最後の最後まで、ババアの入れ歯みてえにガタガタと抜かし切りだったが……これが当日の妥当な人選であることは引っ繰り返らない。俺が抜けるなら副頭領はここに残らざるを得ないし、人員が多くいる今、一騎当千の練成魔士れんせいましはこっちが持っているべきだ。だから―――あの人は、俺と行く)

 そして、こうして最後の時節を待っている。

 待ちわびてなお、思いのたけも伸びていくにせよ、どちらも止まらない。つい頭帯とうたいにしまってある研磨石けんませきを意識するが、そこから忍び寄ってくる声もなかった。

(首ったけの……恋人ね。ンな業突ごうつく張りの一点張りを崩しもしねぇ以上は、まだ諦めねえか、あいつも。つくづく。つくづく、だ)

 もはや純情な恋着なのか、色情の執着なのか、情欲の見境みさかいさえ無くした駄々っ子の無分別な稚気ちきなのか、傍目はためには見分けも付かないものの、それは疑いようがないところだ。うわつらはとっかえひっかえしているようでいて、内面においてシゾーはシヴツェイアに粘着するがまま情を貼ったきりである。横風おうふうにも、その けんつくをわされ続けて、気分を害すること三年だ。斟酌しんしゃくできない事情ではないにせよ、思えば幼馴染おさななじみは、あわやの殺傷事件からザーニーイが命からがら事なきを得た折から痴情ちじょうもつれさせ、ややこしい纏綿てんめんを深めている―――

 ただしそれは、程度の差こそあれど、誰もが同じだと言えた。師弟の敬慕、きょうだいの恋慕、友ゆえの思慕、親子の追慕。慕情する心は、年月も距離も存在も……ありとあらゆる法理法則を一足飛いっそくとびにえ、しかも ひとたび通じてしまえば成長に歯止めが利かない。まるでそれは母体と胎児たいじへそを通ずるように、ただただ一途いちずに互いから、うばい、与え、差し出し、捧げた至情しじょうを食わるることに恍惚こうこつを覚え、損得勘定そんとくかんじょうを抜きにした万遍まんべんない満身まんしんの混ざり合いを成そうと欲する。その、とけた曖昧あいまいのなかで境界を失うことに―――ひかれる。愛する。我を忘れる。

(だから、アーギルシャイアは生まれ落ちた。呼吸すら必要としない完全なる楽土らくどから。それでも―――それがゆえに……未知未能みちみのうな地上で、全知全能ぜんちぜんのうだったはずの超人ちょうじんが、無知無能むちむのうにも恋をした。パラドックスを踏み砕いた。超越ちょうえつからひとつなくし、凡庸ぼんようからひとつ増やして、だからこそ神では成し得なかったことを、―――した)

 父母未生ふもみしょう以前いぜんより。楽園を失ってまでも。すべからく、今日まで、全員で。全員が。

 アーギルシャイアですらそうだったのだ。例外はない。<終末を得る物語>から、唯夜ゆいや九十九つくも詩篇しへんに至るまで。ア―――すなわち始祖たる名無し男から、キルルに至るまで。もしかしたら、……シヴツェイアさえも。ザーニーイのあずかり知らぬところで。

 そういう自分自身ですら―――きっと、そうしていた。いつだって、そうしてきた。

 だから、ここにいる。全員で、……全員だから、ここに辿たどり着いた。

(なあ、親父。だったら、俺だって―――思うくらいは許されるよな)

 思惟しいを最後に、煙管きせるを置き、その人へいに……向かう。

 死地であろうと。恋するとされたまま、そこへ向かう。

(シザジアフさんの代わりに、俺が死ねばよかった)
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