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Episode28 譲れないもの

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「光に会いに行くわよ」


 そう口にした。すらりと高い美麗な人の背中を追う。


 色々なことがあり過ぎて。


 混乱する頭で、私は赤スーツさん改めレミさんに。促されるまま裏口から外へと出た。


「お乗りください」


「ありがとうございます」


 恭しく一礼してくれた男性に、お辞儀を返す。


(この人が秘書の峯田さん?)


 誘導され乗車したのは、ピカピカ輝く高級そうな黒い外車。


(専門誌の表紙で見かけてなければ、これが外車だってことすら、私。解らなかったな)


 経済的な差を見せ付けられて、瞬間戻ってきた庶民感覚を胸に乗り込む。


「…………………………」


「…………………………」


 薄暗い遮光窓から、流れる景色をしっかり眺めた。


(どの辺りまでが、さっきの契約に関する土地なんだろう?)


 彼の功績を噛み締めるように見ていたら、黒い丈夫そうな窓ガラス越し。ふいにレミさんと目が合った。


(私から、話かけた方がいいのかな……?)


 せっかくのご厚意で。ふかふかシートの高級車に、乗せて頂いているのだから。


(きちんとお礼は言っときたいな)


 ほんの数秒。例の写真が気になりはしたけれど。


 手触りの良い座面を、握り拳の指の背に感じつつ、萎縮する喉で喋りかける。


「ありがとうございます。こんなに素敵な、お車に乗せてくださって」


(良かった。思ってたより、はっきり言えた)


「どういたしまして」 


 淡々とした大人の女性の声が、車内に響く。


(かっこいい人だな)


 立ち姿だけじゃない。同じシートを共有しても。彼女からは、自信がみなぎり、自分の存在意義そのものに責任を取る覚悟が透けて見える。


「……………………………………」


「……………………………………」


 輝かしい人とのたしかな隙間を、再び静寂が埋め尽くす。


「貴女。あの子の涙を、見たことある?」


「……いえ」


 微かな冷たさを孕む言葉で、この期に及んで、また気が付いた。


(怒ってる顔だけじゃなくて。私、彼の泣き顔も見たことないや)


 それぐらい。接した時間が、私と彼はまだ短い。


「私はあるわよ。一度だけ。ドルデーテの開店一周年を記念した夜に」


「一度だけ……ですか?」


 (親しい仲に見えたから、もっと見てると思ってた。でも良い大人なら、そうそう泣くこともないか)


 情けない。自分の立場を棚上げして、まだ嫉妬が出来るなんて。


「ホテルの最上階のベッドでね」


「!」


 解ってしまった。それだけで。


 涙の前か、その後に。二人が何をしていたのか。


「初めての……大切な夜が更けてからだったわ」


 レミさんの眼差しは、誰もいない助手席を見つめたままだ。


「恐らく光は。あの日に、本物のホストになった」


「っ!!」


 言い表せない苦しさで、右手を胸骨へと押し当てる。


「今でもはっきり覚えてるわ。月明かりに照らされた綺麗な寝顔の左頬に、一筋ぽろっと溢れてきたのを。そして夢で呼んでいたわ『明日香さん……』って」


「っ…………」


 苦しかった。


 一瞬にして、嫉妬心なんて吹き飛んで、まるでその時の彼に心がリンクしたみたいに。 


 泣き叫びたい衝動に駆られる。


 けれど彼女の頬からも、当時の彼と同じものが、一粒滴り落ちたのを見て。


 傷付いたのは、彼だけではなかったんだと思ったら、独り善がりになりたくないと、踏み止まれた。


「惚れてる女だって、訊かなくてもすぐ解ったわ。だけど光が、その名前を口にしたのは。約六年間でその一回だけ。……今思えば、あの泣き顔に惚れたのよ、私」


 振り返らない。横も見ない。


 やっぱりレミさんは強い人だ。


(この人の想いを押し退けるほどの価値が、一体私のどこにあるの?)


 そう思っても。


『幾月くんと一緒にいたい』


 他の感情を打ち消すように。その願いだけが、ただ全身から祈るようにして迫り上がる。


「私、最低ですね。……人を傷付けることしか出来てない」


(ごめんなさい)


 言葉に出したら、もっと彼女を傷付けてしまう。


 それは絶対にしたくない。


 だから瞼を閉じて、心で謝った。


「ふざけないで」


 レミさんの顔が、ようやく私へ向いてくれた。


 それなのに。表情は怒りをガッと携えて、組まれた脚の上で長い指が、左右折り重なって震えてる。


「貴女のための傷だから、あの子は受けても良いと思えたのよ!!自惚れないで!」


「!!!」


 わなわなと揺れる唇を見て、一瞬にして目が醒めた。


 胸の辺りに空洞を感じる。


 私の罪悪感は、綺麗事だ。


 傷の種類は違っても。これまで実際に傷付いたのは、幾月くんであり、レミさんだ。


(私はまだ、なんの行動も起こしてない。逃げようとしたんだ、私だけ。後ろ向きな考えに。戦ってる人を目の前にして)


 精錬された彫刻のような彼女は決して、美しい水滴を拭わない。


(今からでも、私に出来ることは本当にないの?)


 自分自身へ問いかける。


(でも私は、幾月くんの六年間をあまりに知らない。知らな過ぎる。……それなら)


 水滴が、彼女の頬から、ゆっくり重力で下りていくのを見届ける。


「もう、逃げません。光さんの話を聞かせてください。お願いします」


 私はレミさんへと頭を深く、深く下げた。


 しばらくして、お互いの瞳が穏やかになった頃。


「前の店では。もともと、週二の大学生バイトだったのよ。光」


 信号で停車したのを皮切りに、レミさんがそっと口元だけで微笑んだ。


「医大生だったって、涼さんに聞きました」


「そうみたいね。でも光は自分の話はほとんどしたがらなかったから。聞き上手と言えば聞こえは良いけど。それでも、本当に隠したいことは時々ぽろっと漏れてたわ」


 左手の指先を、軽く唇へ添えて笑う仕草は、悪戯好きな少女みたいで彼女の愛らしさがこちらに伝わる。


「本当に隠したいことって、契約のことですか??」


「そうじゃないわ。貴女の存在よ。バレればナンバーワンは厳しくなるし、何より貴女が敵視されるもの」


「私の存在……」


(たしかに姉だって言った時も凄かったもんな)


 オーナーさんの悪事を打ち明けてもらったからか。


 彼女たちの鋭い視線も。今なら少し可愛く思える。


「ドルデーテに移って、出勤頻度と人気が増しても。光は決して抱いてはくれなかった。けどそれじゃ、ドルデーテでナンバーワンは無理だって悟ったんでしょうね。あの日を境に、光は色々変わったわ」


(契約の条件を果たすために、彼は覚悟を決めたんだ)


 彼女を見つめ、彼の覚悟と真っ直ぐ向き合う。


「たとえ彼が本物になっても。……三つだけ。光の中には、絶対、誰にもくれないものがあったの」


 手の位置はそのままに、彼女の首が窓の方へ、こてんと傾く。


「もしかして、彼の利き手に関することですか?」


「っ!」


(やっぱりそうなんだ)


 ビクッと反応したレミさんの肩。


 ずっと、引っかかってた。


 あの朝以降、繋がれなくなった彼の左手のことが。


「一つはそう。光はオフのデートでは必ず左手で握らなかった。全部右手。ある日ふと、既視感で気が付いたの。それまでは自分でも面白いくらい気付かなかったわ。不思議なほど自然とそうなってたのよ」


「左手で握らない……」


「直感で、あの明日香さんってヒトと繋ぐ時のために、取って置いてるんだって解ったわ」


「でも彼。私が、『利き手だけど良いの?』って尋ねたら、それから手を差し出してくれなくなったんですけど。どうしてなんでしょうか?」


「どうして、ね」


 レミさんが薄っすら、下唇を噛んだ。


「少し解る気がするわ。光の気持ち」


「無神経でしたね。私」


「そういう問題じゃないと思うけど……」


「???」


「そのわけは、直接、光に訊きなさい。それより他の二つに心当たりはあるかしら?」


 挑発的な笑みを向けられ、顎に右手の親指と人差し指を添え考え込む。


 ざわりと何かが胸を撫でるような、そんな感覚に鼓動が速まる。


「イヤ……でもそんな」


 雑多に物が入ったスーパーの籠が、記憶の片隅から訴えてきた。


「何よ?言いなさい。思い当たる節があるって顔、してるわよ」


「間違えてたら、恥ずかしいんですけど……。たっ、食べ物関連だったりしますか?」


 にごしてうかがった私の発言は、どうやら正解だったようで。


「申し訳ないけれど。もっと鈍感な人かと思ってたわ。ごめんなさいね」


 サラリと言ってのけたレミさんの瞬きが、ぱちぱちと速く動いた。


「変だなって少し思って本人に訊いたから、たまたま覚えてただけですよ。大袈裟です」


(彼のことで、あんなにレミさんへ嫌悪感を抱いてたのに)


 わざわざ秘書さんに運転をさせてまで、幾月くんのもとへ連れて行ってくれようとする。


 高潔な強い泣き顔で、叱り付けてくれたこの女性が。


 どうしても。悪い人には見えなくて。


「アーモンドが好物って、珍しいですよね」


 小さく彼女へ笑みを返す。


「あら、そう?私も好きよ。まぁ、頼まなくてもアーモンドってお通しでよく出てくるんだけど。あの子が手を伸ばしてるのを見たことなくて」


「そうなんですか???」


「えぇ。だから『嫌いなの?』って手渡したら、『大好きだから、願かけてる』って耳元で囁かれたわ。あの夜ほど、光が小憎たらしく見えた夜はなかったぐらいよ」


「!!そうだったんですね」


 レミさんのジャブを、身をもって体感する。


 それと同時に。


『良いのそれは。俺の好物だから』


 スーパーでの、あのむくれた顔に。


【両想いになるまでは】


 と、秘められた願いを知った。


「あと五分もしないで着くわ」


「はい」


 左手首に巻かれた革の茶色い腕時計を、レミさんがチラリと見た。


 金縁の長方形の中で針が。


 刻一刻と、幾月くんに再会するまでの残り時間を私に迫る。


(到着までの時間で、最後の一つを聞かないと)


 いつの間にか芽生えた使命感が原因だろうか。


 妙に鼓動が高鳴り続けた。


 すぐ隣で、流れる景色に想いを馳せる彼女の瞳が潤んでいる。


(最後の一つは、彼女も言いたくないのかもしれない)


 レミさんが、口にするのもつらいほど。幾月くんが大切に仕舞っておいたその何か。


「……彼は、何をくれなかったんですか?」


 私は物凄く失礼だ。


 残酷で、嫌な女に間違いない。


 同じ男性を好きな女性に。


 彼があなたにくれなかったものを、面と向かって訊くだなんて。


 自分の内面の汚れた部分を、表立って晒している。


 そんな感覚が込み上げた。


(でもここで訊かなかったら、私は一生後悔する)


 根拠はないのに、そう確信している自分がいた。


「…………………………」


「愛してる」


「!!!」


「たった一言。それだけよ」 


 吐き出すようにして告げられた言葉は、驚くぐらいシンプルで。


「っ……」


 レミさん越しに、彼から想いを受け取った気がした。

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