狩人の目覚め

花籠しずく

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狩人の目覚め

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 死ぬ間際になって母は、自分がなぜ夫――私の父と結婚したのかを教えてくれた。
 病弱な母だった。ほんの少し無理をすれば熱を出し、冬になれば床に臥せってばかりで、家から出る事すら叶わなかった。ただ、優しかった。高熱で苦しくても、私と弟の面倒を見ようしてくれる人だった。しかし起き上がろうとしては、父に叱咤され、使用人に大人しくしているように懇願され、ほとんど私たちの世話はできていなかった。それでも私はこちらを想ってくれていると分かるだけで十分で、母のことが好きだった。
「おまえに言うのは初めてだったね。母さんは元々花街にいたんだよ」
 母が幼い頃、母の家は裕福だったらしい。反物を扱う商家だったと、母は目を細めて話していた。幼い母は煌びやかな反物は触らせてもらえなかったそうだが、毎日その宝物を眺めるのが習慣だったという。しかし母の父は商売で大きな失敗をし、払いきれぬほどの借金を背負った。そこで愛らしい容姿の母は売りに出され、花街で暮らすことになったという。
 花街での暮らしは良いものではなかったらしく、母はあまり語ろうとはしなかった。ただそこで消えぬ痣をつけられたのだと教えてくれた。
「あの人は私の最初の客だった」
 花街の常連だったらしい。熱を帯びた様子もなく、ただ退屈しのぎのような顔をして、ふらりと現れては女を買っていく。そういう評価をされている人だったらしい。しかし母を人目見た途端、態度が変わったらしい。
「初恋だと言われたよ」
 恋と呼ぶには恐ろしかったと、母は呟いた。獲物を狩るような獰猛な目だったと、母は俯いた。
 父と言えば、ぶっきらぼうで、仕事ばかりして、家の事を顧みない人だという印象が強い。仏頂面こそ思い浮かぶが、獰猛な目つきは想像はつかなかった。
 母は父に数度買われ、それから身請けされることとなった。母は最初嫌がったそうだが、母の借金よりも随分と多い金が払われることとなり、断ることができなくなった。
 自分を売った家に、帰ることはできなかった。かといって女ではひとり生きていくことも叶わない。そうして母は半ば囲われるように、この家に嫁いできたのだという。
「そんなに身体弱くて、よく花街にいられたわね」
 母に何て言えばいいか分からなくて、私は茶化すようなことを言った。しかし母は苦笑して、長年の無理が祟ったのだ、元は丈夫だったのだと言った。
「おまえの結婚も自由であればいいのだけれど」
 少なくともこんな形にならなければいい。そう目を伏せる母は老いの中にきちんと華やかさを残しており、どこか儚い様子すら感じさせた。
 母の若い頃の姿は、もう覚えていない。だけど美人だったのは分かる。儚く愛らしい容貌の美女に、父は吸い寄せられたのだろうと想像がついて、ああ、と息が零れた。
「結婚は幸せだった?」
 私の問いに母は驚いたような顔をして、花と累に恵まれたからねと幸せそうに笑った。父と結ばれたことは快く思っていないにしても、母が私たち姉弟を愛してくれているのなら、それで良かった。

 その日の晩母は息を引き取った。父と二人切で交わした言葉は、私は終ぞ知らぬままだった。


 母の葬儀も終わり、しばらく経った頃だった。父に呼び出され居間に行くと、父はおらず、弟だけが席についていた。何の話で呼び出されたのかと彼に問えば、知らないと首を振られる。仕方なしに累の隣に座り父を待つと、しばらくして煙草の匂いをさせた父がやっと居間に入ってきた。母の言っていた「獰猛な目つき」でもなく、私の知る仏頂面とも程遠い、疲れ切ったような視線がこちらに向けられた。
「すまん。仕事で失敗した」
 ああ、そういうことか。何かが腑に落ちた。
 母がこの世を去ってから、父はがむしゃらに仕事に打ち込んでいるようだった。そうすれば母を失った悲しみを忘れられるとでもいうように、休みを取ることすら拒んでいた。しかし父のなかではとっくに歯車は外れていたらしい。仕事の失敗を繰り返しているのに気が付かずに走り続け、取り返しのつかないところに来てしまったのだという。
「お前たちを養う金がない」
 花には女学校を辞めてもらって、嫁いでもらう。累にはよそに働きに出てもらう。肩を落として懇願する父の姿は情けなくて、可愛そうで、母が恐れていた人物とはかけ離れていた。
「俺たち、ばらばらになるの」
 黙って話を聞いていた累が、ようやく口を開いた。
「そういうことになる」
「姉さん、結婚には早くないか」
「十六で結婚などそう珍しいことではない。むしろお前に俺の仕事を継がせてやれない方が酷だ。許してくれ」
 累だって驚いているだろうに、私と同じように腑に落ちている部分があるらしかった。淡々と「俺はいいけど」なんて呟いて、ふいとそっぽを向いた。
「でも姉さんの結婚は、無理だと思う」
「させる。露頭に迷わせることはしない」
「落ちぶれた家の娘なんてそうそう貰ってくれないよ」
 じゃあどうすれば、と頭を抱える父に、累は大丈夫だよと囁いた。
 一体何が大丈夫なのか、私も父も分からなかった。ただ十五の歳らしからぬ艶やかな笑みを浮かべる彼に気圧されて、何も言い返すことができなくなった。

 ほどなくして、「出稼ぎに行ってくる。姉さんは結婚はしないでね」とだけ言い残して、彼は消えて行った。探せども探せども彼は見つからず、私たちはまた家族を失った。
 累に散々「姉さんを結婚させるな」と言われていたようだったが、父は私の嫁ぎ先を探すのをやめなかった。そうして細々と商いをしている家に私の婚約を取り付けて、燃え尽きたように死んでいった。
 父が死ぬ前に「恐ろしい父」を見てみたいという好奇心は、満たされることはなかった。


 身寄りもないのに関わらず、相手の家は親切にしてくれた。決して裕福ではないが、人柄に優れている人たちだった。だから父は私の嫁ぐ家に決めたのだと思う。
 案外父が家族思いだったことにこの歳になって気が付いて、父のことをもう少し大事にすればよかったと後悔した。

 白無垢に袖を通しながら思い出すのは、未だ連絡のつかない累のことだった。手紙を出そうにも送り先も分からず、黙ったままここまで来てしまっている。いつかまた出会えたときにこの婚姻のことを責められるのかもしれなかったが、仕方のなかったのだと言えば分かってくれるような気もした。
 そんな油断が、彼への理解の甘さが、こんな悲劇を招いたのかもしれなかった。
 屋敷のどこからか悲鳴が聞こえ、髪に挿そうとしていた飾りを落とした。胸騒ぎを覚えながらそちらに向かうと、男が一人そこに倒れていた。顔は半分も見えないが、服装で分かる。これから私の夫になる男だ。
 先ほど悲鳴を上げていたらしい侍女は隣で失神しているらしく、駆け寄って二人を揺り起こそうとすると、寸でのところで後ろに引き寄せられた。
「離して」
 抱える腕の力は強い。しかしその腕の高さに、着物の色に覚えがあった。
「姉さん、だめだよ。そいつには毒を飲ませた」
 夫になる男がごぽりと血を吐く。それが畳に広がっていくのを呆然として眺めながら、耳元で囁かれた言葉を口の中で繰り返す。
 毒。どうして、何のために。
「累、なの?」
 そうだよ、と声が言う。こちらの腕を抱える指が顎に添えられて、畳に染みこんでいく血を見つめさせる。
「姉さんの婚約者、死んじゃったね」
 どくりと心臓が音を立てた。目の前の惨状を理解していない脳が、徐々に事態を飲み込んでいく。がたがたと震えだす私を彼は強く抱きしめて、「ごめんね」と言った。
「結婚しないでね、って言ったのに」
「仕方なかった。累が稼いでくるって言っても、二人で生きていくのは無理よ」
 おまえはまだ子どもなんだから。そう叫ぶ私の口に、彼の指が入れられる。先ほどまで言葉をまくしたてていた舌を掴み、引き出した。
「俺はもう子どもじゃないよ」
 彼の顔が近づく。離されたばかりの舌を引っ込めようとするもわずかに遅く、再び舌を引き出され、絡めとられた。
 強引な口づけはこちらの呼吸を奪うようなもので、次第に目の前がぼんやりとしてくる。身動きもとれないまま貪られている私に彼は満足したのか、やがて抱擁を解いた。
 足から力が抜け、私はその場に崩れ落ちた。白無垢に畳の血が滲んで、くらりと視界が歪む。
「どうやって稼ごうかな、って思った時に、やっぱり身体を売るのが楽と思ってさ。探すといるもんだよ、俺くらいの歳の男が好きな金持ち」
 淡々と彼が姿を消していた間のことが語られる。身体を売り、盗みを働き、必要であれば人も殺めた。そう語る声は確かに累のものなのに、その中身はすっかり別人であった。
 誰なの。おまえは誰なの。
「ひとまずしばらくは暮らせそうになったから迎えに来たんだけど、そうしたら姉さんってばいないんだもの」
 私が知っている累はおまえじゃない。
「でもこの人まで殺すことないでしょう」
「結婚をやめさせるにはこれが早いから」
 彼はそう言って、私の前に回る。視線を合わせるようにかがみこむと、最後に見せたときと同じ笑みを私に向けてきた。
「私の結婚、そんなに嫌?」
「嫌だよ。だって姉さんは俺のだもの」
 彼の手が、再び顎に伸びる。抵抗すれば腕を掴まれ、成す術もなく彼の腕に捕らえられる。
「母さんが死ぬ前に、父さんと結婚したきっかけを教えてくれてさ。それで俺、気が付いたんだ」
 欲しい者がいるのなら、囲い込めば手に入る。母が彼にどのように話をしたのかは知らないが、彼はあの話をそんな風に受け取ったらしい。そしてその「欲しい者」は私だったというわけだ。
「おまえにそんな風に想われていたなんて」
「さすがに血の繋がった姉弟だから、とうの昔に諦めていたんだけど、諦めなくてもいいんだと思ってさ」
 だから攫いに来たよ、姉さん。
 覗き見た彼の目は、「獲物を狩る獰猛な目」と称するのに相応しかった。
 父から獰猛さがなくなったのではない。母の死をきっかけに、彼に引き継がれたのだ。そうして目覚めた彼は、私を喰らいにきた。
「ここにいたら、姉さんが旦那殺しの犯人にされてしまうね。俺についてくるしかないよ」
 うっそりと呟く狩人は私の唇を再び奪い、暗い世界へと私を引きずり込んでいくのだった。
「白無垢は俺のために着てね」
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