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第一章 幼な妻の輿入れ
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しおりを挟む北領の一部であるアルムベルク領の南端には、領内では比較的温暖な地域がある。
その一角には古い学舎があり、その歴史は八百年とも九百年とも言われる。歴史と共に現れては消えた五つの王国の下で、奇跡的に一度の破壊も受けず市民と共にあり続けた。
特段の産業もないアルムベルクが誇る学園と、それに併設された植物博物館。
公爵邸にも近いそれらは、現王国が旧王国を滅ぼした百八十年前からはアルムベルク家が代々守り続けてきた知識の泉であり貯蔵庫であり―――領地経営にとっては金食い虫であり、リリアにとっては学園こそが故郷であった。
お人好しの父は豪商が借用書に違法スレスレの附則を付けたことに気づかず、二年後から橋や堤防の修繕が滞るようになり、五年後には元金の返済が滞るようになった。
公爵家の一員ではあっても未だ幼いリリアに出来ることはなく、学園の解体の決定に呆然としていたとき、王都から遣いが来たのだ。
曰く、実質領地を王弟家に移譲するならば借金は一括で肩代わりするし、領地経営はマティアス殿下が行うため、リリアが殿下の寵を得られれば学園の存続も十分あり得る、と。
「……確かにアルムベルク領は、名目は俺が統括することになっている」
目の前の殿下は苦い顔で脚を組み直した。
リリアの話した内容が初耳だったのだろう。
「お優しいのですね」
そういう言うと、殿下はきょとんとこちらを見た。
「優しい?」
「殿下は、わたくしに構うつもりが無ければ放置することもできた筈です。なのに最初にわざわざ断りを入れられて、今も、赤の他人のわたくしを気遣ってここにいらっしゃる」
「赤の他人じゃない。妻だ」
生真面目に答える青年の黒い髪に月光が差して、ほのかに青味がかっていたのだと気づく。
「……その、俺には理解し難いのだが、学園とは大学のようなものだろう?
母校が無くなるのは寂しかろうが……貴女のような幼い人が嫁いだり食事がとれなくなったりするほどのことか?」
真っ直ぐな質問に、善良な人だな、と思う。
そして、分からない側の人だ。
「……今、俺には言っても分からないと思っただろう」
「そんなことは」
「分からないから聞いている。初日の俺の態度が悪かった所為だろうが、改めるので貴女もちゃんと説明して欲しい」
十も年下の格下の娘に対等に会話する青年はとても好感が持てた。
「……母校だから、ではありません。
学園は、九百年の人類の知識が地層のごとく積み重なり、交錯し、歴史を刻む、それ自体が学術の結晶です。特に歴史と博物に於いて学園の存在意義は他の追随を許しません。
学園の書架には八百年前からの書物が原型を留めて残されています。時の為政者が交代するたびに市井の書架は焚書の憂き目に遭いましたが、学園の司書たちはその命を賭けて書架を隠し通しました。そのおかげで今の私たちがその時々の世間に流布した思想を知ることができるのです。
植物博物館もそうです。戦時中、食べるものすらない状況下で、植物サンプルを守りながら飢えて死んだ先人たちの残してくれた財産です。
数学や物理学では、優秀な頭脳さえあれば学問は進むことは出来ますが、人が死んでいく生き物である以上累積された知見はやはり必要なのです。殿下は、五年前発見された数学法則をご存知ですか?あれも今年に入ってから学園の司書により、既に四百年前の数学者が―――」
眉を寄せて睨むようにこちらを見ている殿下に気づく。
「殿下?」
「……あ、すまない、途中からよく聞いていなかった」
「……………」
………正直でいいと思う。
以前は理解出来なかったが、人には分かる価値と分からない価値があるのだ。
何も学ばない人間にものの価値が分からないのとは別に、人それぞれに心を打たない分野、というものがある。
それは良し悪しではなく個性というものだ。
―――だから、分かって貰えないことは、リリアの説明が悪い訳でも、殿下の理解が悪い訳でもない……。
「二年間、十五億では全然足りないか?」
「はい?」
眉を寄せたまま殿下はそう投げてきた。
「国家事業に値するものなら、今年の予備費が二十億余っていた筈だ。六億河岸工事で使う見込みだが、年度末が近いし他に何もなければ残りは説得できるかもしれない。
俺の個人資産ですぐに動かせるのは一億が限界だ。領の経営が落ち着いてきたら少しずつ返してもらう。
大学のようなものなら、二十五億なら再来年から予算を付けることは簡単じゃないが不可能じゃないと思う」
「なに……」
「来年は今からじゃもう無理だ。
運が良ければまた予備費が余るかもしれないが、運任せで計画する訳にはいかないだろう。
二年間、十五億じゃ全然足りないか?」
「……なんのお話……」
「人類の財産を残す金の話だ」
「え……」
この人は何を言ってるんだろう。
だいたい、痛いお腹を二日抱えてやっと諦めつつあるところなのだ。
「い……一年、七億五千万……じゃあ、学園の活動には、全然足りません……」
「そうか」
深い絶望のなかで光をちらつかせられて、婚礼準備の教育は覚悟していたよりもかなり厳しく、半年間血尿が出るほど頑張って、いざ嫁いだら知らないと言われた。
それを、
「……でも、たぶん、殆ど活動停止して、二年間維持するだけなら、十億あれば……」
「再開できるか?」
「できる…と思います…中断できない研究もあるから、もうちょっとかかるかもしれない、けど……」
磨り潰して諦めたつもりになっていた希望を、
「そうか。じゃあ明日父上と宰相に泣きついてくる」
「………………
…………ほんとに……?」
「こういう嘘をつくほど悪趣味じゃない」
何が起こったのかよく分からない。
信じていいのか。
今度ひっくり返されたら、きっと自分は潰れてしまう。
冷静に判断しなきゃ、
でも頭が全然動かなくて
視界はぼやけてくるし心臓は痛いし
「……し、信じて、いいの……?」
「信じていい」
きっぱりと答えてくれた殿下の声で、
―――リリアは半年ぶりに声を出して泣いた。
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