90 / 114
最終章
06
しおりを挟む「……そう、なのか……」
「そうです。
マティアス様こそ、おなかは大丈夫ですか?」
「おなか?」
「昨日わたくしが蹴ったおなかです」
そう言われてマティアスは腹を摩る。
「………いや……? 別になんとも」
「…………そうですか。
割と渾身の蹴りだったのですけど」
なぜかがっかりするリリアに申し訳なくなって、慌ててフォローを入れた。
「しかし、手は痛い。
花瓶を割って抵抗してくれたんだろう」
「それはマティアス様がご自分で割ってご自分で握り込んだものです」
「……そうか」
フォローに失敗する。
つんと拗ねたふりをするリリアが可愛いと、場違いな感想が浮かんだ。
「………本当、なのか」
「わたくしが嘘をついていると思いますか?」
「いや……そうか、……
そうか、良かった………」
両手で顔を覆う。
急に体温が上がった感じがして、ひどく喉が渇いていたことに気付いた。
「いや、すまない、怪我をさせて良かったではないのはわかっているのだが……」
「承知してます。
マティアス様は、わたくしがまだ子どもだと思っていて、ああいったことはわたくしにすべきでないと思っていらっしゃるのですよね」
「あんな無理矢理するようなやり方は、どんな相手にもすべきではない。大人になっても誰にも許すな」
言ってから、はたと気づく。
「すまない、俺が言えたことではない」
「いいえ」
「………本当に、俺が言えたことではないな……。
未遂だったのはリリアが頑張ってくれたおかげで、そうでなかったら」
ふと軍の警邏で不幸な女性を保護した記憶が蘇り、背筋がぞっとした。
あの類の事件は被害者の尊厳を傷つけると言われるが、もしリリアが頑張ってくれていなかったら、人として地に堕ち、尊厳を失うところだったのは寧ろ自分の方だったと思う。
そしてそうなっても、おそらくマティアスを断罪する者はおらず、今後リリアをマティアスから庇う者もいない。―――あの、口の悪い侍従を除いて。
(……アーネストがいないと、俺は本当にだめだな……)
ただただリリアが心配だったところに安堵して余裕ができたのか、己の不甲斐無さが重く認識されてくる。
「……アーネストに、報告したくないな。
ここまでの恥は初めてだ」
リリアは落ち込むマティアスを少し考えるように見てから、複雑な表情で控えめに申し出た。
「……あの」
「なんだ」
「マティアス様は、すごく頑張って我慢してらしたと思います。呼吸も荒くて、その、………とても辛そうだったのに」
自分の発情ぶりを実況されてマティアスは耳を赤くした。
なんだ、何かの前置きか。それとも酷い事をされた仕返しなのか。もしかして状況説明が始まるのか。いや、聞けと言うなら聞くが、どういう反応が正解なんだ。
冷や汗をかきながらぐるぐると考えを巡らせてもマティアスの人生経験の中に参考資料は見当たらない。
「抵抗したら頑張って我慢してくれるんですけど、またすぐ触ってきて、また我慢して、……わたくしは、マティアス様が泣いてしまうと思って最後まで抵抗してましたけど、正直そんなにしたいなら一発お腹でも殴れば大人しくなるのに」
「おい」
そんなことをしていたら、俺は今日首を括る。
「それで、わたくし今まで、マティアス様のお役に立つなら変態のおじさんに貸し出されても構わないと思っていたのですけど」
「リリア」
咎めるように呼ぶマティアスにリリアは笑う。
「そんな風に考えるの、もうやめますね。
昨日のマティアス様が頑張って守ってくれたこの身体は、そういう風に使って良いものじゃないって、今はそう思います」
唖然としていると、リリアはマティアスの包帯が巻かれた右手に優しく手を重ねた。
「―――大事にしようとしてくれて、ありがとうございます」
―――この、人は。
違うだろう、貴女は被害者で、俺は加害者の筈だ。それを―――
リリアは自分の身体に本当に頓着しない。
イドゥ・ハラルでの騒動で、マティアスはリリアの胆力に感心する裏で、あれだけ自分を大事にして欲しいと言い続けても届かなかったのだと知って悲しかった。
その彼女が、これからは自分を大切にすると言う。―――おそらくは酷薄で身勝手な罪状をマティアスから拭う為に。
強く抱きしめれば折れてしまいそうなか弱い身体で、覚悟ひとつで全てを捨てて王都にやってきた少女。たった一度の恩義を返すために、いつでもマティアスの届かない場所から手を述べてくれる得難い人。
どんなに賢くてもまだ子どもだと思っていた。守るべき人であって、心を分かち合う相手ではないと思っていた。
だが思い返せば、彼女は出会った時からずっと、一人前の人間だった。
……本当に、敵わないな……。
リリアが好きだ。
もう、誤魔化しようもなく、彼女だけが欲しい。
―――たとえ彼女の中に自分の場所はないのだとしても。
「……他には俺は何かしたか?」
「たくさんキスされて、食べられちゃうかと思いました」
「………それは覚えていない」
「わたくしの身体は、マティアス様に差し上げているので、いいんですよ」
「身体だけか」
「わたくしの心はわたくしのものなので、差し上げることはできません」
マティアスの軽口にリリアが笑いながら返す。
評価の厳しいアリーダが得難い女性であると賞賛した意味を、改めて実感する。
彼女と出会えたことは本当に幸運だった。
「………リリア」
「はい」
少しの拒絶も見落とさないように、マティアスは青く澄んだ目を真っ直ぐに見る。
「貴女が嫌でなければ、昨日俺が乱暴に触った場所に、もう一度触れたい」
リリアは少し驚いた顔をしたが、にっこりと笑んで両手を広げ、マティアスを迎えた。
「どうぞ」
寝台にあがり覆いかぶさると細いかいなで優しく抱き止めてくれた。
少しの間抱きしめてから、マティアスは上半身を起こす。
整った輪郭をなぞってそっと頬を撫でる。色白の小さな顔を掌で包むと、リリアの長い睫毛がゆっくり閉じた。マティアスは瞼や頬に何度かキスを落としてから、己の唇をリリアの桜唇に軽く重ねる。
「大人のキスはしないのですか?」
「……どこで覚えてくるのか知らないが、そういうのは、惚れ合った相手とするものだ」
苦笑いして軽く額を擦り合わせる。耳朶を優しく撫でていた指を首筋を伝わせて胸元へ運び、するりとリボンを引く。
されるがままに肩を浮かせるリリアの上半身を軽く抱き上げ、寝衣のリボンを鳩尾まで解く。胸元から肩をなぞるように寝衣を開く。明け方には紅かった鬱血痕が痛々しく紫色に変色していた。
あらわになった胸の間を胸元から鳩尾までそっと確認するように大きな掌を伝わせる。透き通るような新肌の手触りが気持ちよく、名残惜しさに手が吸い付いた。
「痣は触れても痛くないか」
「押されると少し痛いですけど、大丈夫ですよ」
「そっと触るようにするから、じっとしてて」
雪肌を汚す紫色の痕を指で優しく辿ってから、マティアスはゆっくりとひとつずつキスを落としていく。
最後のひとつへのキスを終えると、マティアスはもう一度、先ほどより長くリリアと唇を重ねた。
リリアは恥ずかしがる様子もなく、マティアスの愛撫を黙って受け入れていた。
寝衣を戻してリボンを結び直す。
湿布の貼られたリリアの両腕を撫でてからその手をとり、両の甲を揃えて口づけた。
「………ありがとう」
「はい」
両手を繋いだまま、マティアスはリリアを見つめる。
「嫌じゃなかったか」
「嫌じゃないですよ」
真っ直ぐに見つめ返してくるリリアの表情に嘘はないように思う。少しほっとして肩の力が抜けた。
リリアと出会えたことは幸運だった。
リリアは務めだから嫌ではないと言うのだろうが、本当なら今したようなことも、愛し合った相手とだけしてくれればと思う。
今したことは、マティアスがリリアから奪ってしまったもの。
残りは全て、リリアの想う男に―――いや、
リリアに返す。
.
0
お気に入りに追加
127
あなたにおすすめの小説
そろそろ前世は忘れませんか。旦那様?
氷雨そら
恋愛
結婚式で私のベールをめくった瞬間、旦那様は固まった。たぶん、旦那様は記憶を取り戻してしまったのだ。前世の私の名前を呼んでしまったのがその証拠。
そしておそらく旦那様は理解した。
私が前世にこっぴどく裏切った旦那様の幼馴染だってこと。
――――でも、それだって理由はある。
前世、旦那様は15歳のあの日、魔力の才能を開花した。そして私が開花したのは、相手の魔力を奪う魔眼だった。
しかも、その魔眼を今世まで持ち越しで受け継いでしまっている。
「どれだけ俺を弄んだら気が済むの」とか「悪い女」という癖に、旦那様は私を離してくれない。
そして二人で眠った次の朝から、なぜかかつての幼馴染のように、冷酷だった旦那様は豹変した。私を溺愛する人間へと。
お願い旦那様。もう前世のことは忘れてください!
かつての幼馴染は、今度こそ絶対幸せになる。そんな幼馴染推しによる幼馴染推しのための物語。
小説家になろうにも掲載しています。
初夜に「俺がお前を抱く事は無い!」と叫んだら長年の婚約者だった新妻に「気持ち悪い」と言われた上に父にも予想外の事を言われた男とその浮気女の話
ラララキヲ
恋愛
長年の婚約者を欺いて平民女と浮気していた侯爵家長男。3年後の白い結婚での離婚を浮気女に約束して、新妻の寝室へと向かう。
初夜に「俺がお前を抱く事は無い!」と愛する夫から宣言された無様な女を嘲笑う為だけに。
しかし寝室に居た妻は……
希望通りの白い結婚と愛人との未来輝く生活の筈が……全てを周りに知られていた上に自分の父親である侯爵家当主から言われた言葉は──
一人の女性を蹴落として掴んだ彼らの未来は……──
<【ざまぁ編】【イリーナ編】【コザック第二の人生編(ザマァ有)】となりました>
◇テンプレ浮気クソ男女。
◇軽い触れ合い表現があるのでR15に
◇ふんわり世界観。ゆるふわ設定。
◇ご都合展開。矛盾は察して下さい…
◇なろうにも上げてます。
※HOTランキング入り(1位)!?[恋愛::3位]ありがとうございます!恐縮です!期待に添えればよいのですがッ!!(;><)
夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました
氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。
ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。
小説家になろう様にも掲載中です
【完結】番(つがい)でした ~美しき竜人の王様の元を去った番の私が、再び彼に囚われるまでのお話~
tea
恋愛
かつて私を妻として番として乞い願ってくれたのは、宝石の様に美しい青い目をし冒険者に扮した、美しき竜人の王様でした。
番に選ばれたものの、一度は辛くて彼の元を去ったレーアが、番であるエーヴェルトラーシュと再び結ばれるまでのお話です。
ヒーローは普段穏やかですが、スイッチ入るとややドS。
そして安定のヤンデレさん☆
ちょっぴり切ない、でもちょっとした剣と魔法の冒険ありの(私とヒロイン的には)ハッピーエンド(執着心むき出しのヒーローに囚われてしまったので、見ようによってはメリバ?)のお話です。
別サイトに公開済の小説を編集し直して掲載しています。
破滅を突き進めば終わると思ってた悪夢の様子がなんかおかしい。
秋野夕陽に照山紅葉
ファンタジー
悪役令嬢にことごとく死亡オチを与えるクソゲーの恋愛ゲーム世界に、気がついたら悪役令嬢として強制的に参加させられている私。
死んでも死んでも、また別ルートの断罪イベントが始まる悪夢。
全てのエンディングを迎えれば、この悪夢は終わるかも…と必死にエンディングをこなしてきたけど、既定のエンディングを終わった途端、いろいろ攻略キャラの様子がおかしいオープニングが始まって…??
え、まさかまだ続くの?
※一旦、完結しました
愛されない皇妃~最強の母になります!~
椿蛍
ファンタジー
愛されない皇妃『ユリアナ』
やがて、皇帝に愛される寵妃『クリスティナ』にすべてを奪われる運命にある。
夫も子どもも――そして、皇妃の地位。
最後は嫉妬に狂いクリスティナを殺そうとした罪によって処刑されてしまう。
けれど、そこからが問題だ。
皇帝一家は人々を虐げ、『悪逆皇帝一家』と呼ばれるようになる。
そして、最後は大魔女に悪い皇帝一家が討伐されて終わるのだけど……
皇帝一家を倒した大魔女。
大魔女の私が、皇妃になるなんて、どういうこと!?
※表紙は作成者様からお借りしてます。
※他サイト様に掲載しております。
「あなたのことはもう忘れることにします。 探さないでください」〜 お飾りの妻だなんてまっぴらごめんです!
友坂 悠
恋愛
あなたのことはもう忘れることにします。
探さないでください。
そう置き手紙を残して妻セリーヌは姿を消した。
政略結婚で結ばれた公爵令嬢セリーヌと、公爵であるパトリック。
しかし婚姻の初夜で語られたのは「私は君を愛することができない」という夫パトリックの言葉。
それでも、いつかは穏やかな夫婦になれるとそう信じてきたのに。
よりにもよって妹マリアンネとの浮気現場を目撃してしまったセリーヌは。
泣き崩れ寝て転生前の記憶を夢に見た拍子に自分が生前日本人であったという意識が蘇り。
もう何もかも捨てて家出をする決意をするのです。
全てを捨てて家を出て、まったり自由に生きようと頑張るセリーヌ。
そんな彼女が新しい恋を見つけて幸せになるまでの物語。
キャンプに行ったら異世界転移しましたが、最速で保護されました。
新条 カイ
恋愛
週末の休みを利用してキャンプ場に来た。一歩振り返ったら、周りの環境がガラッと変わって山の中に。車もキャンプ場の施設もないってなに!?クマ出現するし!?と、どうなることかと思いきや、最速でイケメンに保護されました、
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる