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第四章 幼な妻との離婚危機
06
しおりを挟む王都の西部、城郭近くのエルム地区には、工房が立ち並ぶ一角がある。平民を相手に商う職人には裕福な者は少なく、この辺りは夜になると治安が悪い。
「ほんとに、母上はこんなところに診療所を建てたのか?」
「ワグナーはそう言ってた。
慈善事業のターゲット層が今までとだいぶ違うなぁ。この辺の貧乏人からの評判を上げても、あんまりイリッカ様にメリットない筈なのに」
イリッカが新しく始める慈善事業は平民用の診療所だった。執事のワグナーに確認させたところ今は医者はおらず、薬師が三人で対応しているらしい。
イリッカは慈善事業を始める時には社交界でも広告するのが常なのに、既に運営が始まっている診療所について殆ど噂を聞かないことも奇妙だった。
少し離れたところに件のバクーラ宗派の中心教会がある。マティアスとアーネストは、リリアが関わっているという診療所の様子を見るついでに、教会の外観だけでも確認しようと官服のままエルム地区に足を伸ばしていた。
勾配の強い細い路地裏を抜けると、この辺りでは珍しく大陸共通語が聞こえてきた。
「―――何言ってるのか、分かんないって言ってるでしょ!」
共通語でそう叫ぶ女性の声にヴィリテ語の怒声が被る。何人かの男女が、大きな荷物を持った赤毛の大柄な女性に詰め寄っていた。
「お前、最近出来た診療所の薬師だろ! 司教様に何の用だ!」
「貴族なんかのところで働くなんて、神罰が下るわよ! 悔い改めなさい!」
「教会の評判を落とすために偽物の薬を配ってるって司教様にはお見通しなんだ!」
「不気味な色の髪ね、悪魔付きに違いないわ!」
「地獄に落ちるわよ!」
「何の騒ぎだ」
マティアスが声をかけると騒いでいた人々はぴたりと動きを止める。
「お役人様」
「いえ、その、この女が怪しい薬をばら撒いてるもんで」
「訳の分からない言葉を喋るし」
ばつが悪そうに口籠もる。第三者から見れば褒められた行動でないという自覚があるのだろう。
「そうか。貴方たちでは言葉が通じないようだから、俺が確認しておこう」
マティアスがそう言うと、人々は獲物を横取りされたハイエナのように散り散りにいなくなった。
マティアスは赤毛の女性に向き直り、共通語で問う。
「大丈夫か?」
理解できる言葉に、女性はぱっと表情を明るくした。
「ありがとう!」
強い巻き毛が元気の良い声に良く似合っている。
「言葉も分からないし、絡まれちゃって大変だったの」
「どこの国民だ? 名前は?
この辺の住人にしては服が上等だな。
彼らが怪しい薬をばら撒いてると言っていたが、ここで何をしてる」
「いっぺんに色々聞かないで!
私はルチア。リールリロア人よ。この間からすぐそこの診療所で働いてるの」
「ヴィリテ語を喋れないのに?」
「そうなのよ。困っちゃうわよね。
イリッカ様のところから来た手伝いのコと、薬師のコたちが通訳してくれるからなんとかなってるけど」
どうやらイリッカの診療所の人間で間違いないようだ。
リールリロアは大陸の南の半島を占める海洋国家だ。ヴィリテとは隣接していないため、移民を見ることは少ない。
彼らが薬師と言っていたが、言葉が分からないでは問診はおろか、簡単な雑用も覚束ないのではないか。
同じことを思ったようで、アーネストが質問する。
「ヴィリテ語が話せないのに、どうやって雇ってもらったの?」
「カダール風邪の薬の調合を教えて欲しいって呼ばれたのよ」
「カダール風邪、薬があるの?」
「まだ確立されてないけど、個人的な感触としては、効くと言っていいと思うわ」
ルチアは自慢気に背負った荷物を示してみせる。
カダール風邪は栄養状態の悪い者がよく罹る。貧しい住民の多いエルム地区は罹患率が高いと予想されている地域のひとつだ。一度罹ると薬はなく、体力の無い者はそのまま肺炎を起こして死亡することもある。
貴族の中でも風邪をひきやすい者は戦々恐々としており、その薬があるとすれば、それはまさにひとつの宗派の趨勢を左右するほどの事件なのだ。
ルチアは驚いているマティアスたちを品定めするように見回した。
「ねぇ、ところで、あなたたち、独身?」
「俺は既婚者だ」
「もう! せっかく王都に来たのに、良い男はだいだい売却済でやんなっちゃう!
そっちのあなたは!?」
「俺は独身だけど今は恋人は三人いるから募集してない」
「最低」
「なんでお前が刺されないのか理解に苦しむ」
「人徳かな?」
しゃあしゃあと言って、アーネストが質問を続ける。
「その薬は、バクーラ宗派が教会で配ってるのとは別のものなんだよね?」
「同じものになるわ」
「同じなら効かないんじゃないの?」
「今その教会に私の薬を届けてきたの。だから同じものになるわ」
マティアスとアーネストは顔を見合わせた。イリッカがバクーラ宗派と繋がっているのだろうか。
「……それはイリッカ様の指示?」
「多分反対されるって言われたから、イリッカ様には話してないわ。
―――ねぇ、貴方たち、何者? そんなこと聞いてどうするの」
マティアスはアーネストをちらりと見てから身分を明かした。
「イリッカ・ヴィリテは俺の母だ。
あの教会は、効かない薬を配って信者を集めていると噂がある。母が関係してるなら尚更確認する必要がある」
ルチアが驚いたように眉を上げる。
「役人じゃないの」
「役人でもあるな」
「ほんとにイリッカ様の息子?
じゃあ、リリアちゃんを知ってる?」
「リリアは俺の妻だ」
目を見開くルチアの口から聞き取れない単語が漏れる。恐らくリールリロア語なのだろう。
「何故リリアを知ってる」
「知ってるわよ、何度か診療所にも顔を出してくれたし、………貴方こそ、リリアちゃんの夫なら、なんでさっき答えたような事も知らないの?」
鋭い指摘が耳に痛い。
アーネストが後ろから茶々を入れた。
「夫婦喧嘩中だもんなー」
「………喧嘩はしてない」
「夫婦喧嘩なんて、立場の強い方から折れなきゃ収まらないわよ。愛してるよってハグして赦しを乞いなさい」
ルチアの真面目顔のアドバイスに、マティアスは苦い顔をする。
「その話はいい。
薬代は、母の予算から出てるんじゃないのか。何故それを教会に寄進してるんだ」
「代金は受け取ってるわ。
それに、あっちにはいくつもカダール風邪の死亡記録があるし、今悪化しつつある患者もいる。様々なステージの患者に薬を投与した記録をとってデータをくれる約束よ」
「カダール風邪の本物の薬だと分かったら、金持ちの常備薬として転売されるんじゃないのか」
「それが判明したら、司教の裏金を役人にバラすってリリアちゃんが―――交渉行った時にリリアちゃんが付けてくれた護衛のコが釘刺してくれたわ」
「……もしかしてリリアの発案なのか?」
「そうよ。
診療所開けたのに、あの司教が私のことをエセ薬師呼ばわりするものだから、信徒が鵜呑みにして診療所に来ないの。
信徒に薬を届けるには教会から配ってもらうしかないって」
「―――でも、今まで紛い物を配っていたことがあやふやになるだろう。それでは悪質な宗派を増長させる」
「そんなの、私が知った事じゃないわ!」
ルチアはマティアスたちを睨め付ける。
「エセ宗教の取り締まりなんか、あんたたち役人の仕事でしょ。
私は研究者だけど、その前に薬師なの。
手の届くところに病人がいて、助ける方法があるのにそれをしないなんて選択肢はないわ」
「………貴女のことを、悪魔付きと罵る相手に、腹は立たないのか」
「ムカつくわよ! エセ薬師呼ばわりが一番ムカつくわ!」
「じゃあ何故」
マティアス自身も自分に好意的かどうかで民を区別することはないが、それは王族としての判断だ。個人的な場面では好ましい相手と好ましくない相手はいる。ルチアの行動は、一介の民間人としては違和感を覚える。
不思議そうなマティアスを見て、ルチアは呆れたように言った。
「―――あなた、なんにも知らないのね。
ムカつく相手なら見殺しにしていいなんていう人間は、薬師とは呼ばないの」
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