運命の女

花鶏

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ノアの事情 02

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 自室への廊下をとぼとぼ歩いていると、通りかかった談話室から同僚たちが明るく談笑する声が聞こえてくる。

「なんで浮気する男って、自分は嫁に隠れて外でヤってるのに、嫁は貞淑に自分のこと待ってると思えるのかしらね」
「それな。不倫する男の数だけ不倫する女がいるのに、あいつらの中で算数どうなってんの」
「こないだスミス様もねぇ、娘さんが吟遊詩人とこっそり会ってたのをふしだらなってご立腹でね。『スミス……スミスよ……今、そなたのやってることはなんなんだい……?』って喉まで出かかっちゃったよぉ」
「えー、それ、挿れながら?」
「そう! 娼婦に腰振りながら! 娘のデートに! 『ふしだら』!」

 きゃはは、と楽しそうな同僚たちの笑い声から隠れるようにノアは階段側へ移動する。ファムファタルの女性は気さくで、見つかればきっと声をかけてくれる。今はあの明るい空気に混じる元気はなかった。

「一途な男いいよねー。ノアの、勇士様みたいな!」
「分かるー」
「アイリーン、よく甘えられてるけど、恵まれてるのに泣き言ばっかりでイラッとしない?」

 アイリーンの名前が聞こえて、びくりと肩が浮いた。

「んー? ノア、可愛いから、好き」

 こほこほと小さく咳き込みながらアイリーンが穏やかな声で応じる。アイリーンは影で悪口を言う人ではないと信じているが、実際にそれを聞くと嬉しくて目頭が熱くなる。

「可愛い? 正直、……その、そんなに可愛くないのにずるいって思っちゃう。私も勇士様みたいな固定客、欲しいー」
「エヴァが神様にきれいな顔を貰ったみたいに、ノアは神様に竜瘴の耐性を貰ったの。ずるくないよ」
「アイリーンは優しいからそんな風に言えるのよ」
「エヴァも、着ないドレス、ノアにあげてるじゃない。優しいエヴァも好き」
「えっ、誰がそんなこと」
「ノアが嬉しそうに言ってた」
「えっ、なんで、こっそり置いといたのに、ノア、なんで知ってるの!?」
「えー。エヴァ、いいやつ!」
「う、うるさいわね、捨てるのももったいないから、押し付けただけよ!」

 楽しそうな声から逃げるように、ノアはそっと階段を登る。自室の扉を静かに閉めて、大きく息を吐いた。

 ファムファタルの女性たちは優しい。
 その優しさを引き出しているのはアイリーンだと思う。ファムファタルの敷地は広く、娼婦は必要最低限しか敷地内から出ない。アイザックに呼ばれる度に外出するノアに嫉妬が湧き上がったときも、みんなを宥めてくれたのはアイリーンだった。

 鞄をソファに置いて、裏口で使用人から受け取った手紙を開く。ざっと目を通してから燭台の蝋燭をつけて燃やした。

 近頃仕事をしなくなった父と、それを詰る母から、ノアの献身を讃えた金の無心の手紙が届く。ノアを売った金だけでも五年は暮らせるはずなのにどこへ消えたのだろうか。ノアには身なりを整える以上の金額は渡されない契約で売り払ったことを忘れてしまったのだろうか。
 弟妹のために細々と節約して仕送りしていたが、遠方の家族に金を送るのはそれなりに信用のおける商人に頼むしかなく、その手間賃もばかにならない。
 妹たちは「汚い」と言って差し出された封筒を叩き落としたらしい。あの田舎の若い娘の感覚では仕方のないことだ。気の良い商人は、もう送る必要はないんじゃないかとノアを心配してくれた。
 末っ子のニールは小さい頃から賢く、学校を卒業して商家の下働きになれたらしい。下の妹ももうすぐ十七になる。もうノアが守らないといけない人間はあの家にはいない。ノアは今年いっぱいで実家とは縁を切ると決めていた。

 手紙が灰になり、部屋に紙の燃えた臭いが籠る。換気をしようと小さな窓を開けると冷たい風が吹き込む。急に降り出した雨が窓辺を濡らし、慌てて窓を閉める。飾り棚がカタリと音を立てた。

 アイザックが遠征の土産にくれた謎の木彫りの人形が倒れている。起こすついでに小物たちの位置を整える。
 アイザックが買ってくれた謎の首飾り。
 アイザックが買ってくれた謎の髪飾り。
 あと、謎の、ほんとこれなんだろう。置物?

 毎回笑ってしまうノアに、良いと思ったんだけど、と頭をかくアイザックの姿が思い出されて口元が綻ぶ。
 遠くにいるときにノアのことを考えてくれていたと思うと嬉しかった。

 涙があふれて頬を伝い、床の木目に染みを作る。

 喉から漏れる嗚咽を両手で押さえ込もうとするが上手くいかず、クッションに顔を埋める。それでも漏れていた嗚咽に、廊下を歩く足音が止まった。

「ノア?」

 ノックと共にアイリーンの声がする。

「ノア、ごめんね、開けるよ?」

 勉強机の燭台だけが灯された暗い部屋に廊下の光が伸びる。

「大丈夫?」

 心配そうに覗き込むエメラルドの瞳に、ノアの張り詰めていた糸が切れた。

「アイリーン」

 震える声で天使のような名前に縋る。

「アイリーン、私、仕事、つらい」
「……うん」
「お客さんのこと、嫌いじゃないけど、身体触られるの、気持ち悪い」

 アイリーンの細い肩に縋る。

「平気なときも、あるの。
 そのうち慣れるって思ってたけど。でもだめなときは、どうしてもだめ。自分が、汚い生き物にしか思えない」
「汚くないよ。ノアは、お仕事、向いてないのよ」

 アイリーンが美しい手でノアの頭を抱く。押し付けられた豊かな胸が柔らかくノアの顔を包む。ノアに、人と肌を重ねることの気持ち良さと気持ち悪さを教えてくれた温かい身体。
 ノアは泣きじゃくりながら愛情深い女の背中を抱きしめる。

「アイリーンのことも、汚いって、思う。つらい。私が汚いのはもう諦めた。でも、アイリーン、アイリーン、あなたをそんな風に思う私なんか、消えればいい。つらい……」

 あなたはこんなにも美しく、尊いのに。



 アイリーンの胸でひとしきり泣いたノアは厨房の喧騒で目を覚ました。慌てて時計を見ると、まだ開店時間まで余裕がある。
 泣き疲れたままソファで眠ってしまったようだ。部屋はひやりと寒く、小さな窓の外はまだ雨が降り続いている。

 肩にかかっていたアイリーンのショールを手繰り寄せて、のろりと鏡台に移動する。照明を灯すと、目元の腫れたぱっとしない女が鏡の向こうからこちらを見ていた。せっかく化粧士に施してもらった化粧がひどいことになっている。

 平凡な顔。
 とてもファムファタルのような高級娼館にいる女には見えない。

 化粧台にアイリーンの化粧道具が置いてある。暴言を吐いたノアのために、わざわざ置いていってくれたのだ。彼女は泣いている人間を見捨てることができない。
 募らずとも次々と希望者がくるこの娼館で、女を買ってきたのはノアが初めてのようで、美しくもないのに優遇されるノアはアイリーンがいなければ爪弾きにあっていたはずだ。

 ファムファタルでは店の評判を落とさず売上を上げていれば勤務は自由であり、ノアはアイザックの落とす金で、つらい時には仕事に出ないことができていた。

 アイザックはもう、呼んでくれないかもしれない。もう今までのような甘えは許されない。


 慣れてくれば、心が鈍くなって割と平気な日もある。
 今日はそうじゃない。

 心の中に、固い扉を描く。

 その扉を静かに閉じる。
 嫌だ嫌だと泣きじゃくる自分が、闇の中に消える。

 からっぽの自分という器に、アイリーンのくれた『娼婦ノア・ハートリー』を注ぐ。


 さあ、仕事の時間だ。



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